長谷川真理子 | 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp Sat, 23 Dec 2023 05:16:26 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.1 https://edist.ne.jp/wp-content/uploads/2019/09/cropped-icon-512x512-32x32.png 長谷川真理子 | 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp 32 32 [AIDA]シーズン1 ボードインタビュー:岩井克人さん◆前編 資本主義に対抗できる普遍的なシステムとは https://edist.ne.jp/guest/aida-s1-iwaikatsuhito-1/ https://edist.ne.jp/guest/aida-s1-iwaikatsuhito-1/#respond Tue, 01 Aug 2023 23:00:04 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=52467 今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始ま […]

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今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始まったSeason3のテーマは「日本語としるしのAIDA」。新シーズンの展開とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。

 ※内容は取材時のもの

 


 

2020年後半から2021年初頭にかけて、編集工学研究所は、自ら主催する“共創のための知のプラットフォーム” Hyper-Editing Platform [AIDA](以下、[AIDA])において、「編集的社会像」というコンセプトを打ち出しながら、「生命と文明のAIDA」をテーマに新しい社会のあり方を描くための議論を行ってきました。本稿では[AIDA]のボードメンバーである経済学者の岩井克人さんに、人間と資本主義の関係を軸とした「編集的社会像」の可能性をうかがいました。

 

岩井克人(いわい かつひと、1947年〜):経済学者、東京都生まれ。国際基督教大学客員教授、東京財団上席研究員。東京大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学経済学博士(Ph.D.)。イェール大学助教授、プリンストン大学客員準教授、ペンシルバニア大学客員教授、東京大学経済学部教授などを歴任。研究は法人論、信任論、言語、法、貨幣論など広範囲に及ぶ。2007年4月紫綬褒章を受章。主な著書に『不均衡動学の理論』『ヴェニスの商人の資本論』『二十一世紀の資本主義論』『経済学の宇宙』など多数、『貨幣論』にてサントリー学芸賞、『会社はこれからどうなるのか』にて小林秀雄賞受賞。

 

AIDAで配布されたボトル

「編集」というものの見方

ーー 岩井さんはボードメンバーとして[AIDA]に参加されています。[AIDA]で交わされてた議論について、どのような感想をお持ちですか。

 

岩井克人(以下、岩井) [AIDA]は発見に満ちた、斬新な場だと思いました。特に進化形態学者の倉谷滋先生(第4講)の講義には知的な興奮を覚えました。進化と発生をテーマとした倉谷先生のお話をきっかけにして、あの場で起こった議論の論点が、私の専門である貨幣論の論点とつながっていく感覚を持ったからです。

 「編集」とは、色々なものを組み合わせて、新たな何かを打ち出していくことだと私は理解しています。経済学者のヨーゼフ・シュンペーターは「新結合」という言葉でイノベーションの概念を説明しましたが、これは「編集」という考えと対応していると思います。シュンペーターが提唱するイノベーションとは、無の状態から新たなものを作ることではなく、既存のものの組み合わせのことです。その上で彼は「5つの新結合」(*1)という概念を提示しました。

*1:シュンペーターの「5つの新結合」:「新しい財貨(製品)の生産」「新しい生産方式の導入」「新しい販路の開拓」「原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得」「新しい組織の実現」

 

 もう1人、「編集」と聞いて連想したのは「観念史」を確立したアーサー・O・ラヴジョイです(『存在の大いなる連鎖』 – 千夜千冊 637夜)。『存在の大いなる連鎖』(翻訳=内藤健二、ちくま学芸文庫)で彼は、この世の中には新しいものは何もない、ジョークの数が限られているように、アイデアの数も限られている、と述べています。新しいと思われるものは、基本的には、古いアイデアの新しい組み合わせでしかないというのです。

 経済学を研究していると、同じ問題が色々な形で繰り返し現れてくることを実感します。そのように捉えると経済学が理解しやすいんですね。そういう点で、「編集」というものの見方は、私が経済学史を学びながら得てきたものに対応していると考えています。学者は過去の学問の歴史の編集者です。

 

 

「生物の進化」と「文化の進化」の違い

 

―― [AIDA]第4講で、岩井さんは「生物の進化」と「文化の進化」の違いについて言及しました。その際、集団遺伝学者である木村資生(きむら もとお)(*2) さんの「中立進化論」を紹介されました。

*2:木村資生:日本の集団遺伝学者。中立進化説を提唱した。日本人で唯一ダーウィン・メダルを受賞している。

 

岩井 「生物」と「文化」には共通点だけではなく、明確に相反する違いもあります。共通点は、どちらも進化する点です。ただし、進化とは、必ずしもより高い次元に成長することを意味しません。

 かつて経済学の世界を支配していたのはマルクス経済学でした。マルクス経済学では、社会のあり方には発展段階の法則があると考えます。封建主義から資本主義、社会主義、さらには共産主義に向かっていく段階を設定するんです。マルクスが「資本論」の下敷きにしたヘーゲルの思想も、「主人 – 奴隷」の対立関係が、より高度なものに発展するとしています。

 ダーウィンの「進化論」は、こうした「進歩史観」を完全に否定した点で革命的です。ダーウィンの言う進化は、高い次元を目的に変化し続けるという意味ではありません。その時、その場の状況に応じて変化が引き起こされることを進化と定義したのです。「進化論」の基本原理は「生き残ったものが生き残った」としか言いようのない一種のトートロジーです。「進化論」は科学なのかという問題はあります。ですが、1つでも反証が出れば理論が崩壊するという意味で、わたしは最も極限的な意味での科学だと思っています。そして、上のトートロジーから、種がより高い確率で生き残るのはどのような条件下なのかを探求するという、科学プログラムが生まれたわけです。それが「進化論」です。

