LEGEND50にリストアップされた「24年組」は四人。すでに萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子はご紹介したところです。
トリを飾るのは山岸凉子。前三者に勝るとも劣らない、少女マンガの重要な一角を占める作家の一人です。
さて、今回の原稿を書くにあたって、手元にあるめぼしい資料をパラパラめくって、山岸凉子について言及しているところを探してみました。以下、目についたものを、ざっと挙げてみます。
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竹熊(健太郎) ですから、今ちょっと思い出したのが山岸凉子さんっているでしょう。
大月(隆寛) はいはい、山岸さん。
竹熊 あの人も何かそういう女性の業みたいな、ある種狂気すれすれみたいな部分をかなりハードコアに描く人ですよね。
大月 危ないよね。
竹熊 『天人唐草』とかさあ。
大月 危ない、危ない。
竹熊 危ないやつ。
大月 『ハーピー』とかね。
(『マンガ夜話VOL.2』キネマ旬報社p120)
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よしなが(ふみ) 私は山岸さんの『天人唐草』と大島さんの『バナナブレッドのプディング』はコインの両面だと思っています。同じことを怖く描くか怖くなく描くかというただそれだけの違いですよね。
三浦(しをん) 山岸先生は何を描いても怖いですけどね(笑)。
(よしながふみ『あのひととここだけのおしゃべり』太田出版p66)
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(山岸凉子は)怖い話がすごく得意でしょう。(中略)この『メデュウサ』は傑作ですよ。これは怖いねえ。最後のね、いちばん最後の壁の隅に頭くっつけて、で、その髪の毛が全部蛇になっているあたり。すごいなあ。「自分を最後まで守ろうとした女はああなるんだ」と、この少女が女に対して言うでしょう。すげえ話だな、これは。只者じゃないと思ったね。
(夢枕獏『ガキのころから漫画まんがマンガ』講談社p185)
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村上(知彦) (山岸凉子の)怖い話とかはどうですか。
呉(智英) 怖い話はどれも短篇だからいいかもね。『押し入れ』とか『甕のぞきの色』とかあったね。
いしかわ(じゅん) タイトル聞いただけで怖そう(笑)。
(「フリースタイルvol.11」フリースタイルp42)
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みなさん、山岸凉子について何か言おうとすると、そろって口にするのが、とにかく「こわい」のひと言。
これは面白いですね。山岸凉子は純然たるホラー作品も描いていますが、別にホラー系の作家というわけではありません。怪談や心霊ものに、いいものがたくさんあるのは確かなのですが、その核にあるのは「人間が怖い」ではないでしょうか。
とにかく、人間の心の奥底に巣食う、ぞっとするような闇の深さ、これを描かせれば山岸凉子の右に出る者はいないでしょう。
しかし、そういう側面を強調するのは、ちょっとマンガ好きな人たちでしょうね。一般的に山岸凉子といえば、まずは『日出処の天子』、もっと上の世代なら『アラベスク』とか、ゼロ年代以降なら「ダ・ヴィンチ」に長期連載されていた『舞姫 テレプシコーラ』のイメージじゃないでしょうか。
特に私ぐらいの世代なら、もう『日出処の天子』が圧倒的ですね。
一万円札でおなじみ聖徳太子を、超能力を操るトランスジェンダーな美少年にしてしまったのも驚きですが、権力をめぐるドラマとしても無類の面白さで、とりわけ結末に至る静謐な虚無感は、発表当時、かなり話題となりました。権謀術数の果てに底なしのニヒリズムに行きつくのは、歴史物語にしばしば現れることとはいえ、これほどの虚無感を描き切った作品は稀有なのではないでしょうか。
