木漏れ日の揺らめく中を静かに踊る人影がある。虚空へと手を伸ばすその人は、目に見えない何かに促されているようにも見える。踊り終わると、公園のベンチに座る一人の男とふと目が合い、かすかに頷きあう。踊っていた人の姿は、その男にしか見えていないのだろうか。
物語のプロフィールの多くが伏せられたままクライマックスに至る映画「PERFECT DAYS」の中で踊るのは、かつて松岡正剛と『影向』で共演した田中泯だ。
■物語のはじまり
日本における物語の「もの」とは、かつては影向のような気配を指していたのかもしれない。
千夜千冊第1571夜 紫式部『源氏物語』には、こんなふうに書かれている。
古代語においては「もの」は「霊」でも「物」でもあるものです。「ものものし」といえばなんだか霊っぽいものと物っぽいものが一緒に動いているようなことを言いますし、「ものすごし」といえば名状しがたい霊物渾然たる力のようなものを言う。このような「もの」はあれこれの具体的な事物のことでなくて、対象があからさまにできない「もの」たちです。今でも「ものさみしい」とか「ものしずか」と言いますが、これって、そのへんに置いてある物が寂しかったり、調度や家具が静かだったりするわけではありません。・・・そういう「もの」が古代では「畏れ多いもの」と結びついていた。・・・たとえば、三輪のオオモノヌシがそうした「もの」の大神でした。・・・こういうオオモノヌシのような「もの」は包括力そのもののようなので、分解できません。また容易に触れることもできません。いわば「稜威なるもの」なのです。稜威というのはあまりにも畏れ多い威力があるので、なんら説明がつかない神威を感じる状態をあらわす格別な言葉です。
「もの」が語る「ものがたり」。日本の物語の源にある「もの・がたり」は、神や祖霊のかたりごとだったという。
日本における物語の歴史はもともとが「もの・がたり」と「うた・がたり」でできています。古来の「もの・がたり」は神謡のなかの、ノリトとヨゴトの間から発生してきたものです。ノリト(祝詞・詔詞)は神が一人称で語る無時法の呪言のようなもので、ヨゴト(寿詞)はその神に託して語られた言霊でした。いずれも「もの」の霊力を衰えさせないで漲らせるためのメッセージです。つまり当初においては神や祖霊のような「もの」による「かたりごと」が先行してあったのだろうと思います。けれども、その古代的な神や祖霊が時代がすすむにつれて「正体がわからないようなもの」になってきた。フルコト(古事)も忘れられたり、あまり使われなくなったりしていったのです。・・・こうした変遷のなか、ノリトやヨゴトの「神々しさ」と「縛り」がふたつながら薄れていって、そこに「もの」を「人」が語ったかのような、いわば人為劇な「もの・がたり」の枠組が発生してきます。
神や祖霊の一人称の「もの・がたり」は、やがて二人称や三人称となり、「人」による物語化へとすすむ。神から人へとうつろった物語の舞台。この二つの世界はもともと合わせ鏡だったという。
■物語のうつろい
いまや国際関係や地球環境といった大きな次元から、政治や経済、文化やスポーツ、子どものごっこ遊びに至るまで、そこに関与するすべての意味や話題が成立するための枠組として、さまざまな「世界」を私たちは生きている。だがそのおおもとを辿れば「ここ」と「むこう」があった。
最初の二つの世界とは、何か。いわゆる「この世」と「あの世」である。私はこれを“here”(ここ)と、“there”(むこう)とよんでいる。最初のワールド・モデルは「あの世」(“there”)を構想することでつくられた。死者の国であり、根の国である。それらの国はユートピア、天国、浄土、アルカディア、桃源郷、アトランティス、エルドラド、シャンバラなどというキラキラした言葉の美化をうけて、すべてむこう側(there)の仮想世界として編集されていった。
ついで、この仮想世界のモデルにもとづいて「この世」(here)の世界が次々に設計された。「ここ」から「むこう」へではなく、「むこう」から「ここ」が類推されたのだ。こうして、エジプトのピラミッド、中東のミナレット、スカンディナヴィアのイグラドジッドが、ギリシアのアクロポリスや長安の都や円形都市バグダッドが、また、祇園精舎やクリュニュー修道院や東大寺やボロブドゥールなどが建設された。
(松岡正剛著『知の編集工学』朝日新聞出版)
松岡正剛著『分母の消息(五)――物語の庭園』(デジタオブックレット)によれば、神殿は「世界」を定めて伝承する物語の再生装置だったという。