 木村資生さんの「中立進化論」は、分子レベルで起こる「突然変異」の大部分は、ほぼ中立か若干マイナスの効果を持って生じることを理論化したものです。種を滅ぼすほど不利にはならない遺伝変異は淘汰の網にかからずに、個体の遺伝子プールの中に発現しない形で一種の資産のように蓄積される。すると、(ある種の)種は環境変化が起きた時に、これまで蓄積してきた中立的(有利でも不利でもない)な遺伝子を豊富に抱えていることで、その中のいくつかが適応度を増して、種として生きながらえる可能性が生まれる。[AIDA]第4講で倉谷先生がお話しされた「前適応」(*3)もこのメカニズムが関係しています。

*3:前適応:ある生物の器官や行動に対して、これまでほかの機能を持っていた形質が転用され、異なる生活または機能に対してたまたま適応性を持つこと。

言語、法、貨幣が人間を人間たらしめる理由

 

―― 「生物の進化」と「文化の進化」の違いを考える上で重要な概念として、岩井さんは言語、法、貨幣を挙げられています。

 

岩井 人間と動物には大きな違いがあります。人間は、ほかの人間と一緒に社会を作り、その社会の中で生きます。「人間は『ポリス的動物』である」とアリストテレスは書いています。人間は自分たちで作った社会の中でしか生きられないのです。

 もちろん、人間が社会的であるのと同じような意味で、社会的な動物というのも存在します。蜂やアリ、鶴をアリストテレスは挙げていますが、蜂であれば、ほかの蜂と協働することが遺伝子に書かれています。しかし、人間には、そのような遺伝子はありません。

 では、人間はどうして社会的な存在たりえているのでしょうか。一見すると、脳にその秘密がありそうです。脳科学研究で最近特に重要なのが、ソーシャルブレイン(社会脳)の研究です。1990年代半ばにイタリアのパルマ大学神経科学研究室が「ミラーニューロン」を発見しました。日本語に訳すと「鏡像神経」です。他者がある動作をすると、自分がその動作を行う時と同じように反応する脳の神経細胞のことです。”I feel your pain” という表現がありますが、ソーシャルブレインが発達した人間は、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じることができます。

 人間は他者に共感する能力をある程度までは遺伝的に持っているのかもしれない。これが大発見でした。この発見は、人間は生まれつき社会的な存在であるかもしれない、という仮説を後押ししました。

 実は、この発見は経済学と関係しています。アダム・スミスは『国富論』以前に『道徳感情論』(1759年出版)を執筆し、人間社会の道徳を他者への「共感」から導こうとしました。後の『国富論』では、その「共感」が必要ない社会として資本主義経済を描きましたが、その『国富論』が経済学の聖典となったのと同様に、この『道徳感情論』はミラーニューロンをはじめとする社会脳研究の一種の聖典のような役割を果たしています。

 ですが、アダム・スミスには申し訳ないのですが、社会脳からは人間の社会性は生み出されません。私は経済学を専門にしていますが、人間の他者への共感力や他者とコミュニケーションを行う社会的な能力と遺伝の関係について、色々と調べてきました。そこから、次の問題を考えました。それは、人間の社会性は生物学的に決められていることなのかという問題です。私は、人間には社会脳、さらには遺伝的な共感には還元できない社会性があると考えているのです。それを可能にするのが言語、法、貨幣です。

 なぜ、言語、法、貨幣が重要なのでしょうか。人間の遺伝子には言語、法、貨幣を使える能力が書かれているかもしれません。しかし、言語、法、貨幣、”それ自体”は遺伝子には記述されてはいません。生まれたばかりの赤ん坊の脳細胞をいくら調べてみても「日本語の遺伝子」(言語)や、「私有財産の遺伝子」(法)、「1万円札を1万円札とみる遺伝子」(貨幣)は絶対に見つかりません。

 では、言語、法、貨幣はどういう存在か。私が日本語で話をすると、日本語が分かる受け手は、意味ある言葉として受け取ってくれます。言語がコミュニケーションを媒介するのです。しかし、言語というのは、物理的にはあるパターンをもった空気の振動にすぎません。

 貨幣についても同様です。お店に行って物を買い、お金を渡す。1万円札は物理的な存在としては単なる紙切れですが、お店は1万円の価値として受け取ります。私とお店とのあいだで交換が成立することで、私はあらゆる商品を購入することができるのです。

 言語、法、貨幣は、それ自体は物理的には、ほぼ無内容なものです。ところが、そんなほぼ無内容な存在が人々のあいだのさまざまな意味での交換、つまり、コミュニケーションを可能にする。そういう存在なのです。人間社会は、社会脳によって支配されているだけではなく、社会脳をはるかに超える働きをする言語、法、貨幣を介在させることで社会を作ってきた。言語、法、貨幣こそが、人間を人間たらしめていると言えるのです。もちろん、社会脳は、人間が言語や法や貨幣を獲得する際の重要な足がかりを与えたことは否定しません。

 では、人間性とはどこにあるのか。それは、人間の外部にあります。言語、法、貨幣は人間にとっては外部の存在です。少なくとも生まれたときにはそうです。それらは、抽象的な意味や権利や価値の担い手です。人間はそういう抽象的な意味や権利や価値を媒介として、生物学的な関係を超越した関係をお互いに結ぶことができるのです。そういうふうに考えると、生物学的な人間像とは違った人間像を提示できるはずです。

 

