アンガマ――石垣の隙間から#08

2024/09/25(水)12:15 img
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 52[守]師範代として、師範代登板記『石垣の狭間から』を連載していた大濱朋子。今夏16[離]を終え、あらためて石垣島というトポスが抱える歴史や風土、住まいや生活、祭祀や芸能、日常や社会の出来事を、編集的視点で、“石垣の隙間から”見つめ直す。

 石垣島に移り住んで9年。生まれ育った場所とも、青春時代を過ごした場所とも異なるこの島には、「たくさんのわたし」がこぼれ落ちていた――。

 

 「死者はいなくなったのではなく、死者として存在している」と言ったのは、オルテガだった。言葉にされ、ハッとする。目の前からいなくなってしまった人のことを、見えなくなると、触れられなくなると、存在として感じられなくなるのだろうか? いつかは、忘れてしまうのだろうか? そんな不安に怯えていたのかもしれない。私は、あの人の手の温もりだって鮮明に思いだせるし、「思えば見える」と信じている。だけど、哀しさや寂しさや恋しさは、時折大きな波が砂浜に押し寄せるように日常を襲う。その波もやがて、自然のリズムのように受け入れられるようになるのだろうか…。

 

 現在を生きる私たちだけがこの世界に存在しているわけではない。そのことを強く感じる出来事が、私の住む八重山諸島石垣島の日常には埋め込められている。 

 沖縄独自の家相に基づいた家作りでは、家の中心にトートーメー(*仏壇)が設置される。台所にはヒヌカン(*火の神様)が祀られ、家族の健康を祈り報告する。子供達も旅行や勝負の日には、必ず仏壇に手を合わせ、通知表や賞状は開いたまま供られる。毎日のように香煙が漂い、死者との交信が行われる。そんな中でも、もっとも死者の存在を身近に感じるのが、ソーロン*である。八重山諸島に伝わる祭祀の一つだ。

 

 ソーロンとは旧暦盆のことで、今年は8月16・17・18日の三日間であった。多くの離島からなる八重山諸島の祭祀は地域によって異なり、中には、見てはならぬ、口にもできぬ秘祭もある。しかし、石垣島のソーロン「アンガマ(*精霊)」は、一般民家で行われるにもかかわらず、その家の者以外も自由に見ることができるほど開かれている。

 ソーロン初日、ウンケー(*迎えの日)の夕刻、どこからとなく太鼓の音が聞こえてくる。その音がする方を目指して、家を出た。あちこちから、吸い寄せられるように人々が集まってくる。誰ぞ彼、「たーやが(*誰だ)?」と思わず声をかけたくなる黄昏時に、今年もアンガマはやってきた。

 

 アンガマとは、ソーロン期間にグソー(*あの世)からやってくる精霊たちのことである。私たちのご先祖様の代表といってもいいだろう。地域によっては、翁の仮面をつけたウシュマイ*と媼の仮面をつけたンミィ*を先頭に、男女の区別もわからない異形をしたファーマー(*花子、ウシュマイとンミィの子孫)の総勢20名ほどの一行が、三線、笛、太鼓を奏でながら集落を練り歩く。所望される家々を巡り、トートーメーの前で踊りや歌などの芸能を披露し、祖先を供養するのだ。ウシュマイ、ンミィだけでなく、人ならざるファーマーの装いは、素性がわからぬように花傘を被り、手拭いで顔を隠し、サングラスまでする徹底ぶりだ。男女問わず女物の浴衣を着ている。ウシュマイ、ンミィ、ファーマー。その異形の一行の怪しさに魅了される者も多いだろう。

 

▲道を歩くアンガマ一行  

ウシュマイとンミィが持っているのはナマクバオージ(*乾燥していない生のクバ扇)。 石垣島では字毎に青年会が中心となりアンガマ一行を結成する。ウシュマイ、ンミィ、ファーマー(踊り子・地謡)。その他にも、一行に飲み物を差し出したり、うちわで仰いだりする世話人、ウシュマイとンミィとの問答時に、観客に隠れて裏声で質問する役目の人もいる。(絵・大濱朋子)

 

 

 アンガマが訪れる家は、沖縄家相の間取りが多い。芸能を披露する場は、一番座と二番座を合わせても10〜20畳に満たない空間である。そこに、ウシュマイ、ンミィ、ファーマー(ジウテー(*地謡)を含む)の20名ほどの一行が訪れ、トートーメーに向かってコの字状に座る。台所横のダイニングでは、その家の者たちや親族、親族に招かれた者たちが位置する。見物人も家の中まで入れる場合が多い。もちろん庭には、誰もが自由に出入りできる。私は石垣島に移り住み9年になるが、初めてアンガマをみた時に、まずその人口密度と熱気に圧倒されたものだ。真夏の南国の夜、地面から昼間の熱が這いあがり、水蒸気をたっぷりと含んだ空気が身体に纏わりつく。じわりと汗が流れる。しかしいつしか、それさえも気にならない程、自分の皮膚と意識の境界も曖昧になっていく。

