<多読ジム>Season09・冬の三冊筋のテーマは「青の三冊」。今季のCASTは小倉加奈子、中原洋子、佐藤裕子、高宮光江、大沼友紀、小路千広、猪貝克浩、若林信克、米川青馬、山口イズミ、松井路代。冊匠・大音美弥子と代将・金宗代の原稿が間に合えば、過去最高の13本のエッセイが連載される。ウクライナ、青鞜、村上春樹、ブレイディみかこ、ミッドナイト・ブルー、電波天文学、宮沢賢治、ヨットロック、ロラン・バルト、青水沫(あおみなわ)。青は物質と光の秘密、地球の運命、そして人間の心の奥底にまで沁みわたり、広がっていく。
青が消えた
1999年ミレニアムの大晦日の夜に青が消えた。僕の青とオレンジのストライプのシャツが、オレンジと白のストライプになってしまった。青いTシャツも青い靴下も、まるで歳月に洗われた見知らぬ人の骨のような白に染まっていた。村上春樹の短編『青が消える』である。
友人はだれも青が消えたことに関心がなかった。僕は、好きだった青だけがなぜ消えてしまったのか納得できず、街に出てみた。白くなったブルーラインの駅員にそれを尋ねると、「政治のことは私に聞かないでください」と避けるように言った。僕は総理大臣に電話をかけてみた。「なくなったら新しいものを作ればいいじゃないですか」と他人事のように合成された総理大臣の声が応えた。
ブルーとホワイトとブラック
私立探偵ブルーが、ホワイトという人物から、ブラックという男を見張り報告してほしい、という依頼を受ける。ポール・オースターの小説『幽霊たち』である。
ブラックはほとんど部屋の中で読書と書きものをする毎日である。ブルーはだんだん退屈し始める。ブルーはブラックを見続けることで、自分自身の鏡を見ているような気がしてくる。事件は何も起こらない。1年以上たったある日、ブルーは意を決してブラックの部屋に忍込む。そこでホワイトに送った報告書を発見する。数日後、再びブラックの部屋に侵入すると、ブラックが銃を構えて待っていた。ブラックは「もう君を必要としない」と告げる。ブルーは銃を払い除け、ブラックを殴り倒す。
ブルーはひたすら「見る存在」でありブラックは「見られる存在」だった。人は見ることで「世界の意味」を構築する。しかし、自分の構築した世界は、他人に見られることで変質させられる。「見るもの」と「見られるもの」との間で葛藤がおきる。ブラックがブルーに見られていた世界は、ブラック自身の世界だった。そこには葛藤はなかった。ブラックには葛藤のない世界が必要だった。ブルーがそれに気付いた瞬間から、「見るもの」と「見られるもの」との葛藤が始まる。
青いまなざしと黒いまなざし
19世紀末、ベルギーの貿易会社の社員マーロウは、アフリカのコンゴ河を遡って、密林の深奥部に入っていく。青が漆黒の中に溶け込んでいく。そこには、魔境にとりつかれたクルツという男が、神のように振る舞っていた。ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』である。
クルツは野蛮人を教え導くという強い使命感をもってアフリカにやってきた。しかし、彼は利益を求める組織の一員でもあり、多額の利益をもたらしていた。その手法は手段を選ばない強引な収奪だった。密林の中で原住民を従えて象牙を強奪し、従わないものは処刑していた。彼は高貴で高邁な精神と、原始の大地の神秘的悪魔的な感情との間で自分の魂を狂わせ、体はすっかり衰弱していた。帰国させようとするマーロウに、クルツは「恐ろしい、恐ろしい」と囁いて息を引き取った。
近代ヨーロッパ帝国主義の特徴は、支配地域の文明化という大義のもとで、貪欲な略奪を行ったことにある。支配する側の「青いまなざし」は、一方的に見る存在である。しかし密林の中の原始の「黒いまなざし」は、文明を説くヨーロッパ人の欺瞞を鋭く見ていた。クルツはそのまなざしの中で狂気に陥っていく。文明に潜む生の欲望や暴力が抉り出されてくる。
青が意味するもの
青が消えても、それが抽象的なままでは、だれも関心を持とうとはしない。抽象的概念は、具体的事例により実体化される。青いTシャツが白いTシャツに変わることで事実となり、その白が「死」を暗示することで、青は「生」のイメージを喚起するようになる。