―― 科学技術の進歩によって、さまざまな機械を含めて、人間が「外部の存在として使えるもの」が増えています。その多くは物理的な価値だけではなく、抽象的な価値も持ち得ます。言語や法、貨幣の次なるものは予測できるものなのでしょうか。あるいはわたしたちは、「それ(ら)」にたまたま出くわすものなのでしょうか。また「それ(ら)」は人間の社会を進化させてきたのでしょうか。

 

岩井 まさに「出くわす」ものだと思います。言語、法、貨幣は、人間がその都度、出くわした存在です。英語で言えば、人間が”stumble upon”した存在です。

 ホモ・サピエンスは約20万年前頃から存在していたと言われています。ところが、ホモ・サピエンスが言語を使い始めたのは約5万年前です。10万年前まで遡れるかもしれません。人間の脳には言語を使う能力がありながらも、実際に言語を使いはじめたのはかなり後のことなのです。

 文字についても同様です。文字がいつ頃発明されたのか、その時期は正確には不明ですが、約8000年前くらいには文字が使われていたとの研究があります。驚くべきことに、それまでも人間の脳は文字を書く能力を持ちながら、使っていなかった。それでも何十万年も生きていたのです。これは、識字障害を持つ人間が、一定割合存在することにも関係しています。

 私たちの脳や遺伝子には、すでにいろいろな可能性が、潜在的な能力として埋め込まれています。ただし、それらを使えるようになるかどうかは、分からない。予見することはできないのです。人間がそれ(ら)に「出くわす」としか言えないわけです。

 言語、法、貨幣と人間社会の進化(変化)についてですが、たとえば、法について考えてみましょう。私が賃貸物件を借りるとすると、賃貸契約書を大家さんと結ぶ必要があります。賃貸契約書には、貸主と借主という欄があり、両者は空欄になっています。法に従い、このブランクに名前を記入して、書面に記述された約束事項に合意をすると、(賃貸)契約が成立します。

 ここで注目すべきは、契約の貸主と借主の関係です。契約を結ぶと、方程式のXとYに数字を入れるように、2つ名前が空欄に入ります。貸主は家なら家の権利を持ち、借主から賃貸料をもらう権利が発生しますが、借主は家を借りる権利を得て、貸主に賃貸料を払う義務を負います。

 法律は、「権利」と「義務」を負った人間の関係を作ります。法律の下では、人間は、契約書のXとYという空欄に入る名前であって、どんな人間かは問われません。法の下では、(抽象的な)権利や義務で人間関係を整理することで、「この人をよく知っている」とか「力が弱い」などは関係なく、「普遍的な権利を持った人間」が生み出されるんです。

 すると、かつては権利を制限されていた存在、たとえば、女性や障害を持つ人も「普遍的権利を持った人間」として扱うべきであるという思想が出てきました。法律的には個々の人間はXやYだから。人間が言語、法、貨幣という抽象的な意味や権利、価値を媒介することで社会的な存在となることが、人間自身や社会を進化させてきたといえるのです。

 

 

「足し算」と「引き算」の普遍的な原理で動く資本主義

 

―― 地球環境汚染から個人の病まで、現在の人類はさまざまな問題に直面しています。その中で、1人ひとりの人間はどのような倫理観や道徳観を拠り所にして生きるべきなのでしょうか。資本主義との関係と絡めてお話いただけますか。

 

岩井 資本主義に関して、まず人間は貨幣に行き当たりました。現代のトルコ領であるリディアという王国で紀元前7世紀に最初の硬貨が鋳造されたと言われています。世界で最初に紙幣を作ったのは中国です。

 重要なのは、歴史の中で最初に全面的に貨幣化した社会は古代ギリシアであったということです。金銀の合金を使った貨幣はドラクマと呼ばれました。単なる金属のかけらが、あらゆるものとの交換可能性を与えてくれました。世の中にあるすべての物が、究極的には1つの抽象的な価値に還元できる。古代ギリシアのドラクマは、これを実践したわけです。世界のあらゆるものの価値を体現する貨幣という存在が、哲学的にはプラトンのイデア論につながっていきます。それは、他方で多様な自然現象の背後に統一的な法則を見い出そうとする原子論のような科学も生み出しました。

 貨幣は、人間を共同体から切り離して自由にすることも可能にしました。どんな人間でも1ドラクマを持っていれば、1ドラクマと同等の価値があるとされるものを買えるという意味で、貨幣は「平等主義者」なのです。貨幣が人間を個人として確立させたのです。

 貨幣はやがて資本主義を生み出します。資本主義の行動原理は単純明快です。仮に私が商売をするとしましょう。商売のために必要なものを買うことになるわけですが、それらすべてを「足し算」すると費用が計算できます。そこから私が売ったものすべてを「足し算」すると収入が計算できます。収入から費用を「引き算」すると損益が計算できます。利益がプラスならば、その活動にさらにお金を注ぎ込む。投資をする。利益がマイナスならば、その活動からお金を引き上げる。もしくは借りればよい。

 資本主義とは「足し算」と「引き算」だけで動いているシステムなのです。足し算と引き算は、単純な算術の原理です。高等数学は必要ありません。その原理のみを行動原理にする資本主義は、普遍的なシステムであるということです。ですから、資本主義は必然的にグローバル化しやすい。どんな文明でも、どんな人種でも資本主義に基づいた営みができるわけです。

