べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十四

2025/04/11(金)22:00 img
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 満ちてしまえば、あとは欠けていくだけ――すべてが整い、夢が叶いかけたその瞬間にこそ、物語は終わってしまう。それを避けるために、誰かが“身を引く”。幸福のかたちを敢えて未完のまま残すことで、「語り」を未来へ開いていく。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


 

愛の成就ではなく、語りの継承へ

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第十四回は、一見するとすべてが整いはじめた“幸福の兆し”に満ちた回です。蔦屋重三郎は、かつて敵対していた吉原の重鎮たちに受け入れられ、茶屋から本屋へとその文化的属性を移行させつつあります。駿河屋市右衛門は殴りはするものの階段から突き落とすほどの敵意を見せず、妻・ふじは手ぬぐいを差し出して重三郎を気遣い、忘八衆の中でも重三郎の立場は対等なものとして認識されはじめました。大文字屋と若木屋も俄祭りを通して和解し、吉原は重三郎の尽力によって“ひとつ”になりつつあります。そして重三郎は、ついに念願の本屋開業を目前に控え、その場所には恋人・瀬川を迎えようとしています。

 つまり、物語のハッピーエンドの要素はすべてそろっているのです。しかし、ここで物語が閉じてしまっては、重三郎は“小さな満月”になってしまい、物語も彼の夢も語り自体も、すべて閉じられてしまう可能性があります。いったん満ちきった月は、それ以上進めず、やがて欠けるだけ――そうした静止と衰退を避けるために、第十四話ではある“決定的な仕掛け”が用意されます。それが、瀬川の「撤退」です。

 

 重三郎が瀬川と共に幸福を得ていたなら、それは彼個人の完成でもある一方で、吉原の遊女たちの苦しみを自身の苦しみとして受け止め、声なき声を拾い上げ、ときに代弁し、ときに立ち向かってきた“文化的・倫理的使命”を同時に終えてしまうことにもなりかねません。個人的な幸福の充実という満月に到達した瞬間、彼の視線はもう吉原全体には向かわなくなるかもしれない――そのような危うさが潜んでいるのです。重三郎の慈愛の光が“ふたりの生活”という狭い円を照らすだけになってしまえば、彼が担っていた文化の灯火が失われるリスクがあるのです。

 

“身を引くヒロイン”という物語要素

 「愛しているからこそ、去る」。この逆説的な選択は、物語を“完結させない”ための、古典から続く根源的な語りの技法です。たとえば『源氏物語』の浮舟は、匂宮と薫の間で揺れ動いた末、いずれも選ばずに仏門へと入ることで、恋愛の物語に結末を与えるのではなく、語りの余白を残しました。また、中世騎士道物語『トリスタンとイゾルデ』では、イゾルデがトリスタンとの深い愛を胸に秘めながらも、王妃としての立場を全うし、愛に殉じるでも拒むでもなく静かに身を引くことで、その物語は現実の完成を迎えることなく、読者の想像と記憶のなかに生き続けていきます。

 「身を引くヒロイン」は愛を否定する存在ではありません。むしろ、可視化することによって壊れてしまう価値――夢や記憶、未来――を守るために、身を退く道を選ぶのです。だからこそ、ヒロインたちが自発的に物語から下がることで、“語り”は未来へ継承されるのです。瀬川もこの系譜に確かに連なる存在といえます。

 

夢を持続するための余白

 第十話で重三郎は、瀬川の身請けを見送りました。あのとき二人は、「一緒にいること」ではなく、「吉原の文化的価値を上げ、不幸な遊女が一人もいないようにするという夢」を共有し続けることが愛であると理解したのです。

 可視化された愛、触れられる距離にある愛は、その瞬間から損なわれていきます。今回、重三郎と瀬川が再び近づいたことで、精神的にも物理的にも距離が縮まり、愛が「目に見える幸福」という輪郭を持ち始めると、逆説的に二人の夢が崩れることになります。二人が近づきすぎれば、可視化された幸福が不可視であった夢を押しつぶしてしまうのです。瀬川は、その“可視化のパラドックス”がもたらすリスクを直感的に理解したのでしょう。

