匠の方法・編集の鬼【松岡正剛 revival 01】

2025/08/14(木)12:00 img img
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2024年8月12日、イシス編集学校校長の松岡正剛が逝去した。エディスト編集部では、直後に約1カ月にわたる追悼コラム連載を実施。編集学校内外から多数寄せられた松岡校長の面影は、1年経ってもなお鮮明だ。まるでその存在が読むたびに【REVIVAL/再生】するかのようだ。そこで今回、寄せられたコラムの数々をふたたびご紹介したい。お一人お一人からいただいたコラムには、編集部が千夜千冊から選んだフレーズを付け句している。読者の皆様にさらなる編集の契機としていただけるよう、36のコラム+蔵出し写真&映像をふくめ、8日にわたって公開する。

 

 

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01:匠の方法・編集の鬼

 

松岡正剛という存在に触れた者たちが、言葉を編み、記憶を綴る。
ここに紹介する6本の追悼文は、編集という営みに魅せられた人々が残した、知の余韻である。
匠の方法に導かれ、編集の鬼に触発された者たちの声が、読む者の内側に問いを投げかける。

 

寄稿者:

手嶋龍一(外交ジャーナリスト・作家)
武邑光裕(ISIS co-mission /メディア美学者)
福田容子(イシス編集学校 師範)
佐倉 統(東京大学大学院情報学環教授、理化学研究所革新知能統合研究センター チームリーダー)
佐藤良明(東京大学名誉教授)

 

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【追悼・松岡正剛】遠景に去りゆく“松丸本舗”

外交ジャーナリスト・作家 手嶋龍一

 

セイゴオ先生のライフワーク『情報の歴史』のレクチャー・シリーズに招かれた時のことだ。赤堤にある編集工学研究所の「本楼」の壁面を天井まで埋め尽くす6万冊の蔵書群につい見とれてしまい、「もう講演時間ですよ」と主催者側に拉致された。講義では「戦争の世紀をどう読み解くか」をテーマに、危機の年となった一九三八年を「松岡版年表」を聴講者と参照しつつ、第二次世界大戦の起点をどこに求めるべきか、ノモンハン事件や張鼓峰事件を検証した。“知の館”の主は、翌月、惜しまれながら逝ってしまった …

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

ぼくは自分で本を読むのももちろん好きだけれど、誰かが本を読んでいることを想うことも大好きだ。小さいときから、そうだった。子供時代は父や母が読んでいる本が気になったし、小学校の図書委員になったときは閲覧カードに記された借出者たちの日付と名前が気になった。本には、きっと“魔法の絨毯”のように、いっぱいの人が乗れるんだと思ったものだ。


【追悼】松岡正剛:編集の召喚者

ISIS co-mission /メディア美学者

武邑光裕

1971年、私は高校2年の時に、雑誌「遊」の創刊号と出会いました。松岡正剛という存在を知り、のっぴきならない衝撃を受けました。退くことも引くこともできない状況は、「遊」が号を重ねる度に大きくなっていきました。「遊」からの一撃で、松岡さんを追尋していく旅が始まったのです …

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

 かくして、ぼくは1971年に「遊」を創刊し、そのころ彼(藤原新也)はインドから帰って「アサヒグラフ」に写真と文章を発表した。ぼくは「遊」において、どこにも属さない領域からどこにも属さないスタイルで発言と表現をしこしこ始めたのだが、彼もまた、どこにも属さない写真と文章のスタイルで日本に殴りかかってきた。アジアをひっさげた強烈な個性の登場だった。ただし文章は、やっぱりしこしこしていた。


【追悼】松岡正剛 心は一秒たりとも寝ていない

イシス編集学校 師範 福田容子

 

書籍『インタースコア』の入稿間際、松岡校長は巻頭書き下ろしの冒頭二段落を書き足した。ほぼ最終稿だった。そろそろ校了か、と思ってファイルを開いて目を疑った。読み始めて、文字通り震えた。このタイミングで、ここにこれを足すのかと。これが松岡正剛の編集なのかと。「心は一秒たりとも寝ていない。」で始まる一連の文章は、最後にしつらえられた扉だった。わずか250字にして、後に続く530ページを一気に旋回させる鮮やかな入口となっていた...