ただし、神殿の外部や内部に物語が直接に刻まれていたのではなく、そのなかで物語を喚起できるようなコンフィギュレーション(図形配置)がおおざっぱに構成されていた。そのころは、物語はそこでおこなわれる祝祭そのものが再生した。・・・物語というもの、こうした神殿の増設につぐ増設とともに、その施設でおこなわれる祝祭のための「体でおぼえるシナリオ」に、それぞれの時代に応じて少しずつ貯められていったのである。それとともに祝祭のさまざまな細部はしだいに神殿の各部に対応し、結局は神殿構造そのものが物語の一大データベースとなっていったのだ。・・・ホメロスの記憶に刷りこまれた歌物語の数々は、当時は「メガローン」とよばれた建造物のコンフィギュレーションによってのみ、ホメロスの記憶に刻まれたのである。・・・建築物が語り部の“歌詞カード”だったのである。
ところが、「むこう」の世界を擬いて築かれてきた多様なワールド・モデルは、長い年月を経て、やがて資本主義やグローバリズムのもと、一様な物語を描き始める。
イマニュエル・ウォーラーステインの史的資本主義論によれば、この(資本主義の発展と実験のための)シナリオは十五世紀にヨーロッパ経済体が確立した「世界システム」に始まるもので、その中身は「万物の商品化」と「金融の覇権化」を両輪にしていた。つまりは、資本主義世界の「勝ち組」のための世界システムをワールド・モデルとするシナリオがほぼすべてを吸収していったのである。(松岡正剛著『知の編集工学』)
このことを同書では「世界モデルが摩耗している」と言い表し、警鐘を鳴らす。『物語編集力』(松岡正剛監修・イシス編集学校構成 ダイヤモンド社)には、このように書かれている。
そもそも物語というものは、一神教は一神教の母型(マザー)をもって、多神多仏は多神多仏の母型をもって、また地域社会には地域社会の原型や類型や典型をもって物語を想像し、再生し、蘇生していかなければならないのです。ところがそれがレーガンやサッチャーの時代あたりからのことですが、たったひとつの物語をめぐる善悪や是非や効率の問題になってしまったようなのです。
利潤や利便性や合理化をめざす現代の物語は、私たちのごく身近な社会や私的空間にも浸潤している。
いったい家庭は何をおこせばいいところなのですか。学校はどんな生徒や学生を生み出せばいいんですか。ふるさとや隣り近所は何を物語として伝えていくべきなのですか。ここにはかつての江戸時代のような多様性がまったく失われています。・・・これは、人々や地域や時代がもつべき物語はもっと多様であるべきだということを示しています。それには、物語というものがもつ共生的な同質性と横断的な異質性をもっと体にしみ込ませていくべきなのです。
人類が共通してもつ記憶と再生の枠組をもとに、私たちが切実で多様な物語を自由に語り直すことは、自分の拠って立つ場を辿り直すことでもある。そうやって新たなワールド・モデルを提案し、これまでにない価値を創造するための方法――それがイシス編集学校で学ぶ物語編集力である。
■物語の道行き
ISIS FESTAスペシャル「『情報の歴史21』を読む」第三弾に登壇した江戸文化研究家の田中優子氏は、大切なのは、一人ひとりが情報を物語として語り直すことなのだと講義の中で説いた。『情報の歴史』はできごとのクロニクルだ。整然と並ぶ歴史情報のどこに注意のカーソルを当てて、どのように関係づけて物語り、評価するのか、ということができるのが人間という主体なのだと田中氏は述べ、松岡正剛著『情報の歴史を読む』(NTT出版)にある次の一節を紹介した。
無秩序から秩序をつくりだすこと、これが生命活動の特徴です。そして、そのような秩序をつくることが情報の本質的な動向だということになります。・・・情報とは結局、「でたらめさ」の中になんとかオーダーを見つけようとする動向のことなんですね。
『情報の歴史』が無秩序から秩序をつくりした一つの生命活動だとすれば、そこからさらに自分なりのオーダーや物語を見出して評価していくことが、過去を自分に役立て、生かしていくために重要だというのである。
『知の編集工学』によれば、私たちのアタマの中のニューロン・ネットワーク上には「物語回路」ともいうべき編集力が備わっているという。それはどのようなものなのだろうか。
