ディアギレフな松岡校長と編集の夢~78回感門之盟・司会席からの振り返り

2022/04/04(月)09:06 img
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◇◇ディアギレフな松岡正剛と:
人は迅雷な言葉により、再生へと導かれることがある。
「俺を驚かせてみろ」。100年以上前に若きジャン・コクトーは、セルゲイ・ディアギレフの一言で一度死に、そして蘇ると決めた。結果は上々、コクトーは台本を担当したバレエ劇『パレード』で、軽薄才子のレッテルをはがし、本物の芸術家としての名声を得た。
「楽しんでな!」。6年前の花伝生の時代に、がちがちに緊張していたぼくの背中に、松岡校長が言葉をぶつけた。「あ、楽しんでいいんだ」。鬱々が晴れてウキウキが流れ込んだ。そしてぼくの「熱線シーザー教室」(38[守][破]2016~17)が始まり、井ノ上シーザーが誕生した。
自分をコクトーを重ねる噴飯は承知の上で、断言する。不世出のプロデューサーであるディアギレフと松岡正剛は重なる。共通点は、才能を引き出す名手であることだ。

 

 

左:セルゲイ・ディアギレフ(1872~1929)。

サンクトペテルブルクに育つ。
  総合芸術プロデューサー。

バレエ・リュス(ロシアバレエ団)創設者。
  ペテン師にして誘惑者。

 

右:松岡正剛(1944~)。

京都生まれ、高校生から東京育ち。
  編集工学者。

ISIS編集学校校長。
  俳号は「玄月」。 

 

 

◇◇第78回感門之盟リハーサル:
2022年2月24日。佐々木千佳局長からの直電話で、第78回感門之盟初日の司会のオファーがあった。相方は平野師範。3年前に平野さんとぼくは、師範代と担当師範の関係にあった。あの時はハイパーコンテキストなやりとりが楽しかった。でも、このハレ舞台は容易ではない。本番前のリハで、松岡校長はぼくたちに「もっと言葉を発せよ」「笑いに逃げるな、かっこいいところを見せろ」と、アーティストに舞台表現をアドバイスするディアギレフのように指導した。

隠喩と直喩を織り交ぜて、平野と井ノ上に司会のイメージを伝える松岡校長。終了後に撮影したアイキャッチ写真との、緊張感の違いに注目。
松岡校長は素人だろうと妥協はしない。別様可能性を発露させようとしている。ぼくも、編集の面白さは才能を引き出すことにあると思っている。

 

 

◇◇オープニング~コロナ・クロニクルと山下ボレロ:
感門開始を告げる映像が流れる。コロナ禍の編集学校。2020年春、緊急事態宣言下で、多くの学衆が息せき切って編集稽古の門を叩いたことを思い出した。映像のBGMは山下洋輔の18番、ボレロ。激しいクレッシェンドに、校長の沈着な声が対比的だ。

イシス指導陣に語りかける松岡校長と、本楼の本棚劇場でオープニングを飾る佐々木局長。山下洋輔のピアノと林英哲の和太鼓による“ボレロ”が、コロナ禍の有事を揺さぶる。ぼくは山下洋輔さんの大ファンで、学生時代にボレロの生演奏を最前列の席で聴いたことがある。洋輔さんは、ぼくの熱視線をものともせずに演奏をした。

リハ中に、映像を見て涙がこぼれそうになった。

この2年間、編集学校は変えたところもあった。指導陣が顔合わせをする伝習座も、教室のメンバーが集う汁講も、締めくくりの感門之盟も、オンラインとなった。本楼が、多くの人にとって遠い場所になった。でも、松岡校長のディレクションは不変だ。第一次世界大戦の戦禍の中「決然と、精力的にやろう」と述べたディアギレフと重なる。
松岡校長の「表現の自由というのは自己表現ではない。好き勝手書くことでもない。表現の中に自分を見せる技術のことだ」という言葉が耳に残る。自由をめぐる諸問題と解毒作用が、この一言に凝縮されている。

 

 

◇◇ISISボードリミックスで黙考した:

 

「わたしたちは世界史を失っている」。松岡校長の言葉を引き取るかのように、大澤真幸さんが「ロシアはヨーロッパか」「境界としてのウクライナ」「米中関係」といった問いを文明史の文脈から投げかけた。
ぼくはこのように考えた。ドストエフスキーの小説では、フランス語の家庭教師を招へいするサンクトペテルブルクの上流階級の様子が描かれている。そうして彼らは、スノビッシュにヨーロッパ的教養を取り入れる。ディアギレフがロシアからパリに持ち込んだバレエは、もともとはヨーロッパで廃れた芸術形式であった。

 

ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場(内部)。
女帝エカチェリーナ2世の勅令により、オペラ・バレエの専用劇場として作られ、1859年に現在のネオ・ビザンチン様式の建物が完成した。作曲家のストラヴィンスキーも、ディアギレフが発掘する前に、ここで演奏していた。
サンクトペテルブルクは、ぼくが死ぬ前に訪れたい3つの場所の一つだ。

 ヨーロッパとロシアの関係は、日本の江戸と地方の関係に相当するのではないか。そんなアブダクションが蠢く。江戸時代に藩主は知識人を雇い入れ藩校で教えさせ、地方では中央で消えた文化が残っていたりもする。

ロシアはヨーロッパの周辺と捉えられるけど、でも、ギリシャ正教が国教であることはヨーロッパ的ではない。ましてや、ロシア人が恐れる流刑地のシベリアは化外の土地だ。なので、ロシアはヨーロッパ的なところもあるが、ヨーロッパではない。そうすると、やはりロシアは帝国ととらえたほうがよいのでは。
帝国は、独自の文明を域内で持つ。その文明をもって、普遍的な価値観をあらわす。そして、プーチンや習近平は、「ロシア帝国の夢」「中華帝国の夢」の再興を掲げて、西洋と対峙しようとしているのではないか。
…と、あたりをつけていたら、大澤真幸さんは「情報の歴史を読む」講座(3月24日)で、わたしの想像を絶する、より根源的でアブダクティブな仮定を披露した。

 

画面越しの大澤真幸さん。その昔の松岡正剛との知的交友も楽し気に語ってくださった。コーナー司会はカトメグこと加藤めぐみ師範代と、Mr オネスティこと上杉公志。イシス期待の若手二人は、クールに見えて高エントロピーだったりする。

 

 

◇◇物語という向こう側に操られて~物語講座14綴 績了式&授与式:
ISIS物語アワード、窯変ミステリ賞の発表後。小西師範と受賞者のやり取りを聞いて響くものがあったぼくは、壇上の小西師範に尋ねた。「受賞者の北條さんは、物語を書いたのではなく、物語に書かされたのではないでしょうか」。物語講座の受講生であった時、「物語に書かされる感覚で書いてください」と、ぼくに指導をした師範代が、現在の小濱創師だ。あの時は「面白くしてやろう」というスケベ心が仇となり、大した作品は書けなかった。与えられた素材の偶然を必然に生かし思いもがけない展開に向かうことが、トリガーの醍醐味であろう。


物語講座の小濱創師。6綴「ペガーナ舞姫文叢」(2013~14)師範代。「みなさんは作家先生で、わたしは原稿をいただく編集者」と、叢衆を鼓舞した。森鴎外の『舞姫』は未読だったので読んでみたところ、主人公のあまりのゲスぶりに、さすがのぼくも絶句したものだ。

ワールドモデル(物語の設定)や物語マザー(物語のパターン)を踏まえた上で、部分への目配りをする。部分が大事だからこそ「物語は要約できない」。自分の外側にある情報(わたしの明確な境界というものがあるのかも怪しいものだが)を生かす。もしくは亡き祖母がつけた梅干しの質感や、砂浜で足の裏を傷つけた貝殻の表情のような情報を取り込むことで、豊穣たる想起や発見の自由に向かえるのではないか。

 

8年前にぼくが「編伝」を試みた対象が、ディアギレフだった。サンクトペテルブルクからパリへ進出したディアギレフは、第一次世界大戦の動乱により、生涯故郷に戻ることができなかった。
当時のぼくは、政治的対立で分裂していたバンコクに住んでいた。爆弾テロが近所で生じ、殺気だったデモ隊のシュプレヒコールが響いていた。1881年、ロシア皇帝であったアレクサンドル2世もまた、手りゅう弾によって暗殺された。あの時のぼくは、ロシア革命とタイの政治対立を重ね合わせ、異邦人として外国に在留することに思い煩っていた。


バンコクでの反政府デモ(2014年)。バンコクの保守層(黄シャツ派)が、革新的で金権的な政府(支持者は赤シャツ派と呼ばれる)に抗議し、バンコクの主要交差点を占拠した。ぼくのタイ人の同僚は黄シャツ派の人が多く、休暇をとってデモに出かけたので、オフィスががらがらになった。

 

 

◇◇編集の夢~『リオリエント・モダーンズ1300』が蘇る:

感門之盟のタブロイドを眺めていて、この記事に目が醒めるような思いもしたし、胸騒ぎもした。

「幻の『NARASIA3』がリエディットされて

『リオリエント・モダーンズ1300』として蘇る。」

 