マーロウが遡るコンゴ河には、広大な川の青と密林の闇が広がっている。川は海を通して文明につながり、密林は野蛮な原始の世界につながっている。青と闇のはざまに、クルツの引き裂かれた精神が彷徨う。そして、彼の狂気を通して、ヨーロッパ社会と国家の「欺瞞と欲望」という時代の闇が見えてくる。
ブルーもブラックも「抽象的な存在」であった。彼らは実在化することを拒否された存在だった。ブルーはブラックでありブラックはブルーだった。それが露わになった時、彼らは「具体的な存在」となる。自分とは何か、他者とは何かという、自他のアイデンティティが改めて問われてくる。そしてそれは、自分の依って立つ世界と他人が属す世界との、ナショナルな葛藤に拡大していく。
平和を当たり前のようにしていた、ウクライナの市民もロシアの兵士も、その平和が消えるとは思ってもみなかったはずである。ウクライナの国旗にもロシアの国旗にも青が使われている。
Info
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⊕アイキャッチ画像⊕
∈「青が消える(Losing Blue)」
『村上春樹全作品 1990〜2000 ①』 短篇集1 村上春樹/講談社
∈『幽霊たち』ポール・オースター/新潮文庫
∈『闇の奥』ジョゼフ・コンラッド/光文社古典新訳文庫
⊕多読ジム Season09・冬⊕
∈選本テーマ:青の3冊
∈スタジオこんれん(増岡麻子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型
┏━━『幽霊たち』
┃
『青が消える』━━┫
┃
┗━━『闇の奥』
⊕書誌情報⊕
∈『青が消える(Losing Blue)』
『青が消える(Losing Blue)』は、1992年のセビリア万国博を特集した雑誌の主催者から、ミレニアムの大晦日を舞台にした短編小説を書いてほしいという依頼により執筆されたものである。本作は日本の本や雑誌には掲載されたことがなく、2002年に『村上春樹全作品1990〜2000 ①』短編集1に初収録された。その後、2008年に平成20年度版の高校国語教科書として明治書院の『新精選国語総合』に採録されている。
⊕著者プロフィール⊕
∈ポール・オースター
ポール・オースターは1947年にアメリカ・ニュージャージー州に生まれる。コロンビア大学で英文学と比較文学を専攻。大学院を中退し、石油タンカーの乗組員としてメキシコ湾で働いた。その後フランスに移住し1974年にアメリカに戻る。1985年から86年にかけて出版された、『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』の「ニューヨーク三部作」で、個人のアイデンティティや生きる意味を探すことをテーマとした作品を発表し、大きな反響を呼んだ。翻訳をほとんど手がけている柴田元幸は、彼の作風を「エレガントな前衛」と呼んでいる。主な著作に『ムーン・パレス』『幻影の書』『オラクル・ナイト』『サンセット・パーク』などがある。
∈ジョゼフ・コンラッド
ジョゼフ・コンラッドは1857年にロシア領ポーランド(現ウクライナ・ジトミール州)に没落した貴族の子として生まれた。彼が4歳の時に、父親がロシアからの独立運動を指導したことで北部ロシアのヴォログダに一家で流刑となった。1868年に流刑を解かれ、20歳で英国船の船員として世界各国を航海し英国国籍を得た。コンラッドは、文明の陰に潜む悪、物欲がもたらす精神的荒廃、社会的責任と裏切りなど倫理的主題に鋭い感覚をもっている。彼の文学的業績は1940年代以降改めて注目を浴び、現代文学に通じる作家として高い評価を受けている。主な著作に『闇の奥』『ロード・ジム』『ノストローモ』『密偵』『チャンス』などがある。
若林信克
編集的先達:アラン・チューリング。[離]を退院後、校長校話やイシスフェスタの文字起こしをする蔵出し隊のリーダー格を務め、多読ジム通いと愚直な鍛錬を続ける元エンジニア。ピアノの修練にも余念がなく空港ピアノデビューを狙っている。
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