【三冊筋プレス】不実で非合理だから心が動く(小路千広)

2022/07/18(月)08:48
img

<多読ジム>Season10・春の三冊筋のテーマは「男と女の三冊」。今季のCASTは中原洋子、小路千広、松井路代、若林信克、増岡麻子、細田陽子の面々だ。男と女といえば、やはり物語。ギリシア神話、シェイクスピア、メリメ、ドストエフスキー、ポール・ボウルズ、アレクシエーヴィチ、『とりかへばや物語』に漱石に有島に春樹に村田沙耶香までが語られる。さらに話は、戦争や民俗学や生物学やフェミニズムやブルシット・ジョブにも展開していく。


 

 現実の恋愛にはとんとご縁がない。その代わりといってはなんだが、テレビドラマを見て胸キュンしたり、人の恋愛話を聞いてハラハラしたりしている。バーチャル体験といえば、手っとり早いのが物語を読むことだ。現実にはありえない過激で異常なものに触手が動いた。

 

男に命令されるのはまっぴらだ

 

 カルメン。その名を聞いただけで頭の中に「ハバネラ」の旋律が鳴り響き、聴衆の真ん中で歌い踊る女の姿が浮かんでくる。ビゼー作曲のオペラ『カルメン』のイメージが強いのだろう。小説は、フランス人の考古学者がスペインの調査旅行で体験した話と、旅先で出会った死刑囚の男から聞いたジプシー女との激しくも哀れな恋物語と、作者メリメのジプシー論で構成されている。スペインで採集した実話をもとに1845年に執筆した。
 男の名はホセ・ナヴァロ(通称ドン・ホセ)。貴族の生まれだが、訳あって煙草工場の衛兵になる。そこで騒動を起こしたカルメンの虜になり、恋敵の中尉を刺して連隊を追われ、ジプシーと行動を共にする。一方のカルメンは、すでに夫がいながら、ドン・ホセ、イギリス人の士官、若い闘牛士と、つぎつぎに恋人を取りかえる。
 女は情欲的な黒い目と若くて美しい容姿を武器に男を誘惑する。だけど、男の意のままにならないという流儀をもっていた。生きるために盗賊や密輸のような危険な仕事はするが、惚れた男にはお金をねだらない。ドン・ホセが亭主を決闘で倒してしまうと、とたんにカルメンの恋心は醒めてしまう。
「わたしはうるさいことを言われたり、命令されたりはまっぴらだよ。わたしの願いは、自由にしておいてもらって、勝手なことがしていたいんだ」
 そう、カルメンは男たちを翻弄する、自由な女なのだ。メリメの一作が、結婚や夫婦関係に忠実といわれるジプシー女のイメージを変えてしまったのではないか。いや、真の犯人はオペラのカルメンかもしれない。
 最後まで女を説得できなかった男は、女を刺し殺し、その罪で絞首刑となる。恋の道行は二人の死で終わる。

 

人間の女より人形に惹かれてしまう

 

 1815年にホフマンが執筆した『砂男』もまたバレエやオペラ、芝居などに翻案されて有名になった。バレエの『コッペリア』は人形に恋をした男を喜劇的に描いている。最近では芸術家の森村泰昌が『砂男』を題材に、人形浄瑠璃の人形を人間が演じる「人間浄瑠璃」を創作して話題になった。小説はサイコ・ホラーの元祖とされ、男の狂気を不気味な筆致で描写している。
 男は過敏な感受性をもつ若者ナターナエル。幼いころ婆やから眠らない子供の目玉をくりぬいてしまうという砂男の話を聞き、父親を訪ねてくる弁護士コッペリウスを砂男だと思い込む。やがて幼なじみのクララと結婚の約束をするが、大学に入ると望遠鏡で見た教授の娘オリンピアに心を奪われ夢中になる。
 女らしいやさしさと鋭い理性をそなえた聡明な女性と、華奢で美しい容姿と華麗な歌声をもつ魅惑的な女性。ナターナエルの心は、後者に強く惹かれていく。しかし、望遠鏡を売りつけたコッポラ(正体はコッペリウス)が教授と争ううちに、オリンピアの体が壊れ目玉が飛び出してしまう。娘は教授が20年かけて製作した自動人形だったのだ。その目玉を投げつけられた若者は発狂する。
「まわれ――まわれ――火の環――火の環! どんどんまわれ――火の環――いいぞ――愉快だ――ほれ、木の人形、美しいお人形さん、まわれ、まわれ――」
 恋に狂った男は、再びクララの元に戻るが、塔から飛び降りて命を絶つ。地上には不気味な砂男コッペリウスの姿があった。
 ナターナエルの目を狂わせたものは、いつも覗いていた望遠鏡だったのかもしれない。光学レンズを通して見る人形は人間のように見え、幻想をかきたてたはずだ。

