ミメロギア思考で立ち上がる世界たち――外山雄太のISIS wave #69

2025/12/30(火)12:00 img
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イシス編集学校の[守][破][離]の講座で学び、編集道の奥へ奥へと進む外山雄太さんは、松岡正剛校長の語る「世界たち」の魅力に取り憑かれたと言います。その実践が、日本各地の祭りを巡る旅でした。

 

イシスの学びは渦をおこし浪のうねりとなって人を変える、仕事を変える、日常を変える――。
イシス修了生によるエッセイ「ISIS wave」。今回は、来訪神もそわそわしている年の瀬にぴったりなエッセイです。外山さんの「世界たち」をめぐる世界読書を自身で撮影した貴重な画像とともにお送りします。

 

■■動かすことで見えるアジアの面影

 

 がらごろごろ    下駄が拝殿を叩く盆踊り

 しゃんすぃーっどん 夜中鳴り止まない神楽

 ばちぃちち     弾ける松明と氷点下の来訪神

 れるれれるれ    子供達の呼ぶ声に誘われる南国の獅子

 

 どれもこれも、僕の大好きな祭りである。類と土地の記憶が受け継がれてきた場所。こうした場所には「世界たち」が今も、大地が鼓動するように蠢いている。

 

▲檜の羽のカシャンという音が静謐さをまとう鷺舞(島根県津和野)

 

▲聖なる泥と遠くの海の匂いが鼻腔を刺激する宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島)

 

▲牛鬼が身を翻しながら街中を歩き回る牛鬼祭り(愛媛県宇和島)

 

▲一晩中お囃子と太鼓が鳴り止まない椎葉神楽(宮崎県椎葉村)

 

 祭りのカミサマやもののけたちの造形に僕はどうしようもなく心惹かれる。そこには、見えない「世界たち」の面影が結晶しているからだ。こういう時、僕はミメロギア思考で想像力を働かせる。ミメロギアは、「ミメシス」(模倣性)と、「アナロギア」(類推性)を合わせた松岡校長の造語である。比較対象の共通条件を取り出し、対比させながら、それぞれの「らしさ」を際立たせる方法だ。

 ミメロギアに肖りながら、造形を見る。ある文化が他所に伝えられる際、ミメーシスによって共通点を引き継ぎながら、その土地のアナロジーによって異化された超部分を持っていると捉えてみる。旅の途中に見つけたものに共通の地を見つけ、新たに立ち現れる図の変容を渡り歩く。

 例えば、獅子だ。獅子同士を比較する際に、植物で作られた体毛を共通項と捉える。八重山の獅子である「シーシー」は糸芭蕉の葉を、福岡県蜷城の獅子はヤシ科の棕櫚を、岩手の鹿踊りのシシはドロノキを削り出し、アイヌのイナウのような形状になったものを身につける。どの植物も、その土地の植物だ。外部から獅子の意匠が持ち込まれたとき、地元の植物で代用し土地の力を取り込もうとした先人たちの姿が浮かぶ。獅子舞と聞けば多くの人は唐草文様の風呂敷を思い浮かべるはずだ。杉浦康平は、この唐草について、新鮮な酸素の流れを文様化した渦の紋様であり、「豊穣の樹」の吐息だと言う。豊穣の樹の力が、糸芭蕉に、棕櫚に、ドロノキに託されている。獅子たちは、土地の力を取り込み、人と自然の間を取り持つ神話のような存在になる。そこにこそ、土地込みの「らしさ」が立ち上がる。

 

▲一匹の生き物のように体毛を振り乱すシーシー(沖縄県石垣島)

 

▲布幕と後ろ髪を振り回す豪快な鹿踊り(岩手県遠野)

 

▲黄金に煌めく獅子頭を抱えて舞う麒麟獅子舞(鳥取県賀露町)

 

▲聖霊会で諸役の先導を務める荘厳の獅子(大阪府四天王寺)

 

 遠く離れた土地の造形に共通点を発見することも楽しい。タイ北部のピーターコーン祭と、トカラ列島の悪石島で行われるボゼがそうだ。どちらの仮面神も、仮面の素材として編まれた籠を使用する。どちらも南国に生息する檳榔(びろう)の葉と茎が使われる。そしてどちらも、生命の象徴である男根を模した棒を手に持っている。そうすると今度は両者のらしさはどこで培われたのだろうと想像が巡る。

 

 

▲森の精霊のパレード ピーターコーン祭り(タイルーイ地方)

 

 

▲赤と黒のコントラストに南国の植生が融合するボゼ(鹿児島県トカラ列島悪石島)

 

 千夜千冊 1141夜『稲と鳥と太陽の道』 では、日本のコメはミャオ族によってもたらされたという萩原秀三郎の仮説が紹介されている。ミャオ族は中国江南に居住する民族で、タイ北部の山岳地域にも住んでいるとされる。このピーターコーン祭が開催されるのは、タイ北部なのだ。

 加えてこの千夜では、日本の鳥居とミャオ族の鳥竿との共通点が挙げられている。タイ北部にはアカ族という山岳民族もいて、彼らは村に精霊の門という結界を張る。門は鳥居のような風貌で、ギザギザの鋸歯紋が掘り込まれている。その鋸歯紋が悪石島の鳥居にも掘られていた。これらの共通点が同じ起源を持つかという問いには精緻な探求が必要だけれど、タイ北部と悪石島という、遠く離れた土地の意匠に、奇妙にも通じ合うものを感じた。

 

▲悪石島の泊頭大権現 鳥居の鋸歯紋

 

 この造形はどこからやってきたのだろう、逆立つ毛は、飛び出た鼻は、ぎらつく眼差しは、絡みつく文様は。その根はつながっているかもしれないと思った時、とてつもないアジアの息吹が身体を通る。僕の中にも連なる、アジアの面影DNAが疼いたのだろうかと思わされる。

 旅をして、文化に浸る。共通点としての地を見つけ、異化された超部分を想像しながら、太古の暮らしへと心を遣る。共時的にも通時的にも視点が移動する。こんなに楽しくエキサイティングな世界読書はない。この視点は間違いなく編集学校で授かったものだ。僕はこれからも、本と千夜千冊を携え、見えないものたちの面影を追い、「世界たち」を探す旅に出たい。

 

▲祭の正装姿の外山雄太さん。鳥居の前で。

『宗教とデザイン』(松田行正著、左右社)には、「(東洋では)理解できない自然への感謝・畏怖が神を生む」とあります。外山さんの撮った写真を見ていると、普段忘れていた、頭を垂れる感覚が確かに呼び覚まされます。森に海に林に、そこかしこに何かの気配がある。それをどうにか形にしたい――外山さんが感じた「アジアの息吹」とは、そんなふうに自然と付き合ってきた古代人の試行錯誤を、追体験することだったでしょうか。目の前には偉大で唯一の神ではなく、奇妙で多様な神がいる。世界ではなく「世界たち」を感じる術は、きょうも津々浦々で続いているのですね。

文・写真/外山雄太(44[守]ピアソラよろしく教室、44[破]オブザ・ベーション教室)

編集/チーム渦(大濱朋子、吉居奈々、角山祥道)

  • エディストチーム渦edist-uzu

    編集的先達:紀貫之。2023年初頭に立ち上がった少数精鋭のエディティングチーム。記事をとっかかりに渦中に身を投じ、イシスと社会とを繋げてウズウズにする。[チーム渦]の作業室の壁には「渦潮の底より光生れ来る」と掲げている。