一年の終わりに『くるみ割り人形』が欠かせない理由◢◤[遊姿綴箋] リレーコラム:原田淳子

2023/12/24(日)08:45
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▼12月になると多くのバレエ団が「くるみ割り人形」を上演する。なんといってもクリスマスの晩の物語であり、パーティに始まり、クリスマスツリー、贈り物、雪景色、お菓子の国とクリスマス尽くし。夢物語を圧倒的に描き出すチャイコフスキーの音楽の力で、1892年サンクトペテルブルクでの初演以来、現在まで人気の作品だ。

 

▼少女クララは、クリスマスの贈り物にくるみ割り人形をもらう。真夜中、クララは人形たちとネズミたちの戦いを目撃する。先頭に立つくるみ割り人形にクララも加勢して、ネズミ軍に勝利する。くるみ割り人形は、凛々しい王子に変身し、クララをお菓子の国に招待する、というのがバレエでのストーリーだ。

 

▼原作はE.T.A.ホフマンが1816年に書いた「くるみ割り人形とねずみの王さま」である。ホフマンはナポレオン戦争の時代を生き抜いたドイツ人で、判事などの仕事をしつつ、作家、作曲家、画家として活躍した。

 

▼ホフマンの原作がバレエになるまでには、何人もの編集が加えられた。まず、フランスの文豪アレクサンドル・デュマ親子が合作で翻案した「はしばみ割りの物語」になる。これを帝室マリインスキー劇場の振付家マリウス・プティパが、バレエの台本にした。プティパは、台本とともに作曲注文書を作成し、チャイコフスキーはそれに沿って曲を書いた。シーンに合わせて、どの役が何人でどんな踊りをするから何拍子で何小節…という非常に細かい注文書だ。

 

▼チャイコフスキーが亡くなる前年に完成した「くるみ割り人形」の音楽は、彼の精華というべきものだ。バレエ台本はホフマンの原作がもつ「物語の中の物語」という構造を活かせていないし、冒険が前半で終わってしまうなど不備があるのだが、それを補ってあまりある音楽の魅力でこのバレエは愛されつづけている。クリスマスの贈り物にわくわくする気持ち、兄弟とのいさかい、人形が壊れると自分がケガをしたかのように痛みを感じること、初めての恋のときめき、異国への憧れ…。シーンの奥に子どもだった自分の気持ちまで見せてくれる音楽なのだ。

 

▼「くるみ割り人形」は、初演から何度も再演出、再振付されて今日にいたる。ベジャールは7歳で母を亡くした自身を投影し、少年の物語にした。オーストラリア・バレエ団では、年老いた元バレリーナが一生を振り返る物語となった。ここまでくると「くるみ割り人形」は、もはや型なのではないかと思う。それもチャイコフスキーの音楽ゆえのこと。多くの人に「くるみ割り人形」を新たなバージョンで上演したいと思わせるのだ。

 

▼指揮者アレクセイ・バクラン氏は、「くるみ割り人形」のクライマックスの曲を聴けば、苦難を乗り越えて幸せを掴んだ瞬間のうれしさを、誰もが思い出せるのではないかという。また、精神性の高い曲がちりばめられており、心に偽りや不誠実さがあっては演奏できないとまで言う。

 

▼クリスマスツリーが大きくなるところ、くるみ割り人形が王子に変身するところ、金平糖の女王と王子が踊るアダージオは、泣きたくなるほど美しい。幸せなシーンなのにかすかに悲しいメロディーは、大人が幼心を取り戻すトリガーなのだ。今年も「くるみ割り人形」を見にゆく。一年間の疲れを洗い流し、ひと時、ピュアな気持ちになる。

 

 

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12月のテーマ◢◤クリスマス

 クリスマスは極めて日本的な美風だ:堀江純一

 クリスマスを堪能するドクターたち:小倉加奈子

 冬になるとやってくる:林愛

 京都は神社が少なく教会が多い?:福田容子

 明治6年、殿様サンタが舞い降りた:梅澤奈央

 秘密のサンタクロース:山本春奈

 一年の終わりに『くるみ割り人形』が欠かせない理由:原田淳子(現在の記事)

 

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  • 原田淳子

    編集的先達:若桑みどり。姿勢が良すぎる、筋が通りすぎている破二代目学匠。優雅な音楽や舞台には恋慕を、高貴な文章や言葉に敬意を。かつて仕事で世にでる新刊すべてに目を通していた言語明晰な編集目利き。

コメント

1~3件/3件

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025

大沼友紀

2025-06-17

●記事の最後にコメントをすることは、尾学かもしれない。
●尻尾を持ったボードゲームコンポーネント(用具)といえば「表か裏か(ヘッズ・アンド・テイルズ:Heads And Tails)」を賭けるコイン投げ。
●自然に落ちている木の葉や実など放って、表裏2面の出方を決める。コイン投げのルーツてあり、サイコロのルーツでもある。
●古代ローマ時代、表がポンペイウス大王の横顔、裏が船のコインを用いていたことから「船か頭か(navia aut caput)」と呼ばれていた。……これ、Heads And Sailsでもいい?
●サイコロと船の関係は日本にもある。江戸時代に海運のお守りとして、造成した船の帆柱の下に船玉――サイコロを納めていた。
●すこしでも顕冥になるよう、尾学まがいのコメント初公開(航海)とまいります。お見知りおきを。
写真引用:
https://en.wikipedia.org/wiki/Coin_flipping#/media/File:Pompey_by_Nasidius.jpg