 

歌って話せるチンパンジーになる

 

 二つの物語を読むと、ある疑問が湧いてくる。人間はなぜ幻想に惑わされるのだろうか。おそらくは想像力があるからだ。では、何のために恋愛をするのだろうか。おそらくは人類が生き残るためだ。そういう見方をするようになったきっかけは、ジャレド・ダイアモンドの『第三のチンパンジー』にある。
 この本は著者の処女作『人間はどこまでチンパンジーか?』を、若い読者のために再編集したもので、2014年に刊行された。人間を、コモンチンパンジー、ボノボにつづく三番目のチンパンジーと分類し、動物に向ける視線で人間のもつ「ユニークで危なっかしい性質」をどのように発達させてきたのかを考察している。
 人間とチンパンジーの違いは、音声をコントロールでき、幅広い発声ができるようになったことである。それにより話し言葉が発達し、「大躍進」が可能になった。
 人間は、相手を誘惑するためにダンスや音楽、詩などの芸術をよく利用する。歌や踊りは言葉が生まれる前から男と女のコミュニケーションの手段であった。それが、ロマンチックな関係やセクシャルな欲望のきっかけにもなる。カルメンもオリンピアも歌や踊りで男を虜にした。たとえ死で幕を閉じたとしても、恋愛の喜びや性愛の楽しみを感じられるなら人は相手を求める努力をする。そうすれば遺伝子を残すことができ、人類は滅亡することはないだろう。
 
 三冊を読んで改めて気づくのは、男と女のあいだには矛盾や逸脱や非合理なものがあることだ。それが人間と動物の大きな違いだと確信した。ドン・ホセとカルメン、ナターナエルとオリンピアのような恋愛はできないけれど、物語の中なら登場人物の誰かに自分を重ねることはできる。カルメンがたくさんの私のひとりかもしれない、と妄想してみるのも楽しいではないか。


Info


◆アイキャッチ画像◆

『カルメン』プロスペル・メリメ/新潮文庫
『砂男/クレスペル顧問官』E・T・A・ホフマン/光文社文庫
『若い読者のための第三のチンパンジー』ジャレド・ダイアモンド/草思社文庫


◆多読ジム Season10・春◆

∈選本テーマ:男と女の三冊
∈スタジオよーぜふ(浅羽登志也冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):三間連結型

 『カルメン』━『砂男』━『第三のチンパンジー』


◆著者プロフィール◆

∈プロスペル・メリメ
1803年パリ生まれ。パリ大学で法律を学んだが、文学に魅せられ、22歳で戯曲集を発表。スタンダールらとともに自由主義的な一派を形成。プーシキン、ゴーゴリなどロシア近代文学の翻訳紹介に努めた。美術史家としてフランス歴史記念物監督官を30年以上勤め、視察旅行でスペインを三度訪れた。死後、愛人関係にあった多くの女友達との書簡集が刊行され、献身的な一面も見せた。

 

∈ E・T・A・ホフマン
1776年ドイツ生まれ。ケーニヒスベルク大学法科卒業後、判事を務めるかたわら、文学、音楽、絵画に多才な才能を発揮。後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られる。敬愛するモーツァルトにあやかって、アマデウス・ホフマンと名乗った。作品はバルザック、ドストエフスキー、ポーなど多くの作家に影響を与えた。

 

∈ジャレド・ダイアモンド
1937年ボストン生まれ。ハーバード大学で生物学を学び、ケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得。分子生理学の研究者となる。鳥の観察の愛好家であり、鳥類の進化生物学、ニューギニアを中心とする生物地理学の研究も手がける。研究成果をまとめた『銃・病原菌・鉄』(1997年)で世界的に名を知られるようになった。


  • 小路千広

    編集的先達:柿本人麻呂。自らを「言葉の脚を綺麗にみせるパンスト」だと語るプロのライター&エディター。切れ味の鋭い指南で、文章の論理破綻を見抜く。1日6000歩のウォーキングでの情報ハンティングが趣味。