向かって松岡校長の右側が才能あふれる金宗代代将。左側の吉村堅樹林頭とは6離観尋院(2010年)からのつき合いで、融通無碍な編集に恐れおののいたものだった。二人とは、近畿大学ビブリオシアターのDONDENでも共に仕事をした(2016~17年)
蛇足だけど、師範代ロールは「性格的に到底無理」としていた。なので、全講座の学衆ロールが完了した時、編集学校を終えようとしていた。けれども吉村さんの一言で引き受けることにした。ぼくの師範代デビューが知られた時、イシス界隈では「えっ、あの人が師範代するの?」とざわめきがあったらしい。

11年も前のことになる。当時のぼくは中国・蘇州の駐在員として、歯ぎしりしながら商売をしていた。
「幻の『NARASIA3』」とは、近代アジアの人物辞典を制作する試みだった。残念ながら、出版は諸般の事情により、中断してしまったけれど。
『インタースコア』の編集長をつとめた広本旅人さん、林頭の吉村堅樹さん、代将の金宗代さんが中心の編集部で、ぼくは執筆メンバーの一員だった。「情報土方」と自嘲するような大変な作業だったけど、好奇心がエンジンとなったし、自分の歴史的現在を確認するような作業にもなった。というのも、ぼくの母方の家系は、満州赤十字社で奉職し、祖母は満州で生まれ、娘時代をそこで過ごした。祖母は、満州の家を訪問した人々について、懐かしそうに語っていた。「張学良さんは上海仕込みのハイカラな人だった。甘粕正彦さんもね、優しくていい人だった」。祖母の記憶をたどると、どうしても満州国の設立(1932~45)は善悪で割り切れない。


中国・大連市の旧ヤマトホテル(現 大連賓館)。ロシア統治時代に建てられた、レトロモダンな建築物。満州国の軍人や政治家に愛され、祖母の話にも出てきた。ぼく自身も1998年から2年ほど大連駐在をして、大連市政府の役人と会食をした思い出がある。

東南アジアの華人についても調べた。その知識は、後のバンコク勤務(2011~20年)で大いに役に立つ。東南アジアの財閥の多くは華人によって成り立ち、広東系や客家系といったルーツで派閥がある。かれらは国境をあまり気にせずボーダレスに生きている。商売上手であるが、時として現地の人々と葛藤が生じたりもした。そして、イスラム教徒とは宗教等の事情によりほとんど婚姻をしない。そういった前提条件を知ることが、いわば、アジアの経済文化の「地と図」に挑むための前準備となったのだ。

マレーシアはペナン島の、客家系大富豪の邸宅。通称「ブルーマンション」。今はホテルとなっており、ぼくは2019年に宿泊した。

建屋は中庭を中心とした口の形をしている。風水では、雨≒よい気≒お金であり、そうして考えると中庭に落ちるスコールが、流れ込むカネに見える。幽玄と現世利益のミックスの塩梅が、とても中華っぽい。写真は、両手を上げてカネのシャワーを浴びようとするぼく。

東日本大震災を経て未だに地殻が落ち着かずに地震が発生し、コロナパンデミックとウクライナ問題が進行する今の視点から、人物辞典の編纂内容は変わったものになるだろうし、『情報の歴史』とリンクできるように工夫すれば、どこにもない一級の資料になるだろう。金さん、吉村さん、プロジェクト再開の際は、お手伝いをさせてくださいね。

 

 

◇◇15年来の、空海と、編集と、ぼくの夢:
感門之盟初日がはねた後、ぼくは松岡校長へお願いごとをした。それは、15年前に購入した『空海の夢』へのサインだった。
当時大阪に住んでいたぼくは、高野山へと家族旅行をしようと思い立ち、司馬遼太郎の『空海の風景』を目当てに梅田のジュンク堂書店へ向かった。その際に、『空海の夢』をついで買いしたことが、松岡正剛との出会いだった。勘と嗅覚には自信のあったぼくは、少し読んで「シバリョーより凄い」とジャッジした。結局、空海と真言密教の探究は諦めたが、この本で松岡編集思想の片鱗をつかみ、今に至る。

松岡正剛はプロデューサーのみならず、自分で執筆もすれば講義もできるし、パフォーマンスすらする。ディアギレフを貶めるつもりは毛頭ないが、この点で松岡正剛の器量はとてつもなく大きい。

15年来のつき合いになる『空海の夢』が、ついに松岡校長サインを得た。(2022年3月20日)

 

 

◇◇付記 いつの間にかのイシス個人史へ:
感門司会の体験記を記すつもりが、編集学校人生の振り返りとなった。師範代へは、「わたしは」という主語を使わないように指南を書けと指導し、自身のエディスト記事でも「わたし」という主語を忌避してきたが、今回はじめて「ぼく」という主語を使った。イシスとの関りを振り返って、そうしたくなったことは大きな転換点なのかもしれない。


  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。