草むらで翅を響かせるマツムシ。東京都日野市にて。
「チン・チロリン」の虫の音は、「当日は私たちのことにも触れてくださいね」との呼びかけにも聴こえるし、「もうすぐ締め切り!」とのアラートにも聞こえてくる。

見えないものにこそ価値があり、見せることで零れ落ちる何かがある――そのテーマを際立たせるために、敢えてすべてが可視化される世界の中で「見えないもの」を浮かび上がらせる、切実と逆説のドラマが、ここに誕生した。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第10回では、華やかな吉原を舞台に「可視化される姿」と「可視化されない思い」が対比され、物語の奥深い矛盾や切なさが鮮明になります。錦絵本『青楼美人姿合鏡』に封じ込められた瀬川の素顔と、最後の花魁道中で最大限に“演出”された瀬川の華やかさ――そこには、“記録”と“消費”をめぐる葛藤、そして“見えない夢”によってつながる二人の絆が描かれています。金銭によってすべてが可視化される吉原という世界観が、なぜかえって“不可視な愛”を際立たせるのか。その逆説的な構造が、現代のSNS社会にも通じる大きな問いを投げかけるのです。今回は、そんな可視化と愛の関係に真正面から向き合う物語の深層を紐解いていきます。
本来、錦絵本である『青楼美人姿合鏡』は、吉原で名を馳せる遊女たちの美しい姿を世に広める“記録”のメディアです。ところが、蔦重が瀬川に贈ったものには、あえて「本を読む瀬川」の姿が描かれていました。瀬川にとって、本を読む時間は花魁という仮面を脱ぎ捨てて「ただの瀬川」でいられる大切なひとときです。華やかな笑顔で客をもてなす“名花”のイメージとは対照的に、物語の世界に没頭する素の姿こそが、蔦重が愛した瀬川の本質でした。
しかし、ここには“可視化のパラドックス”があります。
それは、「可視化できない姿を記録しようとすればするほど、変動する本質をとりこぼしてしまう」という矛盾です。
錦錦絵本に封じ込められた瀬川は、一枚のイメージとして“固定”されてしまうため、日々変わる感情や思考、物語を読み終えたあとの新たな気づきなど、生きた変化は切り取られた瞬間の外にこぼれ落ちてしまいます。それでも蔦重は、どうしても“素の瀬川”を留めたかったのでしょう。瀬川が「最初で最後さ……」と呟く場面には、初めて蔦重が自分の本質をすくい取ってくれた歓びと同時に、素の自分が花魁の自分ごと消えてしまうことへの喪失感が入り交じっています。――まさに、二人にとっての“儚い贈り物”だったのです。
物語のクライマックスを飾るのが、瀬川が吉原を去る直前に行う最後の花魁道中です。絢爛豪華な衣装で街を堂々と練り歩く姿は、瀬川の華やかさを最も効果的に可視化する場面といえます。拍手や歓声が飛び交い、まさに名花としての彼女を最大限に演出する“最終公演”のような趣があります。
一方で、その華やかさの背後には瀬川の回想が挿入され、二人が背負う“内面”の悲哀や別離への覚悟が静かに浮き彫りにされていきます。花魁道中が「外面の可視化」を、回想が「内面の可視化」を担い、視聴者は二重のレイヤーを行き来しながら、二人の心情を深く汲み取ることができる仕掛けになっているのです。
花魁道中の前半では、祝祭的な歓声や拍手が続き、瀬川の華やかさが際立ちます。ところがある瞬間、音がピタリと途切れ、下駄の音だけが響く静寂へと切り替わります。ここでは、表向きの祝福と内面の悲哀が強く対比され、二人だけの世界が一瞬で立ち上がります。
やがて、花魁道中が方向を変え、最終的に蔦重が立つ大門の前へと進み始めます。このとき真上からの俯瞰ショットが挿入され、道中の列が優雅に曲がる様子が映し出されます。
進路を曲げる瞬間を俯瞰することで、瀬川と蔦重の運命が大きく転換することを象徴しているかのようです。上から見下ろす映像は一瞬“神の視点”を与え、華やかな行列の中に潜む“別離”という運命を客観的に示しています。
道中が曲がることで、瀬川は蔦重と正面から対峙します。重三郎の姿を見つけ、一瞬、素の瀬川の顔が覗きますが、すぐに花魁の顔に戻るのは、瀬川の動揺の表れです。哀愁を帯びたBGMにのせて回想が始まり、「これは二人で観てた夢じゃねえの」という重三郎の穏やかな眼差しから、“瀬川と離れたくない”という愛情がにじみ出ます。そして蔦重は視線を瀬川から外して吉原全体を睨み、「だから、おれはこの夢から醒めるつもりは、毛筋ほどもねぇよ!」と声を荒げます。ここには“どうにもならない運命”に対するやりきれなさと、“瀬川と共有する夢を絶対に手放さない”という意地が込められています。
再び瀬川に向き直った蔦重の視線は下を向き、「お前とおれをつなぐものは、これしかねぇからよ」という言葉には、諦観が漂います。けれど、最後は瀬川を再びの穏やかな眼差しで見つめ、「おれはその夢を、ずーっと見続けるよ」と告げると、瀬川は「そりゃまあ、べらぼうだねえ」と涙交じりに笑い返します。しかし次の瞬間、瀬川は涙を抑えきれなくなる――そこで回想が終わり、花魁道中へと戻ります。
まるで新郎新婦のように微笑む二人と、現実には瀬川が蔦重の元へ嫁ぐわけではないというギャップが、切なさを極限まで引き上げます。
道中の最後、瀬川が告げる「おさらばえ」は花魁として最上級の別れの言葉ですが、その声のトーンにはもはや“仮面を脱いだ一人の女性”としての瀬川が滲んでいます。最後に視線を交わさずにすれ違う二人のカットは、愛し合いながらも結ばれない運命を象徴し、花魁道中という華やかな舞台をよりいっそう切なく締めくくります。さらに瀬川は門を抜けた瞬間、八の字歩きをやめ、“花魁”というステータスから解放される意志を、かすかな足運びの変化で表しています。
回想を通じて、重三郎が口にする“夢”は瀬川も共有する理想です。それは、吉原を誰もが羨むような幸せな場所に変えたいという願いでもあります。そこではどんどん良い身請け話が舞い込み、不幸な遊女が一人もいないようにしたい――これこそが二人が思い描く“夢”でした。実際には、吉原を取り巻く厳しい現実が立ち塞がりますが、離れ離れになったあとも、この形のない“夢”が二人の心をつないでいます。
当初は錦絵本で瀬川を“記録”しようとした蔦重でしたが、最終的には「可視化」の枠を越え、“夢”という形のない存在で瀬川を捉える道を受け入れます。つまり、華やかな可視化による“固定化”ではなく、変化し続ける思いとしての“夢”を互いに共有するのです。この逆説こそが本作『べらぼう』を支える大きな力であり、「目に見えるきらびやかさの背後にこそ本質的な愛と尊厳がある」というテーマをはっきりと示しています。
金銭によってすべての価値が可視化され、愛ですら「見せる」ことが前提となっている吉原というワールドモデルにおいて、“見えない愛”を真正面から描く物語構造は、可視化と消費の関係に一石を投じる大胆な試みと言えます。目に見えない部分にこそ価値があるという逆説的なメッセージは、SNSの普及によって何もかも容易に可視化・拡散される現代社会に対しても、大きな問いを突きつけているのです。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十六
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