【三冊筋プレス】男も女も踏み外したい(大音美弥子)

2020/12/03(木)10:37
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 幼い頃といえば、「男と女」の役割分担を理解するのにずいぶん苦労した。例外ばかりが多すぎる。そこで、命題を立ててみた。

☆命題:男も女も道を踏み外したい。そして、みんな少女に蹂躙されたがっている。

●証明その1:
『幼なごころ』の恋情と血は
大人から子どもへ還る道筋

 フランスの寄宿学校に学ぶ12歳の少女は目から心臓に落ちていく涙の味を拾うため、わざと先生に叱られることを好むが、それ以上に一つ上級生のプロシア娘が見せる「とても繊細な感じ」のうなじ、きめ細かな肌、その内側を流れる血の一滴一滴を愛してやまない。大きな屋敷で8歳になったばかりの少年は、新来の11歳の女中の苛酷な宿命に共鳴するためにぎごちない手で包丁を振るい、爪と指先の肉少々を弾き飛ばす。
 これらは19世紀末フランスに生まれたヴァレリー・ラルボーが、生涯の手すさびとして書き付けた子供の情景の一部。どんなプロにもなるまいと決めたアマチュアの眼は、いつだって少年少女の頃へタイムスリップすることができた。ばかりか性を超越するのもたやすかった。時間も性も飛び越えるため、彼は「包丁」を必要としたのだろう。自分自身の記憶も、そうでないものも投影するには、固くなった皮膚や筋肉や感性に傷をつける必要があるからだ。その奥にこそ、人間の柔らかい実質が隠れている。

●証明その2:
『うたげと孤心』の双方に響く
「遊びをせんとや…」の調べ

 日本人の歌ごころの奥に潜むものを、「公子と浮かれ女」や「帝王と遊君」などの光と影で刻みとっていった大岡信の『うたげと孤心』。万葉と古今、藤原公任と和泉式部などを対比させつつ、「合す」意志と「孤心に還る」意志との間の戦闘的な緊張なしに、千年響く歌はないと断じたユニークな歌論書だ。なかでやや異色な対比が、1910年代半ばに『梁塵秘抄』に出会い、魅せられた北原白秋と斎藤茂吉の歌である。

一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ(白秋)
うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのび上り見つ(茂吉)

 どちらにも深々と「遊びをせんとや生まれけむ」の調べは残響しているが、白秋の歌は架空や普遍に向けられ、茂吉のそれは現前する幼児らに寄せられたと著者は言う。確かにその通りなのだろうが、より素直に字面から伝わる二人の違いは、ラルボーの作品同様、少女に託したか自分の過去に重ねたかだと見えてくる。二人はともに、幼児のいたいけなさに踏みにじられることを望んだ。しかし、人妻との恋ゆえ裁かれた白秋は遊女の見上げる目線、斎藤家の婿養子に入る直前の茂吉は時の天皇が国見をなすおおらかさで子どもたちを見たのではないか。

●証明その3:
規範と逸脱は「ニワトリと卵」
だと教える『逸脱の文化史』

 子どもが大人に成長するというのは、社会が進化していると考えるのと同様の目くらましである。大人は一晩置いて固くなった豆大福のように取り返しがつかなくなるだけなのだし、社会もまた不可逆的に変質してきた。
 資本主義と国民国家、都市の文明が定着していく社会では、人それぞれの属性を明らかにし、全体の枠組みにどう貢献するかを表明させられる。個人と社会が立身出世と植民地競争に狂奔する時代、規範を強く定めたからこそ、逸脱は起こった。その逸脱から、また新しい規範が生まれ、さらに次へと世界は変わることを明らかに描写したのが小倉孝誠氏の『逸脱の文化史』である。19世紀末からのベル・エポック(美しい時代)を享受したフランスでは、それまで顧みられなかった「若い娘」や「独身男性」の表象が医学・生理学的にも文学的にも定着していき、その土台である結婚や家族についての再定義もなされていく。
 祖父の築いた財産の力で、属性の「レッテル付け」を拒否したのがラルボー、属性を拒否する深い穴へうさぎと一緒に落ち込んでみせたのが、リボンの少女アリスだった。大きなシステムの埒外にエスケープした者からそそのかされる優雅な踏み外し。その誘いに乗ろうかどうしようかと迷ってみただけで、どこかの国民として歩むべき道はもちろん、器用に引いた国境や法律の線さえ、もともとは「ない」ものなのが見えてくる。そうすればやがて否応なしに訪れる第二次性徴≒最終戦争までの時間に自分を永遠にたゆたわせることもできるだろう。

 

●スタジオ凹凸


●アイキャッチ画像:
 左;『うたげと孤心』大岡信/岩波文庫

 真ん中;『逸脱の文化史』小倉孝誠/慶應義塾大学出版会

 右;『幼なごころ』ヴァレリー・ラルボー/岩波文庫

●3冊の関係性(編集思考素):一種合成型 
 幼なごころ+うたげと孤心 → 逸脱の文化史

  • 大音美弥子

    編集的先達:パティ・スミス 「千夜千冊エディション」の校正から書店での棚づくり、読書会やワークショップまで、本シリーズの川上から川下までを一挙にになう千夜千冊エディション研究家。かつては伝説の書店「松丸本舗」の名物ブックショップエディター。読書の匠として松岡正剛から「冊匠」と呼ばれ、イシス編集学校の読書講座「多読ジム」を牽引する。遊刊エディストでは、ほぼ日刊のブックガイド「読めば、MIYAKO」、お悩み事に本で答える「千悩千冊」など連載中。

コメント

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山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025