 資本主義は同時に、格差や環境破壊といった問題も引き起こしてきました。では、これに対抗する行動原理があるのでしょうか。たとえば以前、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』(早川書房)がベストセラーになりました。サンデルは「コミュニタリアン(共同体主義)」を宣言し、現代社会の混迷から脱却するには、古代ギリシアのポリス市民のように、共同体全体にとって何が「善」であるかを人々が絶えず議論し、共同体全体の運命に関心が持てる政治を行うべきだと主張しました。

 しかし残念ながら、「コミュニタリアン(共同体主義)」は、資本主義を補正する思想としては重要な役目を果たしますが、対抗するほど普遍的な行動原理ではありません。資本主義に対抗するには、「足し算」と「引き算」と同じくらいの普遍性を持った原理が必要になります。

 私は、それに値する原理を考察する上で、イマヌエル・カントの「道徳論」に注目しています。カントは、人の理性によって導き出される普遍的な道徳規則があるとし、「他のすべての人間が、同時に採用したいと(自分自身が)思う行動原理に基づいて、行動しなさい」と述べています。

 

―― 行動を行う時に”すべて”の人間を意識することはとても難しいのが実情ではないでしょうか。ここでは、どの範囲までが”すべて”なのでしょうか。

 

岩井 “すべて”の人間といっても、知らない人について考えることはなかなかできません。ただ、それがポイントです。カントの原理においては具体的な人間を考える必要はありません。もし他のすべての人が採用してほしいと願う行動原理があるとすれば、それはまさに「他のすべての人が採用してほしいと願う行動原理に従って行動せよ」という原理しかありません。ですから、この原理は普遍的なのです。もちろん、われわれの生活においては、自分自身、家族、同僚や知人、属するコミュニティの人々など、想定可能な範囲で道徳的に振る舞うべきかどうかを考えてしまいます。

 カントの道徳論がわれわれに教えてくれるのは、普遍的な原理があることを常に頭に置いて行動することが重要である、ということでしょう。実際にすべての人間のことを考えるのは限りなく不可能です。ですから、カントの言葉でいえば「統制的原理」として道徳を使って、現実的には、地道に自分、自分の家族、仲間を意識することから、ということになるのではないでしょうか。

後編につづく

 

取材/撮影/執筆:橋本英人(編集工学研究所)
取材:安藤昭子(編集工学研究所)
撮影:川本聖哉
編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)

 

※2021年5月19日にnoteに公開した記事を転載

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[AIDA]シーズン1 ボードインタビュー:長谷川眞理子さん◆後編 「ここ最近の20万年」越しに捉え直す、今とこれからの社会像 https://edist.ne.jp/guest/aida-s1-hasegawamariko-2/ https://edist.ne.jp/guest/aida-s1-hasegawamariko-2/#respond Mon, 13 Mar 2023 23:06:00 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=50522 今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始ま […]

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今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始まったSeason3のテーマは「日本語としるしのAIDA」。新シーズンの展開とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。

 ※内容は取材時のもの


 

前編 はこちら

 

コロナ禍におけるこの1年の社会環境の変化は、10年あるいは数十年分に相当するという声を多く聞きます。ではこの数十年の変化は、600万年のヒトの歴史から見た時に、どのように映るのでしょうか。ホモ・サピエンスが生まれて以降の20万年を「ここ最近」と表現する、Hyper-Editing Platform [AIDA]のボードメンバーであり、自然人類学者の長谷川眞理子さんに、人類の進化の文脈からみた現在とこれからの社会像についてお話をお聞きしました。

 

長谷川眞理子(はせがわ まりこ):1952年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。イェール大学人類学部客員准教授、早稲田大学教授などを経て、現在は総合研究大学院大学学長を務める。専門は行動生態学、自然人類学。著書に『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(光文社新書)、『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている』(青土社)など。

 

 

急激な環境変化に人間の脳はついていけるのか?

 

―― 人間の脳は、はるか昔から相当なハイスペックだったわけですね。産業革命以降、もしくは直近20年で生じている急激な環境変化の中で、わたしたちの脳や心はどのように環境と折り合いをつけてきたのか、あるいはつけられていないのか。それがまだ分かっていないのではと思います。

 

長谷川真理子(以下、長谷川) 人間の脳は因果関係による推測や抽象的な概念の操作ができます。そのため、学問や科学技術はここまで発展することができました。とはいえ、人間の脳が何にでも対応できるわけではありません。現在のコンピュータの情報処理能力は人間のキャパシティを超えていますから、環境に対応する上での人間の脳の限界が近づいてきていると言えるかもしれません。実際、AIが出してきた答えについて、どうしてそうなるかというプロセスを人間が理解できないという状況が生じています。

 AIは人間の脳の機能とは全然違うので、AIが人間の脳にとってかわることはないでしょうが、果たして、人間の脳がAIをどこまで使いこなせるか、甚だ心もとないです。AIに何を任せるか、何を任せないか、AIが出した答えの取捨選択は非常に難しい。これまで経験したことのない状況に人類はいると言えます。

 

―― 科学技術の発展は機能拡張という面で人体のあり方にも影響を及ぼしています。デザイナーズベイビーのような遺伝子操作にまつわるテクノロジーについてはどう思われますか?

