▼鬼という字は「死んだ人」という意味をもっている。人が亡くなることを「鬼籍に入る」と表現するのはそのためだ。死んだ人=鬼、とすれば、鬼が踊るバレエは「ジゼル」である。
▼「ジゼル」は、ドイツの詩人ハイネの著作『ドイツ論』のなかで語られている民話に着想を得て、フランスの作家テオフィル・ゴーチエが脚本を書き、1841年パリ・オペラ座で初演された。いまよく上演されているバレエのなかでは、古いものである。
▼舞台は中世のドイツ。村娘のジゼルは、ロイスという男に恋をしている。将来を約束してくれた彼が、実は貴族アルブレヒトでありバチルド姫という婚約者もいたと知る。そのショックで、心臓の弱いジゼルは死んでしまう。ここまでが1幕。2幕はその夜。新しいジゼルの墓に詣で、悔いるアルブレヒト。墓場となっている森には、ウィリという死霊がいる。結婚前に死んだ娘たちが夜な夜な男たちを死ぬまで踊らせるのだ。白いロマンチック・チュチュ(釣鐘型の長いスカートの衣裳)をまとったウィリたちは、冷たい表情で一糸乱れぬ群舞を見せる。ジゼルはウィリ達の仲間入りをするべきところ、アルブレヒトをかばい、ウィリの女王に彼の命乞いをしながら夜明けまで踊り続ける。朝の鐘が鳴り、ウィリ達は消え、ジゼルも消える。アルブレヒトは助かったのだ。
▼と、こう書いてみてもなかなかに上手くできたストーリーである。さすがゴーチエ。ちなみにバレエの台本に本格的な作家がかかわることはめずらしい。たまたまゴーチエがバレエ好きで、当時パリ・オペラ座で売り出し中だったバレリーナ、カルロッタ・グリジを気に入り、シナリオを書いてオペラ座に持ち込んだ。なんと推し活だったのか!
▼「ジゼル」は、シンプルな、非常によくある男の裏切りの話なのだが、それだけに普遍性があり、現代人にも共感できる。男の二股は遊び心からなのか、それとも本気の恋だったのか? そういう裏切りを許すという女の器量というか成長というか(もう死んでるけど)をいかに見せるか? 解釈の余地も表現の幅もある。たった1日のなかに、ジゼルの幸福感、死に至る狂乱のシーン、そして死霊となった姿と、主役の演技についても見どころ満載だ。ウィリとなった2幕では、もう人間ではないので、重さを感じさせず、終始、宙に浮かぶように軽く踊らねばならず、疲れをみせることは許されない。群舞のウィリ達も同様で、「足音立てるな、息するな、汗かくな」と指導されるという。
▼古い時代の作品ゆえ技術レベルはそんなに高くないし、いろんな事情で上演時間が短くなったらしく、様式的なお約束場面が少ない。この40年後に花咲くロシアバレエ(チャイコフスキーの三大バレエ)に比べると、なんというかプリミティブな感じがあるのだ。が、それが一周回って、現代にもリアリティを感じさせる作品になっている。身分違いの悩みはほぼ存在しないだろうが、「ひどい裏切りにあった」と思うような恋はたくさんあるだろう。その時、それでも、相手を許すのか。これは普遍的な問いかけだ。観客はそれでも彼を許すジゼルの姿に、けなげさや崇高さ、精神的な成熟を見出し、カタルシスを得る。このバレエが180年間、人気を保ってきた理由はそこにあると思う。
▼1幕は生の世界、2幕は死の世界。1幕のジゼルは愛らしく幸せいっぱいの娘、2幕のジゼルは美しい鬼。そう考えると、「ジゼル」は能っぽくも見えてくる。能では前シテがこの世の人の姿であらわれ、それが実は「すでに亡くなった誰それである」と後シテとして再登場する。後シテが鬼の姿をしていることも多い。後シテが残念を語ることで解放され舞い踊る姿と、ジゼルが己の無念を踊り続けることで昇華する様子が重なる。生と死の境に立つ鬼の物語が、西洋でも日本でも途切れずに演じられている。
アイキャッチ写真:Iwaki Ballet Companyの「ジゼル」公演より。
中央でアルブレヒトをかばうように立つジゼルを演じるのは、井脇幸江さん。
Iwaki Ballet Company主宰、元東京バレエ団プリンシパル、鈴木花絵師範代のお従姉さんです。
参考文献:『バレエの歴史』佐々木涼子著 学習研究社
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原田淳子
編集的先達:若桑みどり。姿勢が良すぎる、筋が通りすぎている破二代目学匠。優雅な音楽や舞台には恋慕を、高貴な文章や言葉に敬意を。かつて仕事で世にでる新刊すべてに目を通していた言語明晰な編集目利き。
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