この世に「ない」から、編集ワークする

2019/09/21(土)21:10
img JUSTedit
 編集は不足から生まれる。
 
 松岡正剛の『知の編集術』(講談社現代新書)の序文には3つのテーゼが記されている。編集は遊びから生まれる、編集は対話から生まれる、そして編集は不足から生まれる、である。
 
「不足」というと、時間がない、お金がない、人手がないと、つい不平不満がでてしまいそうなものだが、イシス編集学校では「不足」を編集エンジンだとみる。
たとえば、「あったらいいけどないもの」からは、新商品開発の発想が生まれる。コードレス掃除機やフリクションペンなどは、あったらいいけどなかったものだった。
 
一方、「なくていいからないもの」もある。ミニマリズムや断捨離をイメージするかもしれないが、企業やサービスは「ないこと」でブランディングしていることが多々ある。
無農薬の野菜や自然素材の化粧品などは最たるものだろう。
 
 9月21日のエディットツアーのテーマは「「ない」からはじまる編集術」。
ナビゲートするのは国立大学図書館の司書であり、伝統芸能にも造詣が深い米田奈穂師範代。「ない」にこだわった編集ワークが連打された。
 
 自己紹介は見立て。いまここに「ない」ものに自分を喩えてみる。
月見うどんもメロンパンも、枯山水も●●銀座も「ない」ことで想像力が起動する。
 
米田師範代による情報編集プロセスの絵。画力は「ない」。
 
 つづく、ペアワークでは、相手の見立てを使った自己紹介からその人「らしさ」をとらえて、本楼の本をプレゼント。
そこでも本を贈られた参加者は、一冊の情報から自分に「何があったらいいけどない」のかを考えた。
 
 最終プレゼンテーションのワークは、お互いに選んだ本2冊に本楼にあるオブジェを2+1して、いまはいない、会えないあの人へのギフトをつくり、ネーミングした。
樹木希林さんへの憧れを託した「黄泉がえり」。松尾芭蕉に贈る「未来の細道」。昔の自分に渡したい「過去を葬る」。この世ならぬギフトセットが3点仕上がった。
 
樹木希林に贈る「黄泉がえり」。太鼓の音で呼び戻すのか。
 
「昔の自分の過去を葬る」。境界を跨いで、その志を刺青する。
 
現代版・奥の細道を畏れ多くも芭蕉に手引きする。
 
 不足があるから発想が生まれる。不足があるから前に進むことができる。自分に不足があると感じたとき、その瞬間が未知へ一歩を踏み出す時なのだ。
不足を言い訳にするのではなく、不足を編集力に変えていく。米田師範代のエディットツアーで、不足のもつ消極的なイメージは書き換えられた。
  • 吉村堅樹

    僧侶で神父。塾講師でスナックホスト。ガードマンで映画助監督。介護ヘルパーでゲームデバッガー。節操ない転職の果て辿り着いた編集学校。揺らぐことないイシス愛が買われて、2012年から林頭に。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。