 

長谷川 遺伝子のはたらきの全貌が明らかになっているわけではないので、遺伝子操作による影響は全部は把握できていません。なので、卵子や精子に手を加えることは、いまはやらないという約束になっています。ただ遺伝子の仕組みやはたらきが全部分かりました、となった時には、遺伝子操作は一気に裾野を広げる可能性があると思います。最初は病気の遺伝子を変更することから始まって、より健康にしたい、肥満を避けたい、美しくしたいなど、人間の欲望に乗っかって遺伝子操作を適用する範囲が広がっていくのではないかと思います。現世代の人にとって最適な選択に思えることでも、次世代の人の解釈は違うかもしれない。自分は遺伝子を改変されたと知ってしまった時、その人はどう思うか。改変を指示した人はそこにどこまで責任を持てるでしょうか。たとえそれが我が子を思っての選択であったとしてもです。これは難しい問題だと思います。

 

 

「共感の回路」を操作できる前頭葉は諸刃の剣

長谷川真理子

―― AIや遺伝子操作などの科学技術が成熟するほどに、人類として何を選択していくべきか、その判断軸となる「倫理」がより切実に必要になるのだと思いますが、人類の進化の過程で倫理のようなものが働いた例はあったのでしょうか。

 

長谷川 「倫理」や「道徳」のおおもとは、他者に対する共感だと思います。社会生活をする哺乳類には共感の1つのかたちである「痛み伝染」があり、自分の近くにいる個体が痛がっていたら、その痛みは自分にもふりかかってくる可能性があるので、防衛のために痛みを疑似体験すると言われています。自分が痛みを疑似体験するに留まらず、痛がっているねずみに対して、痛みが伝染した側のねずみがぺろぺろ舐めて慰めてあげるという現象も確認されています。これは犬と人間の関係にもありますよね。愛着がある対象との間で、「痛み伝染」という「共感」が生じるんです。

 人間は前頭葉が発達しているので、肉体的な痛みだけではなく、心理的な痛みにも共感します。仲間はずれの痛みや失望、孤独感など、いわゆる社会的な痛みを自分のことのように感じるのは、さきほどお話しした「痛み伝染」ではなく、前頭葉の働きです。情動を喚起する大脳辺縁系で怒りや悲しみが湧き上がってきますが、そこには前頭葉の働きが密接に結びついているので、他者が感じている社会的な痛みに共感するんです。これが他人に対する同情や共感、親切といった脳の基本的な仕組みです。

 ただ、共感するだけでは現実の状況に対応できないので、人間は理性を駆使して、現実的な対処法を一生懸命考えます。それが哲学や法学、倫理学として体系化されていきました。「他人の置かれた状況に共感する」という前頭葉の働きが倫理の基本なのです。

 おそらく、サバンナなどでみんなで一緒に働かなければいけない状況においては、仲間の状態をちゃんと把握していないと生きていけなかったのでしょう。生き残るためには、ある一定の共感が必要だったのだと思いますが、この能力をいかに社会的な力として共有していけるかは、前頭葉がどれだけ想像力を働かせられるかと同じことなので、それなりの訓練や経験が必要です。

 

―― インターネットによって全世界がつながり、他者の状況や感情が自分にそのまま降り掛かってくるような世界になったように思います。ただ、総体としての人類の共感力が発達したようには思えません。

 

長谷川 前頭葉を働かせて、他人の悲しみを感じるのが人間の倫理の基礎だと言いましたが、前頭葉の力は諸刃の剣なんです。あえて前頭葉で共感の回路を切断し、他人を傷つけてもいいと思ってしまうこともできるんです。人間は共感できるし、その範囲を広げることもできますが、一方で、昨日まで仲間だった隣人を攻撃することもできるわけです。人類はその両方を繰り返してきました。

 時と場合によっては、共感の回路を切ることも必要です。お医者さんがメスを入れる時に毎回痛みを感じていたら仕事になりません。わたしもアフリカに滞在していた時に経験したんですけど、一緒に行っていた大学院生が、サトウキビを切る山刀で自分の手を切っちゃったんです。私は救急療法を習っていたので「任せなさい」と言って、痛い痛いと言っているのを「ちょっと我慢して」なんて言いながら止血したんですね。で、手当てをひととおり終えたところで、私の方がフーっと倒れちゃったんです。あれも、一瞬、共感回路を切ってたんですよね。

 すべての痛みに共感していたら、集団としての生存能力は落ちてしまいます。だから、前頭葉の機能の使い分けは必要なんです。

 

 

未来の他者に、どう共感するのか

 

―― 共感を最大限に活用したり、逆に共感回路を切ったりするのは、結局、その都度の選択の問題なのでしょうか。

 

長谷川 そうですね。ただ、それが意識的な選択ばかりではなく、無意識に左右されることもありますよ。世の中の雰囲気や空気など。関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」なんていう流言が広まったことがありますが、1人ひとりが積極的な考えを持っていなくても、みんなが恐怖に陥って集団の恐怖状態が増幅されていったような状況だったのではと思います。意識して思考しているんじゃなくて、集団でそういう回路に入っちゃうんですよね。そういったことをSNSは煽るんじゃないかと危惧しています。

 

―― 確かに、顔なき人たちの声の大きさには恐ろしいものがありますね。

 

長谷川 それも決して合理的なものではないでしょ。立ち止まって自分の考えを整理しなくても、コメントしたり、リツイートしたりするだけで、ある一定の意思表示ができてしまう。その流れの中でお互いに反応し合っているうちに、集団の感情が増幅していきますよね。これはとても怖いことだと思います。人間はこの大きな脳で科学技術を発展させながら、同時に哲学を生み出してきました。それは個体が生き残るために必要なことだったはずで、そのことを今、あらためて思い出さなければならないでしょう。

 

―― 反応と共感は違いますよね。さらに言えば、これだけテクノロジーが発達して遺伝子までいじれるとなった時に、現在の他者に留まらず、遠い未来の他者への共感がないと、地球全体がおかしなことになるというところまで来てしまっていると思います。

 

