地にはスキマ植物 OTASIS-17

2020/07/10(金)10:54
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 野尻抱影翁の名台詞「天には星、地には泥棒」にちょっぴり肖って、「天にはハッブル望遠鏡、地にはスキマ植物」と呟いてみたい、そんなコロナ渦中の夏である。

 

 スキマ植物とは、街なかのアスファルトの割れ目や舗道の敷石の間など、とても生命を育めそうもないようなキュウクツなスキマで生きている草や木たちのこと。ものごころついたときからそういった植物たちに無性に心惹かれてきたのだが、塚谷裕一という先生の『スキマの植物図鑑』(中公新書)という本を知って、そのけなげな姿や“生きざま”にいっそう興味をもつようになった。

 

 植物のタネは自分で生育場所を選べない。親株から離れて風まかせ、鳥まかせの旅をして、たまさか落ちた場所がどんな悪環境でも、そこに根を降ろして生きていく。あまりに条件が悪ければ発芽さえできないし、発芽したあとに「しまった、ここじゃなかった」となってもあきらめるしかない。スキマ植物たちも、たまさか芽吹いてしまったコンクリートジャングルの片隅でわずかな土を確保して、ときには人間に踏みつけられたりもしながら、なんとか生き延びている。

 

 でも意外なことに塚谷先生は、一見キュウクツで苛酷そうにみえる都会のスキマこそは、植物にとっては「楽園」なのだとおっしゃる。その証拠に、実際に街に出てみれば、たとえ都会のまんなかであっても、どこのスキマにも豊饒な緑の世界が潜んでいるではないか、多様な植物がスキマ生活を謳歌しているではないか、という。ホントだろうか。

 

 スキマが楽園なのかどうかはさておき、じつはこのコロナ自粛中、植物たちを観察しながらの世田谷散歩にすっかりはまって(注:私は20年来の世田谷区民である)、緊急事態宣言が解除されてからも、暇さえあれば散歩に繰り出しているのだが、そうやって得心できたことが二つある。ひとつが「都会の住宅街は驚異の植物園である」ということ、もうひとつが「植物たちはスキマでこそ本領を発揮する」ということである。

 

 「都会の住宅街が驚異の植物園である」というのは、家々の庭先や玄関先や軒先に驚くほど多品種の草花が栽培されていて、それぞれのお宅の“環境”や“事情”によって同じ植物であっても生育状況はじつにいろいろ、まったく見飽きることがないということである。きっとこれは都市部の住宅街ならどこでもそうなのだろうが、とりわけ東京の住宅は庭も玄関先も手狭なせいなのか、単位面積あたりの品種がやたらと多くなりがちなようだ。管理が行き届かなくなって草木が敷地の外に溢れてしまってるお宅、育てきれなくなった鉢や苗を家の前の舗道やバス停や街路樹の根元に“出張”させているお宅も多い。そういう“事情”だらけの植物模様は、公園などの管理の行き届いた緑地なんかにくらべて、うんとおもしろみがある。

 

 「植物たちはスキマでこそ本領を発揮する」というのも、それら都市部の事情ならではのこと。狭い庭で繁茂しすぎた植物たちが別天地を求めて逃げ出していったかのように、可憐な園芸品種までが道路際でスキマ植物化している様子を見ることができる。苛酷な環境のせいであわれなほどイビツな姿かたちになっていたりもするが、本来スキマの覇者であるはずの雑草すらも、そうやって専守されたスキマには入り込む余地もないらしい。そんなふうに人間の管理から離れて勝手に生きていくありように、スキマライフの謳歌かどうかはべつとして、植物たちの本領をまざまざと見せつけられているような気がしてならないのだ。

 

 モーリス・メーテルリンクに『花の知恵』(工作舎)という本がある。メーテルリンクは『青い鳥』ばかりが有名になりすぎているが、アリやミツバチやミズグモなど自然界に生きるものたちを通して、宿命と機会というものを生涯にわたって洞察しつづけたナチュラリストでもある。私はとりわけ『花の知恵』が好きで、植物たちの生き残り戦略をこそ“知性”とみなす、そのアナロジーに富んだ透察力に惹かれ影響も受けてきた。世田谷散歩をするかたわらでひさしぶりに読み返した。

 

 メーテルリンクは、植物が地上の一点に終生つなぎとめられるという宿命を負っているからといって、その生きざまに受容や服従や諦観だけを見てとることに断乎として異議をとなえる。むしろ植物たちは地球の表面を侵略し征服してやろうという壮大な野心をもっていて、そんな執念のエネルギーが闇の土中から芽を出し器官を形成し、ついに光のなかに花を咲かせるさまは比類なきスペクタクルなのだという。それこそが植物たちが力を尽くして全うしようとしている“本分”であり、植物たちの“知性”なのだとして、こんな言葉を記している。

 

 ――不器用な、あるいは不運な植物や花はあるとしても、知恵と創意工夫に全く欠けた植物などひとつとしてありはしない。

 

 そうそう、これだった。私がスキマ植物に感じた、いじらしさも、たのもしさも、すべてはこのメーテルリンクの言葉が言い当ててくれていた。そして、コロナ禍のなか世田谷から一歩も出ずに住宅街という驚異の植物園をめぐり、スキマ植物たちを訪ねて過ごす日々は、私にとって生命の本分としての“植物的郷愁”に浸りつづける貴重なひとときでもあったのだ。

 

 

おまけ①

写真は、世田谷の烏山川緑道でみつけたスキマ植物。「撮られるためにこうなったのか」と言いたいほど、あまりにもフォトジェニック。

 

おまけ②

どうしようもなく生存困難と思われる場所でサバイバルしている植物は「ど根性」という呼ばれ方をする。10年ほど前、銀座の一等地のスキマで成長しつづけた「ど根性キリ」はしばらくニュースを賑わせていた。「ど根性野菜」なるカテゴリーもあって、兵庫県相生市の道路脇で発見された大根の「大ちゃん」が有名だ。

 

おまけ③

私の観察では、玉珊瑚、南天などの赤い実のなる草木は、スキマ植物化しやすいようだ。鳥がつついて実を運ぶせいなのだろうか。マンションの3Fにあるわが家のベランダのプランターのスキマでも、南天が勝手に生えてきてすくすく成長している。もう一本、放っておくとかなり大きな木になりそうな植物も育ってきていて、いろいろ調べた結果、どうも柿らしい。世田谷には意外に柿のなる家が多いので、唐突なスキマ柿が出てきても不思議ではない。

  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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