■エレガンスとは、
ピッチ上で問題を解決するその方法だ。
──イビチャ・オシム
サッカー日本代表元監督のイビチャ・オシムが亡くなった。1986年にユーゴスラビアの代表監督に就任したが、その6年後、ボスニア・ヘルツェコビナの連邦離脱を受け、ユーゴスラビア軍がサラエボに侵攻した。当時のサラエボの様子は、今のウクライナと重なる。外出時はつねにスナイパーに撃たれる危険と隣り合わせ。
オシムは、サラエボに残した妻子の安否がほとんどわからない中、代表チームの指揮をとりつづけた。政治的な都合や民族的な思惑をゲームメークにさえ持ち込もうとするメディアやサポーターなど、外野からのプレッシャーの中、選手の特性を見極めた采配に注力した。
■失望だけしか残らない結果を避けるために、
「模倣」から始め独自の道を見いだす。
そこに「模倣」の本当の意味がある。
他のスポーツであろうと数学であろうと文学であろうと、使えるメソッドは借用しながら自分のものにしていく。ラグビーのルールに基づく後方へのパス感覚は、サッカーのゲームメークにも活用できるとオシムはいった。背中越しにピッチを支配するイメージを各選手が持つことによって攻守のバランスが取れていく。
ラグビー選手の平尾誠二は、かつてそれを「シナリオ選択能力」と表現していた。松岡正剛との対談本『イメージとマネージ』では、ゲーム中のイメージには、連続性と拡張性の二つがあると解説されている。自分がその都度、瞬間的に選択するパスやドリブルが、敵と味方それぞれの選手の配置と動きにどんな影響を与えるか、多様にイメージしながらゲームメークすることが必要なのだ。
そういった身体編集感覚は、スポーツに限らず、芝居や舞踊であるとか、あるいは会社経営にも診療にも共通であると思う。時間軸は、それぞれ異なっているだろうが、チームで行うあらゆるプランニングにはイメージをマネージすることが必須であろう。
■アイディアのない人間もサッカーはできるが、
サッカー選手にはなれない
オシムがサッカーをはじめたのもサッカー選手になったのも貧乏だったからだという。他のスポーツは金がかかるが、サッカーなら靴下をまるめたボールがありさえすればできる。ボロボロのテニスボールでサッカーの試合をしたこともある。おかげでキックの微細なコントロール技術が磨かれたと笑う。
数学の先生になりたかったが、サッカー選手になれば父親の年収の3倍もの報酬があると聞き、プロとしてサッカーを選んだ。監督になってからは、ゲームメイクを理論的に考察し、それを言葉にしながら方法論にしていった。オシムとの鋭くも機知に富んだやり取りによってジャーナリストたちも育てられた。
学習意欲と集中力の向上には驚きが欠かせないことを知っている教育者的な側面を持ち、論理と倫理観を兼ね備え、思考の遅速をコントロールできる。オシムは、編集的知性の持つ監督であった。
サラエボは、複雑な歴史に彩られた地域であるから、アイディアを持ち合わせていないと生きていけない。5つの民族、4つの言語、3つの宗教、二つの文字を内包するユーゴスラビアを率いるうえでのオシムのリーダーシップは、幼い頃から育まれた。
目の前の困難にどう対処するのか、どう強大な敵のウラをかくのか、それがサラエボの民衆の命題であったが、それはサッカーでも同じなのだ。日本人のサッカー選手はその生まれ育った平穏な環境こそが弱みになることもありうるとオシムはいう。
■日本の選手は、
ほとんどがプレーが遅い。
問題は選手たちが、
プレーの遅さを
自覚していないことだ。
ジェフユナイテッド市原の監督就任のために来日したのは2003年である。技術的に高い能力を有しているにも関わらず遅い。オシムは、走り込み中心の過酷な練習を課し、相手に走り負けない基礎をつませた。ついで練習のほとんどを対戦型のものにした。遅さの要因をフィジカルな側面とともに、本番を想定した練習の圧倒的な不足とみた。
紙上のフォーメーションより瞬時の思考と判断力こそが遅さを打開する。食事のときに、ご飯や肉を持って渡すのもパスのひとつだ。クロスやパス、ヘディング、すべては繰り返しでどんな時も相手がいる。生活全般において情報編集をしているのだから、サッカー選手であるなら、日々の生活をすべてサッカーの練習にしてしまうことも可能だし、そうすべきだとオシムはいうのだ。
■日本は
自分たちのことを語らずに、
他者のことばかりを話している。
自分たちのことを
話し始めたときには、
すでに遅すぎる。
思考が遅いとプレーも遅くなる。サッカーだけじゃないように思う。コロナ対策もウクライナ侵攻への対応も何もかもが後手後手の今の日本は、オシムのエレガントな編集語録に学ぶところが少なくないだろう。
ただここであえて、オシムにひとつだけ提言してみたい。生前、オシムは日本人の“曖昧さ”がプレーを遅くする要因だと分析していたが、本当にそうなのだろうか。日本人らしいプレーを確立していくうえでは、むしろその曖昧さこそを武器にしていく方法もあるのではないだろうか。
曖昧さを方法論にすることは、日本のこれからを考察するうえで私なりに考え続けたい。それこそ二項対立的なシンプルな結論にある落とし穴に対し、どこまでもグレーであり続けることを徹底していくことはあらゆる選択肢の余地を残すのではないだろうか。イメージをマネージするうえで曖昧さを完全に排除することはかえってイメージをしおらせ、マネージメントをつまらなくするだろう。
「ブラー(blur)」という言葉がある。曖昧で焦点がさだまらない状態のことをいう。社会における変化があまりに速く、従来の概念が実態をあらわすのに不適切になり、かつては概念上にも区分があったのに、その区分さえ曖昧になってきたことをあらわす。境界侵犯や境界溶融の状態である。
千夜千冊1126夜『インターネット資本論』にはこうある。
さらに競合会社と顧客の区別もブラーになっていく。一方で競合している相手は、他方では客なのである。こうして組織と市場の区別さえ曖昧になっていくと、すべてが境界をもたないリアル=ヴァーチャルのウェブになる。
メタバースの時代が到来しているともいわれるし、SDGsの中にはLGBTQのように個人におけるブラーな問題もある。サッカーやラグビーをはじめとしたスポーツも近年はますますプレーの速度が増しているという。
ブラーな社会における曖昧な境界部でいかに、イメージをマネージするか。ゲームメークにおいてもグローバル資本主義においても「曖昧さの編集術」は一度腰を据えて考えたい。
境界が曖昧でかつフラットな情報は編集するのが不可能だ。だから自分なりの境界を同時に多数設定していく能動的な方法が必要ではないか。おそらく、緻密な境界設定をつねに繰り返し続けることを試みることになるだろう。“高速な曖昧さ”とでもいうような方法論を考えたい。
ロシアのウクライナへの侵攻に対するバイデン大統領や岸田総理の「断固として」というような中身の乏しい強気発言はただただ空虚に聞こえる。曖昧さを方法論にしていく外交方法もあるはずだと思うがいかがか。とにかく遅ればせだとしても馳せ参じなければ何もはじまらない。
参考図書:
『NUMBER PLUSオシム語録 人を導く126の教え』文藝春秋
『オシムの言葉』集英社文庫
『急いてはいけない 加速する時代の「知性」とは』ベスト新書
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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