10年で物語をおえる被災者はいない。
未知奥連の葛西淳子師範代は、ちょうどISIS編集の国が芽吹いたころからずっと、宮城県の仙台市を中心に、東北で暮らす人々の声をアーカイブしてきた。
■2011年3月11日
10年前の3月11日は、当時の職場であった仙台市中心部の市民活動サポートセンターにいた。地震発生時刻は14時46分。利用者や職員の無事を確認したあと、宮城野区の自宅まで、同僚と歩いて帰宅した。日も暮れて、国道45号線に数珠つなぎに並んだ車のヘッドライトが異様に光っていた。
職場から自宅へは海に向かって歩くことになるが、その時の仙台市街に津波の情報はほぼなく、自宅近くの「高速道路の仙台港インターまで水が来ているらしいよ」という噂を耳にしても、そこは海岸線から歩いて4、50分かかる地点であるため、「水が来ているってどういうこと?」とピンとこなかった。
当然仙台市中心部でも地震の被害があり、その後も影響が続いたが、津波の被害のあった沿岸部の人たちのことを考えると、「わたしたちはこの程度で済んだから・・・」と言ってやり過ごす声を多く聞いた。
■市民ライターことはじめ
葛西が市民活動に関わるライター・編集の仕事をするようになったきっかけは、千夜千冊1457夜にも登場する、加藤哲夫さんだ。加藤さんは、80年代に出版社「カタツムリ社」やエコロジーショップ「ぐりん・ぴいす」をつくり、90年代前半にエコロジー事業研究会を主宰、そして97年にNPO支援のための「せんだい・みやぎNPOセンター」を設立し、市民活動による市民社会のシステムづくりに取り組んできた。そして 2011年8月、千夜でも病床での写真が紹介されているとおり、自ら望んだ校長との対話を了え、癌で亡くなった。
1998年4月、葛西は朝日新聞の片隅に見つけた「今日からあなたも編集長!」という文句に惹かれ、加藤さんの連続セミナーを受けた。子育て中で仕事をしておらず、担当だったPTA広報誌のためのノウハウが聞けるのではないかという気持ちで受講してみたが、思っていたのとは全く違い、市民活動の世界を知ることになった。
そして講座終了後、市民ライターとしての活動がはじまった。「取材と称すれば、行ってみたいところに行って会ってみたい人の話が聴けるよ」とノせられ、記事を書けば自分の名前が付されるのもうれしかった。
なによりおもしろかったのは、ライターみんなで行う記事の合評だった。執筆経験豊かな加藤さんもはじめて記事を書くライターも、同じようにけちょんけちょんに手厳しく評価を受ける。そして、次の合評会にガラッと記事を変えてくる。「加藤さんのような人でもそうやって記事を書いているんだ。」その場に押されて、記事を書き続けた。この経験を経て、葛西は加藤さんのもとで働くことになる。
■師範代の記憶
松岡校長の名前は、加藤さんの話に何度も出てきた。だから、編集学校の門をくぐったのは自然な流れだった。4守に入門し、現在未知奥連の弦主である森由佳師範の教室の学衆となった。
卒門後、森師範に師範代に誘われるも、子育て中だからといったん断った。数年経ち仙台でエディットツアーのさきがけのようなワークショップに参加し、その場で大川導匠に焚きつけられ、23守師範代に登板した。卒門後にやり残した忘れ物を取りに行くような気持ちだった。そうして登板してみると、「見えないWebの中に教室ができてやり取りができる、顔が見えなくても濃密にふれあえる」ということがおもしろかった。
はじめ学衆たちは、つい優等生的な回答を書いてしまいがちであるが、そのうちに「違っていいんだ、みんなそれぞれだし、正解はないし」と思うようになる。そして、上下関係ではなく、相互に影響し合う。真似をすることも推奨される。そこが、加藤さんたちと交わした記事の合評会と同じだった。
23守の夜明けまで続いたアフアフアフ感門の席で、「このまま24守でも師範代に」という話になり、連投。そして24守の教室の鍵を閉め、感門之盟を待つばかりの時、東日本大震災が起きた。まだ新幹線が開通しない中、家族を置いて東京に行くことは難しく、延期された感門(今年3月13日・14日の感門と同じ「共読区」というタイトルだった)への参加も叶わなかった。
葛西は、「ここでもまた、編集学校に忘れ物を残しているんですよね・・・」と語ったが、編集的現在に立っていることを体得するための稽古場、そこを降りるたびに想いは残る。豊かな不足は次の編集に欠かせない材料だ。
■編集術の実践①トポスをアーカイブする
編集学校の[破]では「よもがせわほり 」という七箇条の手続きに沿ったプランニング編集術を学ぶが、震災後の葛西の活動はその実践だったと言える。
「よもがせわほり」の最初のステップ、<よ>は「与件の整理」である。
まず、仙台市に津波で甚大な被害を受け災害危険区域となり、もう住めなくなるという地区があった。そうでなくても、景色が変わってしまったり、写真や思い出の品が流されてしまったりと、人々の記憶が埋まっているトポスが「アーカイブしないと失われていってしまう」という切迫感があった。
そして、仙台市宮城野区には、震災前から地元学が興っていた。地元学とは、熊本県水俣市の職員だった吉本哲郎さんが、「環境」を旗印に地域の再生をめざした際の手法だ。そこでは、都市の基準での「ないものフィルタ」がまずかかりがちな地域への目に、「あるものフィルタ」をかけかえる。合併により政令指定都市の一部となり、個々の地域の本来がぼやけていきそうな宮城野区で住民主体となって試みられていた取り組みだった。