発表から40年経ったいま読み返しても、全く色褪せない、…どころか、いまだにこれを超える歴史マンガって描かれていないのでは?という気すらします。
そんなわけで今回、山岸凉子を模写するなら、やっぱり『日出処の天子』で行くしかありません。
山岸凉子「日出処の天子」模写
(出典:山岸凉子『日出処の天子』⑥白泉社)
横着して、ゆったりとしたコマ割りのページを選んでしまいましたが、全体的に【コマ割りは密】です。極端に小さいコマや細長いコマの中に、重要なメッセージが込められていたりするので気が抜けませんね。リーダビリティが高く、すいすい読めてしまうので油断してしまいますが、よく見ると細かいところまで非常に気を配っているのが分かります。ページ構成や話の組立ても、かなりきっちりしていて、まるで西洋中世の【堅牢な建造物】を見ているようです。
しかし、なんと言っても特徴的なのは、この線。
『日出処の天子』が、他の歴史物に圧倒的に抜きんでているのは、なんといっても、この独特の描線ですね。何よりも装束や調度品の描写が見事です。これは、もともとの山岸凉子のタッチに多く預かる部分もありますが、中世の蒔絵や屏風画を思わせるような古典的技法を意識的に採用しています。他の人の描く歴史物は、装束の襞のうねりや陰影のつけ方、パースの取り方など、近代的な描法で描いてしまうことが多いので、どこか現代人がコスプレしているように見えてしまいます。しかし山岸凉子の絵は、【均一な細い線】で、平面的でありながら細密に描き込まれていて、人体のプロポーションも独特です。これらが飛鳥朝の舞台設定と、みごとにマッチしているのですね。とりわけ彩色画などになると、とても気合いが入っていて、どれをとっても素晴らしいです。
そしてもう一つは、この眼。
山岸凉子のキャラは、とにかく眼ヂカラが強いですね。もともと少女マンガらしいバチバチの眼を描く人でしたが、その一方で蛇のようにぬめっとした【細い目】もしばしば登場し、これが独自の進化を遂げていきました。この独特の眼の描き方も、やはり『日出処の天子』あたりで確立したように思います。
面白いのは、この【フキダシ】ですね。この独特のスクエアなフキダシが、構成のしっかりした山岸凉子の世界観を、より際立たせています。
■山岸凉子の革新性
山岸凉子のデビューは1969年、「りぼんコミック」に発表された「レフトアンドライト」という卓球マンガでした<1>。デビューからしばらくの間は、この雑誌を中心に短編作家として活躍しています。のちの彼女の作風からは想像しにくいですが、初期の頃は明るいラブコメタッチのものが多く、たまに描かれるシリアスな作品にも、どこか救いがありました。
しかしデビュー翌年の1970年には、早くも「ラグリマ」という全く救いのない物語を描いています。「わたしの人魚姫」「ラプンツェル・ラプンツェル」といった初期作に垣間見られた救済のモチーフは徐々に希薄になっていき、山岸凉子ならではの、暗闇に錘鉛を下ろすような作品が多くなっていきました。
そんな山岸凉子の最初の転機となったのが本格バレエマンガ『アラベスク』。少女マンガの定番として古くからある「バレエマンガ」のスタイルを一新し、再定義したのがこの作品でした。
(山岸凉子『アラベスク完全版第1部』①メディアファクトリー)
もともとバレエものは、母ものや友情ものと並ぶ少女マンガの定番のひとつでした。戦後、バレエ教室やバレエ団が数多く開設される中で、庶民にとってはちょっと高嶺の花でありながら、身近な憧れの対象として「バレリーナ」というものがあったのです。50年代から60年代にかけて、バレエを扱った少女マンガは数多く描かれましたが<2>、やがて美しさに対する素朴な憧れだけでは作品が成立しにくくなったのか、70年代に入る頃には、バレエものは、ちょっと古臭いイメージになっていました。
そんなときに現れたのが『アラベスク』(1971~75)でした。バレエをめぐる技術的な面にも踏み込み、当時の社会情勢や内面の葛藤まで描いた『アラベスク』の内容は、あまりに斬新で前例がなく、編集部としても確信が持てなかったのでしょう。第一回の原稿が掲載されてすぐに、次の二回目で終わりにしてほしいと作者に通告してきたといいます。