 ここに、編集工学でいう「余白」「不足を与える」という型が機能します。夢を閉じさせないためには、わざと「不足」を残しておき、それを埋めようとする力が重三郎を前進させます。瀬川の撤退という選択は、瀬川が重三郎に「不足」を与えたと言い換えることができます。瀬川はあえて「いない存在」となることで、重三郎との物語を生かし続ける余白を与えたのです。

 

支配する贈与と自由にする贈与

 鳥山検校は、瀬川に向かって繰り返し「お前の望むものは何でも与えよう」と語ってきました。この言葉は、後に瀬川を離縁し、蔦重のもとへ送り出す伏線となりましたが、そこには制度的な立場や自身の罪責を棚上げにしたまま、過剰に与えるという性質が色濃く表れていました。つまり、検校の贈与とは、表向きは自由を与えるものでありながら、実際には「与えることで繋ぎとめようとする」、支配のかたちを保ったままの贈与だったのです。

 一方、瀬川自身が最終的に選んだのは、“退くこと”でした。彼女は重三郎に対して、物理的には何ひとつ残していません。しかし、自らを不在とすることで、蔦重の語りを閉じることなく、未来へと開かれた余白を贈ったのです。この撤退という選択は、いっけん何も「与えていない」ように見えながら、実はもっとも深く、もっとも自由を保障する贈与だったと言えるでしょう。

 さらに瀬川は、鳥山検校のもとで過ごしてきた過去の代償ともいえる現実的な危機にも直面していました。検校の経済的策略によって破滅した人々の恨みは、瀬川にも向けられ、すでに命を狙われるような出来事も起きています。もし重三郎と共に暮らせば、その危険が彼にも及ぶことは避けられない。だからこそ彼女は、自分の過去が生む暴力から蔦重を守るためにも、静かに去ることを選んだのです。

 「すべてを与えることで繋ぎとめようとする」鳥山検校と、「不在になることで自由と安全を贈る」瀬川。ふたりの姿は、贈与の本質が単なるモノや行為の移動ではなく、むしろ関係のあり方そのものを問う倫理的な営みであることを、くっきりと浮かび上がらせています。

 

文化を継承する最高の形としての撤退

 もし、瀬川が重三郎のそばに留まっていたなら、重三郎は「小さな満月」に到達してしまったことでしょう。本屋を構え、吉原にも受け入れられ、愛する人を手に入れる――これは重三郎の願望がすべて叶う形だからです。しかし、それは同時に物語の結末でもあり、文化の動きが止まる瞬間でもあります。

 そこで瀬川は、あえて最後のピースにならないことを選択しました。「不足」を作り出すことで、重三郎をさらに広い物語へ導くことを可能にしたのです。一方、鳥山検校は瀬川を手に入れようとすることで、愛という最後のピースを加えて自身の満月を完成させようとしましたが、まさに満月になった途端に物語から姿を消しました。月が満ちればあとは欠けていくしかないように、物語的にも文化的にも終局を迎えたのです。重三郎もまた、満月になってしまえば滅びる危うさを孕んでいましたが、瀬川の撤退により“欠けた状態”を保つことができたのです。この三者の関係が描き出すのは、「贈与とは、不在によって生まれる未来の力である」という物語論的構造です。

 物語から退場するヒロインは、その姿を消すことで語りの火を未来に灯し続ける存在です。“引く”ことは敗北ではなく、語りを途切れさせないための最高の参画方法なのです。瀬川は愛を捨てたのではなく、その先の未来を託したのだといえます。

 そして重三郎は、瀬川という“空白”を抱えたまま、満月にはなりきれない存在として、より遠くへ、より深くへと物語の先を歩んでいくでしょう。“満ちない物語”こそが文化を生きたものにし続けるのです。これこそ、第十四話で描かれた語りと継承の本質なのではないでしょうか。

 


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