田中氏は、先ほどのイシスフェスタスペシャルの一夜で、いとうせいこう氏の印象深い言葉を紹介している。私たちは夜見た夢を人に語ることがあるが、いとう氏によれば、じつは何かストーリーのあるものを夢見ていたのではなく、夢の断片を記憶からひきだすときに辻褄を合わせながら物語を紡いでいるのではないかというのだ。田中氏は、私たちは記憶を語るときにも同じようなことをやっているのだと、いとう氏の言葉を敷衍して語った。
■物語のあわい
日本語の「わかる」と「わけ」が同じ語源をもつように、人間には、起こったことの説明や原因を知りたいという衝動があり、因果関係が明らかになれば気持ちが落ち着く。認知神経科学者のマイケル・S・ガザニガは、人間の脳の左半球では解釈機能がはたらいているという説を唱えている。原因と結果の結びつけ方は、複雑な情報の網の目から取り出した、そのときどきの一つの解釈であり、辻褄合わせである。
物語の魅力を先駆的に指摘したフランスの哲学者ロラン・バルトは、人間のこうした因果の誤謬を体系的に濫用するのが物語だとも述べている。物語の虚構は、一義的な解釈から私たちを解き放つ。ISIS FESTAスペシャル「『情報の歴史21』を読む』第四弾に登壇したメディア美学者の武邑光裕氏は、「ハイパー中世とメタヴァース国家」というテーマの中で、「明示的な虚構こそが絶対的なリアルである」というウンベルト・エーコの言葉を紹介し、エーコの次の言葉を付け加えた。「陰謀とすべての陰謀論は、フェイクの正典の一部である。私は小説だけでなく理論的なものも含め、すべての著作で虚構の生産に携わっている」「嘘があるからこそ、可能性のある世界を生み出し、発明することができるのです」
武邑氏の講義を受けて、松岡正剛は松尾芭蕉の「虚に居て実を行ふべし」や、慈円の「顕と冥」の冥の力、本居宣長のあやの言葉に触れ、虚実皮膜の物語の力を語った。私たちが陥る短絡的な辻褄合わせや、ものごとや自他を明確に分割する理(ことわり)を超えたところにこそ、別様の可能性が広がっている。分断されたものを繋ぎ直して生まれてくる新しい物語。それは言葉で分節化できない矛盾や不思議な力によって支えられているのかもしれない。物語というメタフォリカルな編集フォーマットは言葉の限界を超え、「ただの言葉」からはみ出してしまういくつもの解釈の可能性や、意味の含みあいがもたらす網の目のような関係性と無限に広がる背景の手触りを、リアリティをもって伝えるのである。
世界がひとつしかないことから生じる生きづらさから解放する多様な物語の力が、現代を生きる私たちをさまざまなかたちで支えていることは、自身を「物語」として語り直すことで自分を再発見、再構成するナラティブ・アプローチや箱庭療法などを見ても、明らかだ。箱庭とは一人ひとりの記憶と再生のための神殿なのかもしれない。箱庭療法を日本にはじめて導入した心理学者の河合隼雄は、かつて高い評価を得ていた物語が急速に価値を失うのは、自然科学の発達した近代になってからだと述べている。
自然科学は外的事実の間の「関係」、特にその「因果関係」を見出すことに努力するが、そのような外的事実を、観察者(研究者)とは関係のないものとすることが前提となっている。このために、そこに見出されたものは個人を超える普遍性をもっている。この「普遍性」ということが実に強力である。つまり自然科学によって見出された結果と技術とがうまく結合すると、人間は事象の「外側」に立って、それをコントロールし、操作できる立場を獲得する。この方法があまりにも効果的であるために、人間は科学の知によってすべてのことが可能になると思ったり、科学の知こそが唯一の真理である、とするような思い違いをしたのではなかろうか。このような思い違いをすることによって、多くの現代人はこの世との「関係」を切断され、根無し草のようになってしまった。便利で効率よく生活することが可能になったが、いったい何のために生きているのか、その意味が急に希薄に感じられるようになったのである。「意味」とは、関係の在り方の総体のようなものである。私と私を取り巻く世界との関係がどんなものかがわからずに生きていても、「意味」が感じられないのも当然である。
(河合隼雄著『物語を生きる』小学館)
言葉にならない畏れ多い「もの」の語りにじっと耳を澄ませ、身体全体で感受していたころのおぼろげな遠い記憶を辿りながら、人はさすらってきたのかもしれない。
私たちのコミュニケーションを、編集学校では「意味の交換」を込めてエディティング・モデルの交換とよぶが、ここにも記憶と伝達のための物語の情報編集フォーマットが生かされている。物語編集は、新たな対角線を引き、世界や他者と自分とを繋げ、意味を生みだす力をもつのである。