長谷川 以前、経済学者の岩井克人さんがおっしゃっていたことで、そうだなと思うことがありました。今の世代の人が今の環境で幸せを追求しますよね。今の地球を共有している人たちのところに、未来の人はプレイヤーとして入ってこれない。同様に未来世代の代表に現世代の人がなることもできません。そう考えると、未来世代を入れた経済の設計は構造的にはできないので、経済の問題にはそこを補填する哲学が入らないとだめだとおっしゃってました。岩井さんの意見にはまったく同意するのですが、結局この10年、そういうことは世界中でどこか脇に置いて来ちゃったじゃないですか。結局、わたしたちは、目前の欲望に従ってきてしまったんです。

 

 

体が心地いい方へ社会を編集していくこと

長谷川真理子

―― 20世紀に人類が欲望のままに作ってきたさまざまな仕組みは、ここにきてことごとく制度疲労をおこしているように見えます。Hyper-Editing Platform [AIDA]では、そうした今の限界をどう乗り越えていけばいいのか、その向かう先として「編集的社会像」というフラッグを掲げました。編集工学研究所の創設以来のスローガンは「生命に学ぶ・歴史を展く・文化と遊ぶ」です。生命の有り様にこそ「編集」という営みの本来の姿があるという大前提に立って、現代に続く歴史をたどり、そうした観点から文化を更新していく、という考え方です。そういう意味では「編集的」は「生命的」と言い換えてもいいかもしれません。今はあまりに産業革命以降の人工的で機能的なシステムや制度や価値観にとらわれていて、生命にとって相応しい社会とはどういうものなのか、という視点が欠如しているように思います。このことを一度立ち止まって考えながら、この先の社会像を描いていこう、というのが、Hyper-Editing Platform [AIDA]の活動主旨です。最後に、AIDAボードメンバーとして、この「編集的社会像」に向けてわたしたちは何を考えていくべきか、メッセージをいただけますか?
 
長谷川 自然人類学を考えてきた立場からすると、今の暮らしや現代の人間社会の姿は当たり前のことではないんです。むしろ現代には、人類がこれまで経験したことのない異様な状況がいくつも生じています。自分にとっては何が嫌で、何が心地いいのか、何が幸せで、何をしたいのかを自分の体に聞いてみる感覚を持つといいと思います。それを感じられたら、心地よさに向かって自らの手で社会を編集していく。そういう意識が必要ではないでしょうか。

 20世紀は人類が経済的な豊かさを目指した時代でしたよね。お金が自由に使える、暮らしがよくなる、そこを目指して、それぞれに努力をしてきた。でも、それは必ずしも自分の内側から出てきた欲求ではなくて、消費を生み出すために作られた物語の中に入っていたのかもしれない。そうした集団としての回路に入っていきながら、資本主義と自由市場という強固なレールを敷いてここまで進んできたわけですが、これでどこまでも行けるわけじゃないですから。このシステムに無理があるということには、多くの人が気づき始めていますよ。1人ひとりが、自分の頭で考えて選択したり、判断できるようにならないといけないと思います。

 たとえば、満員電車が嫌だと思ったら、「満員電車に乗らない」という状態を起点にどうやって働くかを考える。子どもを預けっぱなしにして働くのは嫌だと思ったら、そこを出発点にして、では、社会と自分はどのように関わればいいのか、社会がどうなるといいのかを考える。他者の犠牲の上に成り立つ欲求の実現はもちろんダメですが、基本的には自分の心地よさの追求を通して、周囲とどのように調整していけばいいのか、自分の存在と社会との関係を、それこそ1人ひとりが編集し続けていける状態になるべきだと思います。

 それをしないと、社会全体が袋小路に入ってしまうところに来ていると思います。高度成長を継続したいとか、そのためならエネルギー資源が枯渇しても構わないとか、そうした20世紀的な価値観のままでいたら、どうしたって地球は取り返しのつかない状況に突入していくことになるでしょう。それを変えるには、まずは生命としての自分の心地よさに耳を傾けて、それをお互いに調整し合った社会がどういう形になるのか、1人ひとりが自覚を持って考えていくということが大切なのだろうと思います。そういう意味で、皆が自分の状況を見直すきっかけとなったこのコロナ禍は、いい機会でもあるのではないでしょうか。

 

 

取材:安藤昭子(編集工学研究所)、仁禮洋子(編集工学研究所)
執筆:安藤昭子
撮影:小山貢弘
編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)

 

 

※2021年4月21日にnoteに公開した記事を転載

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今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始まったSeason3のテーマは「日本語としるしのAIDA」。新シーズンの展開とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。

 ※内容は取材時のもの


 

コロナ禍におけるこの1年の社会環境の変化は、10年あるいは数十年分に相当するという声を多く聞きます。ではこの数十年の変化は、600万年のヒトの歴史から見た時に、どのように映るのでしょうか。ホモ・サピエンスが生まれて以降の20万年を「ここ最近」と表現する、Hyper-Editing Platform [AIDA]のボードメンバーであり、自然人類学者の長谷川眞理子さんに、人類の進化の文脈からみた現在とこれからの社会像についてお話をお聞きしました。

 

長谷川眞理子(はせがわ まりこ):1952年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。イェール大学人類学部客員准教授、早稲田大学教授などを経て、現在は総合研究大学院大学学長を務める。専門は行動生態学、自然人類学。著書に『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(光文社新書)、『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書)、『世界は美しくて不思議に満ちている』(青土社)など。

 

 

人間の遺伝進化のチャンスは1万年間に400回しかない

 