ところが、その直後にアンケートの結果が一位であったことが判明し、急遽打ち切りが撤回されることになりました。編集部の予想を超えて、読者は、こういったものを十分に受け入れるほどに成熟していたのですね。
バレエを描くに際しても、人物のゴツゴツした筋肉や骨格などもしっかり描き込んだのは、少女マンガとしては画期的なことでした。それ以前の山岸凉子は、当時の少女マンガのセオリーに従って、手塚―水野英子系の丸い線で描いていたのですが、『アラベスク』開始直前に発表された「雨とコスモス」で画風をガラッと変え、硬質な細いタッチで、彫りが深く、頭身の高い人物を描いたのです。当初は「バケモノみたいだ」と揶揄されることも多かったそうですが、やがてこうした山岸タッチは少女マンガ界全体に波及していくことになります。水野英子は『テレプシコーラ』4巻の巻末対談の中で
「あの線は衝撃的だったんですよ。あれから一斉にみんながあの細い線に流れましたから。漫画史的に言うと、あれで手塚タッチから解放されたの。私たちのようなドタッとした線ではなくて、あの細い線だからこそ『アラベスク』のバレエの軽やかさ、リアルな感じがとっても出たんだと思いますよ」
と言っています。
■「天人唐草」の衝撃
その後『メタモルフォシス伝』『妖精王』などの長編作品の合間に、膨大な量の短編を精力的に発表し続けていた山岸凉子ですが、どれも一筋縄ではいかない名編揃いです。
とりわけ話題を呼んだのが「天人唐草」。作者自ら「作家としての転機となった作品」と任ずるこの作品は、1979年「少女コミック」に掲載されたものでした。
上記引用で、よしながふみ氏が、この作品を大島弓子の「バナナブレッドのプディング」に比定されているのは慧眼ですね。奇しくもこの両作品、『綿の国星』『日出処の天子』という、ともに作者の代表作、というよりマンガ史に残る大傑作が始まる直前に発表されているのです。
それぞれの作家にとって、自分の中の鉱脈を発見し、新たなステージに飛躍していくステップボードとなった作品、という意味で「バナナブレッドのプディング」と「天人唐草」は共通しています。
「天人唐草」は、厳格な家庭環境の中で、強大な支配力を持った父親から逃れられない少女の悲劇を描いているのですが、その情け容赦のない展開は衝撃的で、当時の読者たちに大きな波紋を呼びました。可憐な少女が最後には奇声を発する狂女に変貌していく様は強烈な印象を残し、今でも語り草になっています。
(山岸凉子『天人唐草』文藝春秋)
こうした「天人唐草」に代表されるような山岸凉子の一連の作品は、とにかく「こわい」、「トラウマになる」と形容されることが少なくありません。
しかし、これは私の個人的な感想かもしれませんが、山岸凉子には、底なしの暗さと救いのなさがありながら、病的なところがなく、どこか健康的な感じすらするのですね。人間の闇の部分に、どこまでも深く潜っていく山岸凉子の潜水能力には驚かされますが、裏を返せば、闇に呑みこまれない力強さも感じさせます。そういった精神のタフさという点で、歌手の中島みゆきと、ちょっと似たところがありますね。
山岸凉子の短篇には、「そんなバカな」というぐらい救いのない結末のものが多いのですが、この突き放した感じが、はからずも読者をして、闇に汚染されない免疫力をつけさせてくれるようです。そういえば『妖精王』の主人公・爵くんは、幾多の試練を経て「彼方での闘争」から帰ってくると、いつの間にか病弱な身体が直っていました。
■本当は怖い『テレプシコーラ』
その意味で、ゼロ年代以降の山岸凉子を代表する『舞姫 テレプシコーラ』こそが、山岸ホラーの最高峰なのではないかとも思うのです。
『テレプシコーラ』は、大方の読者にとっては、王道のバレエマンガとして読めてしまうものでしょう。
しかしその実この作品、不穏な響きが底流をなしていて、一貫してただならぬ空気感を醸し出しています。まだ何も起こっていない先から、きっと好からぬことが起こる、という確信を読者に抱かせてしまうのですね。
そして、第一部終盤のエピソードなど、ほとんどショッカー演出に近い衝撃力でもって読者を射抜いてしまいます。緊張と緩和の按配や、絶妙のタイミングでねじ込んでくるセンスなど正確無比という他ありません。やっぱり山岸凉子はコワイ!