この編集フォーマットの母型を、編集学校では「マザー」とよぶ。世界中のどんな物語も、戦争ものの境界マザーや、道行ものの往還マザー、対話ものの問答マザーなど、7つほどの母型によって成り立っているという。物語マザーは、私たちの感情を揺さぶり、共感や連帯へと導く世界共通の型であり、意味や価値、思想や文化がはぐくまれる土壌でもある。語り手と聞き手の双方が脳内の物語回路をエンジンにして、情報の地であるマザーを察知しあうことで、コミュニケーションや相互編集が可能となる。私たちの脳の物語回路を促す要素には、ワールド・モデルのほかに、キャラクター(登場人物)、シーン(場面)、ストーリー(筋書き)、ナレーター(語り手)がある。編集学校の[破]の講座では、これらの5要素をそれまでに学んできた編集術を総動員して連動させながら、往還マザーの一つである英雄伝説の型を使ってじっさいに物語を綴る。編集の型と物語の型とのカサネによって、学衆は世界に一つの新しい物語を生みだすことができるのである。
■物語のゆくえ
現代社会が生みだした一様でフラットな物語の基盤がグローバルスタンダードで、そのめざす先に利潤や合理化があるとすれば、イシス編集学校の基盤は生命であり、ターゲットは、吉村林頭の掲げる6つの編集ディレクションに集約されるだろう。
ターゲットに向かうプロフィールで紡がれるさまざまな物語は、多様な世界モデルの提案を次々と生んでいく。
文学という物語に私たちの新たな連帯の世界モデルを見出した哲学者、リチャード・ローティは、私たちが正しいと信じる何かは絶対ではなく、偶然性を帯びていると語る。そこに別様の可能性や表現がありうるのではないかとつねに疑い、自己編集しつづけ、語り直す態度をもってエディティング・モデルを交換していく自己拡張のプロセスに、人々の共存の希望と可能性の光を見ているのである。物語には、他者の苦しみを内側から感じとる想像力を促す大いなる3A(アナロジー・アフォーダンス・アブダクション)の型の力がある。千夜千冊第1350夜 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』の一夜の追記には、このように書かれている。
本書『偶然性・アイロニー・連帯』には、ディケンズ、プルースト、ジェームス・ジョイス、ナボコフ、ジョージ・オーウェルといった文学者についての感想がかなり深く述べられている。ローティはひとつには、これらの文学には「人間が犯す残酷」の本質が哲学以上に記述されていることを、もうひとつには、ローティが「物語」によるナラティブ・アプローチの可能性に哲学的記述以上の可能性を感じていることを強調したかったのであろう。
ローティが「物語」に可能性を見るのは、人間には「ファイナル・ボキャブラリー」(終局の語彙)とでもいうべきものが潜在しているとみなしているからだった。ファイナル・ボキャブラリーは地域的で、人生的である。ローティはそこには「インカーネーテッド・ボキャブラリー」(インカーネーションする言葉群)も「フェロー・コンティンジェンシー」(自分と同類の偶然性)も潜在すると見ている。それゆえ、このことを鮮烈にするには、ローティの言う「メタファーの再記述」が必要なのである。これを「リアレンジメント」(編みなおし)とも言っている。まさに「編集」である。
利潤と合理化をめざす現代社会とは無縁の別様の生活を送る「PERFECT DAYS」の主人公が、姪のニコに語っていた。「この世界は、ほんとはたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
参考文献:
千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマ―新書)
朱喜哲著 NHKテキスト100分de名著『ローティ 偶然性・アイロニー・連帯』
アイキャッチ画像:穂積晴明
§編集用語辞典
16[物語編集力]
丸洋子
編集的先達:ゲオルク・ジンメル。鳥たちの水浴びの音で目覚める。午後にはお庭で英国紅茶と手焼きのクッキー。その品の良さから、誰もが丸さんの子どもになりたいという憧れの存在。主婦のかたわら、翻訳も手がける。
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