 

松岡正剛

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

…さてふりかえってみると、ぼくのジンセーの3分の1ほどが「意味の伝承」に費やされ、残りの3分の1ほどを「新しい意味の出現」に費やしてきたようだ。
言葉を大事にはしてきたが、けれどもぼくは意地でも作家にならず、学者にならず、また詩人にも俳人にもならないようにしてきた。何かに紛れながら言葉を編集的に創発させてみたかったからだ。なぜそんなふうにしたのかを説明するのはかんたんではないが、一言でいえば、分類可能な尺度や社会に阿(おも)ねた目盛からできるだけ言葉を自在なところへ運んでおきたかったからである。


【追悼・松岡正剛】学際の真髄は松岡道場で鍛えられた

東京大学大学院情報学環教授

理化学研究所革新知能統合研究センター チームリーダー

佐倉 統

 

「巨星墜つ」──この言葉が松岡さんほどピッタリくる人は、いない。単に膨大な仕事をおこなったというだけでなく、存在自体が放つ大きさの点で、ぼくの知人の中でも際立っていた。

 松岡さんと最初に出会ったのは、1990年前後、ぼくの最初の著書『現代思想としての環境問題』(中公新書)を出してすぐぐらいの頃だったと思う。当時松岡さんと編集工学研究所がおこなっていた、たしか NTTとの 共同研究会のメンバーに誘われたのだった。これにはびっくりした...

 

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

ざっと梅棹忠夫のことを書いておきたくなった理由をあげてみた。結論を言っておきたい、こういう男が21世紀の日本文明の牽引のために1ダースほど必要なのである。
梅棹はどう見てもフライングが好きだった。つまりはノーマッドだった。どう見てもすべてをプロジェクトにしたがった。それにつけては公私混同を恐れないし、門下の者には自由な裁量を与える器量があった。
とくにぼくが自戒しつつ梅棹を褒めたいと思うのは、国の仕事を平然とやってのけるところ、その仕事をたいてい自家薬籠に出入りさせるようにしてきたということだ...


【追悼・松岡正剛】専門に墜ちない知の輝き

東京大学名誉教授
佐藤良明

 

松岡正剛氏が生を享けたのは終戦の前年。その後の80年を生きられた。1944年の生年から逆に80年遡ると幕末になる。明治維新の前年に生まれた人物として、夏目漱石、南方熊楠、豊田佐吉らがいた。それらの大物が近代日本を押し広げたのと単純に比較するわけにはいかないが、それでも、一度ご破算になったニッポンの知とまるごと関わり、世界との道筋を通すという氏の志は、まさしく文明開化の営みである...

 

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

 最初に言っておくが、ぼくはウォーホルのアートの並べられ方が好きじゃない。六〇年代終わりから七〇年代前半にかけてのことだが、そのころはまだ名前が出たばかりの原宿や青山のデザイナーやアーティストの真っ白い部屋へ行くと、五人に一人がウォーホルのシルクスクリーンを床から無造作に、つまりこれみよがしに壁の隅のほうに立て掛けていて(他にはドナルド・ジャッドかフランク・ステラ)、まったくバカバカしかった。きっとウォーホルの「あっけら缶」のなかで自分がしている理由のつかないクリエイティヴィティに免罪符がほしかったのだろうと思ったものだった。
ぼくはウォーホルとはほぼ正反対のところにいる...


【追悼・松岡正剛】「共読」の学校で「本の連」をつくりたい(ほんのれん編集部)

ほんのれん編集部

 

本楼の最奥部に陣取った松岡正剛がゆっくりと話しはじめた。

「ほんのれんには、本と遊ぶことのすべてが詰まっている」。

天井まで積まれた2万冊の本と、4人のほんのれん編集部が一言も漏らすまいと聞き耳を立てる。本棚の奥から響く声は、こう続いた...

 

 

 

◆the REVIVAL of Seigow's voice from 千夜千冊

... 若き日のぼくの場合は鎌倉の澁澤龍彦(968夜)の書斎に憧れに近いものを感じたけれど、とてもあんなふうにはできないと諦めた。
結局、自分でコツコツと部屋の形にあわせて本組みをするしかないというのが、誰もが行き着く結論なのである。ぼく自身の本棚挑戦はいちばん貧乏だったときの6帖3帖のアパートで、近所の材木屋から安く端切れをもらってきてこれをちぐはぐに組み立て、ペンキを塗るところから始まったものである。

 


松岡正剛revival

01 匠の方法・編集の鬼

  • エディスト編集部

    編集的先達:松岡正剛
    「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。