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おしゃべり病理医 編集ノート – 音読とは、踊るように読むこと
- 2019/12/18(水)13:11
病理医として、日々の研鑽と人材育成のための内外での研修。
二児の母として、日々の生活と家事と教育と団欒の充実。
火元組として、日々の編集工学実践と研究と指導の錬磨。
それらが渾然一体となって、インタースコアする
「編集工学×医療×母」エッセイ。
『おちゃのじかんにきたとら』『番ねずみのヤカちゃん』『ジャイアント・ジャム・サンド』がお気に入り。子どもたちが小さい頃は、寝る前の絵本の読み聞かせが日課だった。番ねずみは、他の二つに比べて長いうえに、大声のヤカちゃんがおしゃべりするシーンが繰り返し出てくる。読み終わると運動後のような心地の良い疲れが襲ってきて、わたしの方が先に眠くなった。
小学校に入ると、音読の宿題が毎日出るようになり、今度はわたしが読み聞かせしてもらうようになった。音読カードがあって、そこに「母、聞きました」というサイン代わりに動物の顔を描いてあげた。継続は力なりで、子どもたちの音読は、どんどん上達。息子は狂言にハマり、「と、ぼ、お、か、な~? ほいっ!」と、手拍子をつけながらリズムよく声を張り、娘はアーノルド・ローベルの『ふたりはともだち』を題名から情感たっぷりに読んでくれた。先日、スマホのボイスメモに入っている懐かしい音声データを見つけた。「どうしたんだい?がまがえるくん」と囁く娘のかわいらしい声に心癒された。
1233夜『脳と音読』には、「複合知覚力」を励起するものとして、音読と筆写が有効だとある。そもそも認識(IN)と表現(OUT)とは、そのしくみがまったく異なる知的行為になっている。その別々のしくみになってしまっている認識INと表現OUTを、あえて擬似的にであれ、なんとかつなげて同時に感得してみようとしたとき、音読と筆写が有効なエクササイズになるということなのである。編集学校における[離]の稽古でも、音読や筆写についての多様なエクササイズが用意されている。われわれは、読むという行為において、目ばっかりに頼りすぎなのだと思う。音読の日々の宿題は、大人にこそ必要かもしれない。
音読は脳の全身活動だ。『脳と音読』では、音読の際、脳のどこの部位がどれだけ活性化しているか、機能的MRI検査などを用いて検証している。ただ、脳の活性化部位がわかったとしても、それで音読の効能が理解できるわけではないように思う。そもそも音読とはいったいどのような行為なのだろう。
図にして確認してみることにした。
ここではシンプルに「1、2、3、4、5、6…」と書かれた数字を音読する場合を考えてみた。音読では、必ずわずかに黙読が先行する。
まず、目で文字を追う。「1」を視認した瞬間、視覚情報は脳に送られ、瞬時に言語野において文字の意味と読み方が確認される。それらの情報は、唇や舌そして声帯などの筋肉に送られ、「イチ」と発語される。もし、相手がアメリカ人だったら、「ワン」と発音されるかもしれない。「イチ」や「ワン」という声が、すかさず自分の耳に入ってくる。視覚情報では「1」という文字だが、聴覚情報では「イチ」という音声である。同じ「1」という言葉でも、INされた2つの情報は質も違うし、わずかな時間差もある。さらに、「イチ」という音を聞いたときに、すでに視覚は次の「2」の文字をとらえ、発話の準備をはじめている。これらの知覚同士、あるいは運動神経のわずかなずれ、重なり具合によって、黙読の時とは異なる認識や思考を呼び起こすように思う。
黙読の場合も「内語endophagia」として、無音とはいえわずかに声帯を震わせて発音をしているのだが、やはり声に出して発音する場合とは運動神経の関わり方が違う。少なくとも聴覚を刺激することはできない。自分の声が耳を通して入ってくることが、黙読と音読の間の最も大きな違いであると思う。
ふたつのINがずれながら重なるときに、色々な連想も生じる。1、2、3と音読する過程で、足し算をしてみたくなったり、自分の声の調子がおかしいなと感じたり、アントニオ猪木のことがふと頭をよぎったりして、ダ~ッとつぶやいてみたくなるかもしれない。連想が割り込んでくる余地がかなりありそうだ。
もうひとつ図解していて感じたことは、螺旋状のリズムである。音読は、黙読に比べて圧倒的にリズミカルである。耳の介入によって、フーガのような情報の流れが目の前の文章と身体のアイダに発生する。とても身体的だ。
381夜『身ぶりと言葉』では、民族のそれぞれがもつ価値観には、文字文化が発達する以前の古代から育まれたリズムと身体の関係が埋め込まれているのだとある。そこでは、「欠乏と制御」こそがその源泉になっているとアンドレ・ルロワ=グーランは指摘している。リズムは何かが欠けていることから生まれ、そこにはまだ見ぬ価値が発生するものなのだと。
「欠乏と制御」は、音読にも当てはまる。音読の螺旋状のリズムは、感覚神経と運動神経に制御されることで生まれたものであると同時に、個々の神経がひとつの情報しか一度にINあるいはOUTできないというある種の欠乏も関与しているということである。だから、ずれが生じるし、イメージ先行の連想の余地が生まれると思う。
つまり音読とは、踊るように読む、ということであろう。身体表現を通して、欠乏と制御のコラボレーションによる軌跡を空間に残していくことが踊るということならば、音読は、脳内にその踊り場を創っていく行為にほかならない。
発声自体に意識が集中すると内容が入ってこなくなる、という実体験は、身体の動かし方や向きに集中した時に、何を表現して踊っているのかに意識が向かなくなることと似ている。ただ、その不器用さやちぐはぐさに身を晒すことで、文章のリズムを感じてみる試みも、時に読書において必要だろう。
人間は情報取得の9割以上を視覚に頼っているらしい。たまには、文字の声に耳を傾けながら、踊るように読んでみよう。娘と一緒に読書バレリーナになるか、息子の狂言朗読にあわせて、実際身体を動かしてみても良いかもしれないな。