映画監督の黒沢清は「ホラー映画は明確な計算によってでき上がる」「ホラーとは物語でも雰囲気でもなく実は理論である」(『映画はおそろしい』青土社p31)と言っています。山岸凉子は、まさにそうした計算能力が抜群に優れている人なんですね。それは単にストーリーを組み立てるのが上手い、というのではありません。物語の底を流れるエモーションのコントロールが飛び抜けているのです。非常に古典的な言い方になりますが、物語にとって重要なのは、表層を流れる展開の裏側にあるエモーションの連鎖であり、それこそがドラマ作りの肝だとも言えます。
こうした確かな構成力は、もちろんホラー要素のみならず、作品の、あらゆる点にわたっています。
たとえば『テレプシコーラ』でいえば5巻目あたり。この辺は、めちゃくちゃ緊迫したシーンの連続で気の抜けない展開なんですが、そんな中、意地悪なコーチに突き飛ばされて、思わず舞台上に飛びだしてしまった主人公が次にとった行動を、頁めくりの大ゴマで見せるシーンなんて素晴らしいですね。ベタといえばベタ、ほとんど『ガラスの仮面』か?と思われるほどの王道の盛り上げ方でバシッと決めてくれます。
とにかく『舞姫 テレプシコーラ』は、バレエに1ミリも興味ない人にこそ読んでほしいですね。
(山岸凉子『舞姫 テレプシコーラ』⑤メディアファクトリー)
中盤のクライマックスとなった第五巻
さて、『テレプシコーラ』完結から間もなく、山岸凉子は青年誌に舞台を移して、ジャンヌ・ダルクを主人公とした『レべレーション』の連載を開始しています。歴史に材を採った奇跡と啓示の物語という意味で、これこそまさに『日出処の天子』の正統的な継承作と言えるでしょう。ここで山岸凉子は「歴史其儘」を禁欲的に守りつつ、人智を超越したところで初めて成立する恐怖と恍惚をギリギリの地点まで突き詰めようとしています。昨年末に完結したこの作品は、山岸凉子の新生面を切り開くことになりました。デビューから半世紀以上を閲して、なお前進を続ける山岸凉子には驚嘆を禁じ得ません。
(山岸凉子『レべレーション』講談社)
『レべレーション(啓示)』全6巻で完結
(山岸凉子『イシス』潮出版社)
イシスなみなさんは、こちらも要チェック!
◆◇◆山岸凉子のhoriスコア◆◇◆
【コマ割りは密】66hori
80年前後の少女マンガとしては、これぐらいは普通だったのですが。
【堅牢な建造物】74hori
山岸凉子の「方法」意識の高さに注目したのが、吉本隆明『マス・イメージ論』(福武書店)でした。
【均一な細い線】90hori
背景などもほとんど陰影のない細い線だけで構成されているので、書き割りめいた効果を発揮しています。ときどき人物だけに強い陰影が入るのも特徴的です。
【細い目】95hori
同じ頃、天野喜孝というイラストレーターも、ちょっと似たような眼を描いていました(岡野玲子の回に画像有)。天野氏の方は、どちらかというと黒目に光がなく、ほとんど上まぶたと一体化してしまっているのですが雰囲気は似ていますね。上まぶたが真ん中あたりでぐにゃっとへこんで独特の形になっています。その後、こういう眼を描く人が増えたような気がするのですが、影響の伝播の仕方がちょっとわかりません。山岸凉子発なのか、天野喜孝発なのか…。おそらく、その両方なんでしょう。
科学の世界では、しばしばお互いに連絡がないのに、たまたま同時期に同じ発見や発明が起こることがあります。その際は両名併記するのが通例ですので、それに倣って、この眼の描き方は「アマノ=ヤマギシ・アイ」とでも命名すべきところでしょう。
【フキダシ】84hori
デビュー当初は、ふつうに丸いフキダシでした。
笹生那実『薔薇はシュラバで生まれる』(イースト・プレス)によると、77年8月の読切り作品「幻想曲」で、ある臨時アシスタントが四角いフキダシを描いたのがきっかけだとあります。ただそれ以前から、なんとなく四角い感じではありましたね。『妖精王』(1977~78年)を読むと、徐々に四角くなっていく過程が観察されて面白いです。
<1>実はその前年、「COM」1968年2月号で佳作入選しています。ちょっと竹宮恵子と似ていますね。
<2>古き良き時代のバレエマンガの一つとして紹介したいのが、牧美也子による『マキの口笛』(小学館クリエイティブ)です。松本零士の奥さんでもある牧美也子は、水野英子、わたなべまさこと並ぶ、プレ24年組時代の少女マンガのスタイルを確立した代表的作家の一人でした。リカちゃん人形のモデルにもなったと言われる可憐なキャラクター造形は、少女マンガの一つのスタンダードを確立したものです。
(牧美也子『マキの口笛』小学館クリエイティブ)
アイキャッチ画像:山岸凉子『日出処の天子』①白泉社
堀江純一
編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。
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