―― 長谷川先生がご専門とされる自然人類学の観点から見ると、今の私たちが置かれている状況はどう見えるのでしょうか。チンパンジーとヒトの系統が分かれてから600万年、我々自身であるホモ・サピエンスが誕生して20万年、人類進化の時間軸から見ると、産業革命以降の200年、あるいは情報コミュニケーション技術が浸透したこの20年は、その変化のスピードにおいて異様な時代であると言えると思います。

 

長谷川眞理子(以下、長谷川) 人類の進化の時間軸について実感を持つのはなかなか難しいかもしれません。まずは、そもそも私たちの体がどのように作られているかに思いを向け、今の暮らしがこの体に合っているのかどうかを感じてみるといいと思います。

 たとえば「時差ボケ」を考えると分かりやすいでしょう。飛行機ができたことで、半日もあれば地球の反対側に行くことができるようになりました。でも体はその移動と時間のずれに順応できないわけです。だから時差ボケが起こる。わたしたちの体には体内時計が備わっていて、時間の流れにどう対応していくかは、進化の過程で体に刻まれていることなんですね。月の満ち欠けや日の出、日の入りのサイクルの中で暮らしながら、自分の中に時間の感覚を作り上げてきました。これは人間だけではなく、他の動物も同じです。

 人工的な移動手段によって、時間と距離の関係を飛び越えたり、電灯やブルーライトに照らされながら稼働時間を自在にコントロールする社会は、人類の歴史から見ればごく最近おこった特殊な状況です。それがどれほど体にストレスをかけているか、時々考えてみるといいでしょう。

 

―― わたしたちはそうした環境に適応しているつもりでいます。しかし、数十年程度の単位では、そのときどきの環境変化に応じて、リアルタイムに体を進化させるようなことはできないのでしょうね。

 

長谷川 進化とは、遺伝子の変化が次の世代に受け継がれ、その世代で多くの子どもが残ればまた次の世代に継がれる、そのプロセスを通して起こってきた結果のことです。仮に人間の一世代を25年とすると、遺伝子が変わるチャンスは1万年間で400回しかないことになります。

 ちなみに象の進化のチャンスは30年に1回、犬は2年に1回です。大腸菌は30分に1回分裂するので、30分に1回、進化のチャンスがある。だから細菌類はすぐに耐性菌ができるんです。人間が抗生物質で細菌を殺そうとしても、あっという間に耐性菌が出てくる。進化速度の早さは、世代時間によります。

 動物の体温調節の仕組みや情動系の働きはとても複雑で、数百万年の進化を経て作られてきたものです。たかだか1万年の間の400世代くらいではそうそう変わるものではありません。数百年から数十年の環境変化に対しては言わずもがなです。

 1万年間で起こった進化の例としては、乳糖耐性の獲得があります。牧畜民は家畜のミルクを飲みますが、もともと哺乳類のおとなは生ミルクを飲めないんです。授乳中はミルクを分解できるけれど、離乳するとミルクを消化できなくなります。これは離乳と同時に乳糖が分解できなくなるというスイッチが哺乳類に組み込まれているからなんですが、このスイッチ機能に関与している遺伝子はたった1つしかないんですね。その1つの遺伝子が変化したことによって、おとなになっても乳糖が分解できる個体が出てきた。それは牧畜で過ごしている人々にはとても有利な変化です。乳糖耐性の遺伝子に突然変異が起こって、その遺伝子を持つ個体が牧畜という特定の環境の中で多く生き残り、結果として、離乳してもミルクを飲める人の割合が多くなる。なお、遺伝子の突然変異はコピーエラーによって起こります。DNAの複製の仕組みは必ずしも完璧ではないので、必ずミスが出る。単なる間違いなのでどちらの方向に行くかは誰にも分からない。たいていのものは意味がない変化です。

 

 

600万年前から人類の遺伝子に組み込まれていた「学習」という能力

長谷川真理子

 

―― たまたま起こるコピーエラーによって、結果的に環境に適応できる個体が残っていく、ということなのですね。一部の動物や人間が持つ社会的な機能についても、徐々に進化して今の形になってきたのでしょうか。たとえば人類は何万年も前から男女のペアで育児をしてきましたが、たいていは集団の中での育児であって、2人だけで子どもを育てることはなかったのですよね。

 

長谷川 いまも、機能的な意味では、誰の力も借りずに1人で暮らしている人なんていないし、そういう意味では2人だけで子どもを育てているわけでもありません。貨幣経済以降、どんな機能もお金で買えるようになったので、共同で暮らしている感覚が持ちにくくなっているけれど、いまでも人類は、たとえば食物を育てたり、生活に必要なものを作ったりして、誰かに何かを代替してもらいながら生きています。

 コンパートメンタライゼーションと言いますが、人類にとって分業化は必然なんです。社会的な役割や職業だけではなく、細胞から内臓まで、全部コンパートメンタライズされている。それらが互いにコネクトし、1つのものとして機能しているんです。

 社会や市場は、分業化された機能が貨幣でコネクトされています。物々交換では、互いの欲望が合致しないと交換が成立しないわけですが、貨幣の導入によって、いたるところで価値の交換ができるようになりました。貨幣はまさに第2の言語です。貨幣のような、価値を媒介する機能が誕生するまで、狩猟採集民は食べ物を確保するのも家や衣服を作るのもすべて自分たちでなんとかする以外になかった。それらは1人ではできないから、集まって暮らすんです。一方、現代人は、自分の力だけでできることはとても少ないですが、価値を貨幣で交換する仕組みを持っています。そういう意味では、昔も今も本質的には変わらない。1人では生きていけないから、社会を形成し、分業し、協力するんです。