 

▲沖縄家相の一般的な間取り 

沖縄独自の家相に基づく一般的な間取りでは、家を胎児を守る体内に見立てている。お尻部分にあたるところが北西になり、水回りを持ってくる。玄関にはひざ、頭に床の間が該当する間取りが良いという。 長嶺伊左雄、長嶺哲成『カミングヮ―家族を癒す沖縄の正しい家相』ボーダーインクより

 

 

 トートーメーの前では、ウシュマイとンミィが香炉に線香をそなえ、「ウートートー*」と声をだし拝む。初めてその声を聞くものは、びっくりするだろう。とんでもない裏声なのである。あの世の声だ。ウートートーの後は、ウシュマイとンミィがゆるりと舞い、ジウテーは、子孫繁栄と豊作を祈る八重山民謡を「念仏謡」として奏で歌う。その音色に合わせ、ファーマーはペアやトリオになり踊る。途中、観客を巻き込んでの問答も行われる。裏声の八重山方言で、あの世のことや旧盆の過ごし方、身近な話題や時事ネタまでもがやり取りされる。方言が分からなくても、その場の雰囲気で何を言っているのか、何となく分かるから不思議だ。時折観客をドッと笑いの渦へと誘いながら、あの世とこの世の交流がなされる。そうして、30〜40分ほどの宴もクライマックスに差し掛かる頃には、六調節に合わせたウシュマイとンミィの恍惚とした舞いに、仮面に宿る人ならざるモノの気配さえ感じるようになっているのだ。最後は観客も踊りの輪に入り、あの世とこの世の者が入り混じり乱舞する。これが、ソーロンの3日間(ウンケー、ナカヌヒ*、ウークイ*)にわたり、夜遅くまで家々で繰り広げられる。

 

 今年最初のアンガマが終わる頃、東の空高くにが昇っていた。ソーロンの満ちてゆく月だ。この島の祭祀は月の満ち欠けと共にある。皓皓とした月あかりを浴びながら、古代より現代までも伝承されている超時代的精神が、今もなお私たちを根底から支えていることを実感した。

 月が満ち欠ける力は、変わらず私たちの身体の奥底と繋がり、欠け果てて見えなくなったその姿さえ、面影を去来させる。亡き人を憶い押し寄せる波も、大いなる生命の源へととけていくのだろう。

 

▲黄昏ウンケー   

旧暦は月の満ち欠けを元にしているが、必ずしも15日が満月になるとは限らない。月は楕円の軌道を描く。綺麗に等分しながら満ち欠けしている訳ではなく、むしろ、1日、2日ずれることも多い。今年の満月は、8月20日。その日はブルームーンで、年に一度のスタージョンムーンだった。

 

 

◇八重山方言

*トートーメー:仏壇。

*ヒヌカン:火の神様。

*ソーロン:旧暦盆。

*アンガマ:精霊。

*ウンケー:旧盆初日、迎えの日。

*グソー(後生):彼方、彼岸、あの世、黄泉、冥界…。

*ウシュマイ:翁、おじいちゃん。

*ンミィ:媼、おばあちゃん。

*ファーマー(花子):ウシュマイとンミィの子や孫。踊り子と地謡。

*ナマクバオージ:乾燥していないクバの扇。クバは聖木。

*ジウテー(地謡):三線、太鼓、笛、歌などで音楽を担当する。

*ウートートー(御尊尊):仏壇に手を合わせ、拝む時の言葉。

*ナカヌヒ:中日。

*ウークイ:旧盆最終日、送りの日。

 

◇参考文献

1002夜『聖なる空間と時間』ミルチャ・エリアーデ 

0199夜『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット

1271夜『神と翁の民俗学』山折哲雄

1732夜『月はすごい』佐伯和人

0517夜『ペンネームの由来』

・名著84 オルテガ『大衆の反逆』

・折口信夫『翁の発生』青空文庫

・芳賀日出男『写真で辿る折口信夫の古代』角川ソフィア文庫

・久万田普『沖縄・奄美の島々を彩る歌と踊り』(有)ボーダーインク

 

◇アイキャッチ写真

左が「ウシュマイ」、おじいちゃん。歯が一本。右が「ンミィ」、おばあちゃん。仮面をつけると、ンミィの方がスラリと身長が高くモデル体系で、ウシュマイはコロンとふくよかな姿として顕われる。

  • 大濱朋子

    編集的先達:パウル・クレー。ゴッホに憧れ南の沖縄へ。特別支援学校、工業高校、小中併置校など5つの異校種を渡り歩いた石垣島の美術教師。ZOOMでは、いつも車の中か黒板の前で現れる。離島の風が似合う白墨&鉛筆アーティスト。

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