これらの与件をもとに、市民グループとともに震災復興地元学作成事業として、冊子「未来へ伝えたいふるさと」を作成。写真をもとに聞き書きする形で、地域ごとに震災前の記憶と、震災時の活動を記録していった。土地の面影を残したい、そこに人々が暮らしてきた証を記録したいという一心で取り組んだ活動だった。
■編集術の実践②方法をアーカイブする
<よ>「与件の整理」の中で浮かび上がったものがもうひとつあった。被災地の復興のために事業を行う市民やNPOの取り組みが、それぞれの地域の外の人には知られないままというのは惜しいという想いだ。
今後災害に遭った場所でどのような取り組みが有効か、活動の中でどのような困難が予想され、どのように対処できるか、その方法を相互参照可能にしたいと思った。
そして今取り組んでいるのが、葛西が現在所属している一般社団法人Granny Rideroが立ち上げた市民やNPOの取り組みをアーカイブするための出版レーベル「東北復興文庫」の編集だ。
第一弾として、去年10月に宮城県石巻市の牡鹿半島の小さな入り江にあるカフェはまぐり堂の物語を出版した。スーパー限界集落といわれる蛤浜にサスティナブルな地域を実現するために、カフェ経営・漁業・狩猟・観光プログラム開発といった活動を続けている若者たちの物語だ。
震災後の葛西はずっとアーカイブに携わってきた。主に広報誌やフリーペーパーの形で地域ごとの記録を保存したり、「3.11オモイデアーカイブ」という市民活動に携わったりしてきた。アーカイブという方法が意識された結果、未来の誰かの手に取られうる書籍として残るものをつくりたいというターゲットが浮かび上がった。「よもがせわほり」の<ほ>、「方法の強調」だ。
加藤さんの新聞の小さな告知に導かれて、自分がここにいるように。種を蒔くように、この世界に鍵を置いておきたい。
「よもがせわほり」の締めくくりのステップ<り>は「隣接と波及」だ。あるプランニングで立ち上がった方法論は、別のプランに転用されていく。
葛西の場合は「東北復興文庫」の続刊をはじめ、そんな書庫をつくることで、フラジャイルな災害列島に工具を準備したいと考えるようになった。千夜千冊1493夜ピーター・バーク『知識の社会史』には「書物が収納されたアーカイブがその都市一帯に絶大な経済文化的な効力をもたらした」とある。東北の地で地道に活動を続けている市井の人々の、マスメディアでは拾いきれないモノガタリに耳を傾け、言葉に起こし、伝えていきたい。その中に、これからを生きる人々の糧になる情報があると信じて。
フーコーは自分の仕事のすべては「知の道具箱」をつくることだったと言っていたということだ。その道具を、みんなで使ってくれればそれでいいんだと思っていたということだ。そういうミシェル・フーコーがいまとなっては格別にいとおしい。せめてアーカイブ(アルシーブ)を継ぐばかりである。
(千夜千冊545夜 ミシェル・フーコー『知の考古学』)
加藤さんの残した市民社会のテオリアを継ぎ、10年前にかたちを変えたもの、10年間に積み上げられたものを想いながら、編集的現在に立って未来の誰かに手渡すものを準備している。
■新しい生活
10年前、地震・津波によって福島第一原発の事故が起こったとき、首都圏で電力供給がストップした。また、モノの供給も滞り、東北には多くの製造拠点が存在することも知られた。実は東北が首都圏の暮らしを支えていたんだよ、と。
でも、それをいちいち意識していてはスムーズに生活が回せない。10年という時間のあいだに、都会だけでシステムが完結するかのようなイメージに、形状記憶のように戻っている気がする。「あれ、また東北が忘れられている?」というもどかしさを感じていた。
そして、東日本大震災から10年になろうというタイミングで、今度は新型コロナウィルスのパンデミックという災害に襲われている。“新しい生活”は、にわかに上から示されたものを受け入れるだけではなく、10年前の気づきを思い起こし、今こそ自分たちで作っていきたい。
「幸せな暮らしってなんだろう。自分の生活の範囲内で快適に過ごせる。あったらいいなというものは自分たちで作っていけばいい」と葛西は言う。
2021年3月11日にこの10年の物語を一冊の本にして閉じようとする語り手は、しきりと「復興」というキーワードを使うだろう。葛西にとって、復興とはどのような状態か。
「ひとりひとりが、日々の暮らしがたのしく、生きがいをもっていて、世の中にひとりの人として認められていること」と葛西はひとつひとつ言葉にした。
それは、社会ではなく個人の状態だ。全体で一冊の本になるようなことじゃない。ひとりひとりの小さな本が集まったアーカイブだ。大きな一冊の本の裏に隠れている、まだ言葉になっていない人々のさまが、「まだまだあるよ!」と葛西は言う。
この3月に一括りにパッケージされ済まされてしまいそうな大きな物語の隅っこに、「創をつけ、足跡でも手形でもひっかき傷でもつけておきたい」と葛西は笑った。
<取材・写真協力:未知奥連 菅野祥子師範代>
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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