■2021.06.08(火)
「ピーターパン症候群」(注1)という言葉を初めて聞いたのは学生の頃だった。説明するまでもないが、大人になれない者、なることを拒む者のことを指す。時代はまだ昭和で、佐野元春が「つまらない大人にはなりたくない」(注2)と歌っていた。
私はどちらかと言えば、早く大人になりたいと思っていた子供だったし、早く大人になることを急かされて10代を過ごしたけれど、いざポイントオブノーリターンの瀬を渡る段を迎えるや、容赦なく「不足」を突きつけられ、為す術もなく「怖れ」に飲み込まれ、呆然と立ちすくむことしかできなかった。
時代は浮かれたバブルの最中で、「モラトリアム」(注3)という言葉が学生をラベリングし、子供を大人へと追い立てていた。
注1:『ピーター・パン・シンドローム』ダン・カイリー著・小此木啓吾訳/祥伝社〈絶版〉(1984年)
注2:『ガラスのジェネレーション』佐野元春(1980年)
注3:『モラトリアム人間の時代』小此木啓吾/中央公論新社(1978年)
あれから随分と年月が流れたが、結局私は大人にも成りきれず、かといって子供に留まる気にもなれず、「中二病」をこじらせたまま、5cmだけ開けた窓越しに今朝の空を眺めている。
原郷からは放逐され、彼方をひとり流れさすらい、どこにも着地できないでいる人生は本望ではないけれど、せめて未熟さを誇りに生きて行きたい。
さて、35[花]は昨夜が「中間スコア」の締切期限だった。入伝生には、基礎演習を終えた時点での自己評価レポートが課せられている。〈学ぶモデル〉から〈教えるモデル〉(*)へ着替える通過儀礼である。
約3割の入伝生が提出の猶予を求めてきた。いちいちの事由を問うことはしないが、多忙さが遅延を招いている訳ではないだろう。仮留めは歓迎しているし、消化不良も受容している。察するに、彼らは「完全なる学習者」を目指そうとしているのではないだろうか。
そうだとすれば、完全なる学習者とはどのような者のことだろう? その完全なる学習者は、誰がどのような状況において求めるのか?
ピーターパンのフック船長は子供にとどまる者を憎んでいた。実のところ、私のなかにもフック船長がいる。完全さへの憧憬は、不完全さの受容を拒むのだ。けれど「不完全さへの不寛容」は「完全さからの逃避」と等号で結ばれており、その相剋が自己撞着を惹起する。
つまらない大人になんかなるべきじゃない。それは強く同意する。だが、ガラスのアンジェリーナは自身のフラジリティを忌避して強がるのではなく、「つまらない完全さは求めたくない」と歌うべきだったのだ。
*〈学ぶモデル〉〈教えるモデル〉:
花伝式目では、学衆のエディティング・モデルを〈学ぶモデル〉、師範代のそれを〈教えるモデル〉と呼び、両者のエディティング・モデルが交わされる場として編集稽古を位置づけている。
イシス編集学校のユニークネスは、教える者が学ぶ者へ一方的に教授するスタイルを採らない点にある。
■2021.06.10(木)
私が花目付として編集学校に関心を抱き続けているは、「学び」が自己変容のプロセスであるからだ。ヘアデザインの仕事に長く携わっているのも、同じ理由による。
まずそこに「未然のわたし」或いは「偶然のわたし」がいて、やがて「必然のわたし」が立ち現れてくる。その、偶然と必然が往還去来する現場に、縁あって立ち会うことが私にとって最早ライフワークになっている。
◆「学ぶこと」と「ヘアカット」は、カワルという体験において相似している。◆ただしこのとき、当事者がカワルという体験をプロセスの結果と捉えるか、プロセスそのものと捉えるかによってカワルという体験の質や意味は大きく異なる。前者の場合はカワルの成果が客観的指標によって判定されるが、後者では当事者の体感が尊重される。(前者は因中無果論、後者は因中有果論の立場に近いだろう)◆現代社会では多くの場合、カワルの成果ばかりが問われ当事者の体感が置き去りにされているように見える。もちろん制度に問題があるのだろうが、一方で当事者にも自身の志向に気づこうとする姿勢が求められように思う。
自己変容のプロセスは「英雄マザー」に呼応する。
人は誰にも原郷があって、そこでものごとの意味や世界との関わり方が初期設定としてインストールされる。その環境のまま全てが事足りるなら、自己変容など必要がない。人生は一つの閉じた環世界のなかで完結するだろう。
だが、何らかの事情で原郷からのセパレーションを余儀なくされたとき、人は否応なしに新たな環境へ適応して行かなくてはならない。
この適応作業をフィードバックと呼んでも良いだろうし、学習と呼ぶことも出来るだろう。さらに、このプロセスのなかで当事者が自覚的かつ能動的にふるまうとすれば、それは自己変容、もしくは自己編集、すなわち「編集的自己の自立」と呼ぶべき出来事なのである。
「学び」とは、「未然のわたし」が更新された環世界に着地するまでの一連のプロセスなのだ。そしてそのとき、編集的自己は自分と自分を取り巻く環境とを丸ごと更新していく。
■2021.06.11(金)
35[花]の錬成演習が始まった。
入伝生は、この演習で初めて回答者から出題者へとロールを変える。その一挙一動を錬成師範が指導する。
「問い」は、それが予め用意されたものだとしても、問いを放つ際の態度や速度が問答の帰趨を左右する。場の空気は、出題者の息遣いひとつに委ねられているのだ。
その息遣いの様子に応じて、錬成師範は入伝生を踊らせもするし攻め込みもする。見応えある演習模様だ。
アサトがすっかり頼もしい。ヨシイ、ホソカは切れている。カトメグの風格、ウメコの迫力も期待通りだ。マキタ、カミオ、ヨネダの奮起もめざましい。35[花]の開花に期待したい。
■2021.06.12(土)
ジャイアン対角線教室のzoom汁講に招かれて参加した。ラジオ仕立ての進行を考えていて「ナマ週刊花目付」のコーナーを用意するから出演して欲しい、との要請だった。
はいはい。ジャイアンの頼みなら喜んで!
ホストのしつらいともてなしが行き届いた汁講だった。客人は伸び伸びと数寄を語り、一期一会の座が建立した。先に発言した者の文脈を引き取って言葉を重ねる作法を、参加者の全員が心得ていたのは見事だった。文字通りナマのインタースコアが場の其処此処に躍如していた。
◆どのような会であれ、人が一所に集うことは一世に一回かぎりの出来事である。それ故、茶の湯では客人としての心構えを「一座の建立」にあると説く。◆またその場での俗な世間話は無用とされ、「数寄の雑談(ぞうだん)」が交換される。「数寄」とは、俗な世間を「ないものフィルター」を通して眺めることによって発動される価値観なのだ。◆個々が持ち寄った数寄は、場において顕在し醸成され、豊かで多様な価値観を育んで行く。
46[破]はいよいよ「物語編集術」へと差し掛かるという。フラジャイルな未然の英雄たちの旅立ちと冒険に、エールは届いただろうか。晴れて突破の吉報を待望したい。
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
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