少年の傷と少女の悩み
小学生のころは健康優良児だった。虫歯が1本もないきれいな歯だ、とクラスの担任にほめられた。なぜか恥ずかしかった。ほかの子のように虫歯になりたいと思った。それで、甘いものばかり食べていたら、めでたく上下左右の奥歯8本が虫歯になった。両親の落胆にちょっぴり心が痛んだが、私は満足していた。いま思うと、なんて意固地でアホな子供だったのだろう。
ヴァレリー・ラルボーの『幼なごころ』を読んで、虫歯の顛末を思い出した。ここに収められた「包丁」には、8歳の少年ミルーが羊飼いの少女ジュスティーヌの薬指の傷痕をみて同情し、包丁で自分の指を切るという行為にいたるまでが詳細に描かれている。少女の痛みを引き受けたくて、少年は自分の体を傷つける。ミルーには精一杯の愛情のしるしだったが、本心は母親にも明かさない。なぜか隠しておきたい気持ちがあるからだ。
こうした幼な心(アンファンティーヌ)を描いた10の短編が、ドビュッシーのピアノ小品集のように響き合っている。主人公は8歳から14歳までの少年少女。ほぼ半分はラルボーの体験を踏まえた自伝的要素の強い作品で、残りは少女の気持ちをみずみずしい筆致でとらえた作品である。
「ローズ・ルルダン」には、ひとつ年上の少女ローザにあこがれる12歳のローズが登場する。「あたしの最大の悩み、この世でたったひとつの望みは彼女の友達になること」。ラルボーは少女の内面を引き出す取材力にも長けていた。幼少期から病弱だったせいか、フラジャイルな幼な心をもったまま大人になったのかもしれない。1世紀の時を超え、少年少女の痛みや悩みを通して読む者の心に懐かしく訴えかけてくる。
秘密は花園にあった
『幼なごころ』と同時代、20世紀初頭に書かれた少年少女向けの古典には、お金持ちの家に生まれながら両親のいない主人公がよく登場する。児童文学の世界では、不足や不服をかかえた幼な心が物語を運ぶエンジンになるのがお約束。フランシス・ホジソン・バーネット作『秘密の花園』もそのひとつだ。
主人公のメアリは、大英帝国の植民地インドに生まれた。10歳のとき両親がコレラに感染して亡くなり、イギリス北部・ヨークシャーに大邸宅をもつ伯父に引き取られる。わがままで気難しく、老人のように精気のなかった少女が、純朴な人たちや自然に触れることで自ら再生し、同じ境遇の少年を再生させていく物語である。
屋敷に着いてまもなく、メアリは駒鳥に導かれて10年間閉ざされていた庭の扉の鍵を見つける。入ってはいけないといわれた秘密の場所は、かえって子供の好奇心を刺激する。メアリは荒野(ムーア)で育ったディコン少年と知り合い、少しずつ元気になっていく。やがて屋敷の奥に引きこもっていた病弱なコリンを引っぱりだし、メアリとコリンとディコンの三人は、大人たちに内緒で古い庭をよみがえらせる作業に熱中していく。
庭はコリンの探求心に火をつけた。少年は自らの弱さを克服するための方法を発見する。「魔法はぼくの中にある!」。自らも庭づくりを楽しんだバーネットは、庭に生命を再生する魔法があることを知っていた。『秘密の花園』は作家の幼な心を呼び起こす、秘密のワンダーランドだったのだ。
幼な心をもち続ける
子供たちが見つけた魔法は、塀に囲まれた庭だけでなく、地球上のいたるところにある。そのことを伝えてくれるのが、レイチェル・カーソンが遺した『センス・オブ・ワンダー』だ。
子供は生まれつき「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」をもっている。まさに生物としてのヒトにそなわった幼な心である。センス・オブ・ワンダーをいつも新鮮にもち続けるためには、荒々しい自然界を探検し、「よろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人がそばにいる必要がある」とカーソンはいう。
この感性は、大人なったときに感じる孤独や倦怠をやわらげる魔法の力を秘めているらしい。そうであれば大人になっても幼な心をもち続けるべきなのだ。
海洋生物学者であったカーソンは、1962年に環境汚染の実態を告発した『沈黙の春』を出版し、2年後に癌で亡くなった。本書はその1年後に、友人らの手でかつて雑誌に発表した原稿を単行本化したものである。アメリカのメイン州にある小さな別荘で、姪の幼い息子ロジャーと一緒に海辺の生きものを探し、雨の降る森で水を含んだ地衣類や苔類の感触を楽しんだ体験を、詩情豊かな文章と写真でつづっている。
『センス・オブ・ワンダー』は、子供たちが自然を感じとる方法や幼な心をもち続けるための方法を、世界の読者に手渡してくれている。
虫歯がなかった7歳ごろの私(左、右は弟)
<参考千夜>
1169夜『幼なごころ』ヴァレリー・ラルボー
1748夜『子どもの本のもつ力』清水真砂子
0593夜『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン
【多読ジム Season03・夏】
●スタジオ茶々々
●アイキャッチ画像
左:『幼なごころ』ヴァレリー・ラルボー/岩波文庫
中:『秘密の花園』フランシス・ホジソン・バーネット/新潮文庫
右:『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン/新潮社
●3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型
┌『秘密の花園』
『幼なごころ』─┤
└『センス・オブ・ワンダー』
小路千広
編集的先達:柿本人麻呂。自らを「言葉の脚を綺麗にみせるパンスト」だと語るプロのライター&エディター。切れ味の鋭い指南で、文章の論理破綻を見抜く。1日6000歩のウォーキングでの情報ハンティングが趣味。
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