 人間が生きてきた環境の共通項を抽出すると、どの民族もかなり高栄養で高エネルギーの食べ物を食べてきたことが分かります。北極のイヌイットであれ、オーストラリアのアボリジニであれ、アフリカのサン人であれ、大変栄養価が高いものを食べているんですね。こうした食料を獲得するのはとても難しいことなので、おとなは子どもにたくさんのことを教えてあげないといけないし、子どもは1人前になっていく過程で多くのことを学習しなければならない。生きていくために、大量の情報を学習する必要があるんです。男女のペアボンド(夫婦の絆)で育児をする、三世代が同時に生活するなどの家族環境では、学習も大切な共同作業でした。

 

―― 同じ年齢の者が集まって学ぶ環境は、ごく最近できたもので、もともとはOJT(On-The-Job Training)を通して、多様な年齢の中で互いに学び合っていたということですね。

 

長谷川 長らく人類は、異年齢集団の中で、上の子が下の子を教えるのが普通の状態でした。江戸文化研究者の田中優子さんがおっしゃっていたことですが、寺子屋では子どもたちが思い思いに机に座って、チューターのような上の年齢の子がそこに付いて教えてあげていたそうですね。先生はそれをたまにサポートする役割だった。子どもたちは集団の中で互いに教え合ったり、時には冒険をしたりして成長していった。こうした異年齢集団は、狩猟採集民族から農耕民族、近代社会になるまで当たり前に存在していたんです。

 遺伝子には学習の基本的なプロセスが組み込まれていますが、何をどう学習するかは入っていません。特に言語の学習は本能的なもので、子どもはある時期に必ず喋りたくなります。19世紀のジョン・ホーン・トゥークという言語学者は「言語を獲得することは、パンを焼いたり酒を醸造したりするのと同様の技術である」と言いましたが、ダーウィンは「学習を要するという点では確かに同じだが、言葉を話すことへの本能的傾向において、(言語の獲得は)他の技術の習得とは全く違う」と言っています。「どんな子どもも勝手に言葉を喋り始めるが、本能的にパンを焼いたり、酒を醸造したいと思う者はいない」と。喋りたい衝動と喋ることに適合したいという欲求が人間には備わっています。けれど、それが何語になるかは環境次第です。

 このような「学習する能力」を使って、狩猟採集民の子どもは獲物を捉える方法を学び、現代の子どもは学校で国語、算数、理科、社会を学ぶ。この学ぶという基盤については、人間の誕生以来、変わらないことなんです。

 

 

◆「あの山の向こうには何があるんだろう?」という好奇心が人類をここまで運んできた

 

―― 「学ぶ」ことのおおもとには「好奇心」があるのだと思いますが、これは人間特有のものでしょうか。人類がかつて森を出たのは好奇心からだったんじゃないかと、以前、長谷川先生はおっしゃっていたことがあります。非常に面白い観点だなと思いました。

 

長谷川 600万年前にチンパンジーから別れた時、最初の祖先はまだ森にいたけれど、200万年前にだいぶ寒くなって森林が少なくなった頃、人間の祖先である最初のホモ族は森から出て、開けたところに向かいました。森林に比べると非常にハードな環境です。ホモ族があえて森林を出たのは、居住環境が狭くなった等のやむにやまれぬ事情があったのだと思いますが、その先が問題で、わたしたちの祖先はアフリカからも出て、ユーラシア大陸まで歩いて行ったわけです。どうしてそんな遠くまで歩いていく必要があったのか。その理由は「あの山の向こうには何があるんだろう」という好奇心だったんじゃないかと、私は思っているんです。

 ホモ・サピエンスは7万年前にアフリカを再度出て、ユーラシア大陸だけではなく、全世界に広がります。環境変動が厳しい中で、ここまで広がる必要性はない。そこに合理的理由はなかったと思うんです。

 

―― 「あの山の向こうには何があるんだろう」と思うことは、人間の特質なんでしょうか。

 

長谷川 認知能力が発展すると、因果関係が分かるようになります。動物的な反射的反応ではなく、「こうしたから、ああなった」という、因果関係や連鎖関係が分かるので、新しいことを見つけようとする一段上の好奇心が出てくる。人類進化学者の海部陽介さんが、日本人は台湾からカヌーで渡ってきたことを検証する再現プロジェクトを行っていましたが、台湾の山の上から見ると、晴れた日には沖縄の島が見えるらしいですね。台湾にいた人が「あそこに行ってみよう」と思ったのではないか、と言っていました。

 好奇心には脳が関係しています。先程の乳糖のような単純な話とは違い、脳にはものすごくたくさんの遺伝子が関わっていて、非常に複雑な進化を遂げてきています。だから人間の脳は1400ccという特大サイズになったんです。チンパンジーの脳の容量は380ccです。ホモ・サピエンスが出てきたのが20万年前で、ホモ・エレクトスは200万年前。長い時間をかけて、現在のわたしたちの脳ができた。その脳の仕組みがあまりにうまくできていたので、人類はここまで生き延びることができたんです。

 狩猟採集民が単純だと思ったら大間違いで、彼らの暮らしにはどれほどの学習や対応が必要かと言ったら、それはすごいものです。その脳で人類はやってきているわけであって、現代のこの環境で暮らすために脳が作られたわけではないんです。もともと人間はすごい生きものなんです。

 

 

後編へ続く…

 

 

取材:安藤昭子(編集工学研究所)、仁禮洋子(編集工学研究所)
執筆:安藤昭子
撮影:小山貢弘
編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)

 

 

※2021年4月21日にnoteに公開した記事を転載

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