■2022.5.17(火)
道場の其処此処で「雑談」のための会所が立ち上がっている。
編集稽古は「お題」に出入りする雑多な情報を交わし合う場であるから、そこで起こる編集談義はすなわち文字通り「雑談」である。ただし、雑談は「ザツダン」ではなく「ゾウダン」と読む。1502夜『クラブとサロン』には「雑談はザツダンではなく、何かの話題や主題に執着することをいう。執着(しゅうぢゃく)とは数寄を興じることをいう」とある。
ならば、ザツダンとゾウダンは何がどう違うのか?
くれない道場イナモリは、ゾウダンを「造談」「像談」「増談」と言い替えながら[想像→増殖→創造]と往還するフィードバック・ループ仮説を提唱し、わかくさ道場ではニイサカがミメロギアでイメージのシソーラスを拡張した。
母の味ザツダン・料亭の味ゾウダン
トゥクトゥクのザツダン・タクシーのゾウダン
コンビニのザツダン・伊勢丹のゾウダン
浴衣のザツダン・着物のゾウダン
朝顔のザツダン・盆栽のゾウダン
わかりそうでわからないものに出会った時、学習者のエディティング・モデルがビビッドに反応する。その動向には正解も不正解もなく、ただプロセスの多様だけがある。その多様を、ザツダンは雑なまま放置して終わるが、ゾウダンは雑をゆるやかに束ね、主題を別様の可能性へと運んで行く。
■2022.5.18(水)
季節のせいか、年齢のせいか、時世のせいか、どうもイライラすることが多い。
セラピストの友人言わく、感情とはエネルギーの流れなのだから喜怒哀楽に正邪はない、モトカさんは怒るレッスンをした方が良い、とのアドバイス。ふむふむ。その理屈は理解できるけれど、怒りが孕むアフォーダンスの重力はなかなかに強大なので離脱速度が問われるのよね…。
さて、いま「離脱速度」と書いたけれど、速さは必ず方向を伴なうから、方向の定まらない速さは迷走を拗らせるばかりだ。とはいえ、この時の「方向」は仮留めで構わない。仮から仮へ移ろいながら、やがて此処ではない何処へ着地できれば一安心なのである。
この話は「AND/OR/NOT」の編集術に接続していると思う。別様の選択肢をどれほどたくさん用意できるかが、「わたし」についての編集を大きく左右するのだ。
こうした、いわば「たくさんのわたし」を意図的に用意して心理的な危機を脱する手法のことを、臨床心理のギョーカイでは「コーピング」と呼ぶそうだ。ストレスは方法的に対処可能であることを示している。
ちなみに、コーピングのレッスンは「自己観察」から始まるのだという。怒るレッスンとは、そういう意味だ。先ずは、怒りを巡る自分自身のエディティング・モデルを自覚しなさい、ということだ。
何のことはない。これはまったく編集稽古そのものである。
■2022.5.20(金)
早朝、所長&花目付でzoom会議。講座の初動と、ここからの設営と運営について見方づけを交わす。それを噛み砕きながら、または敢えて噛み砕かないまま、指導陣へ共有して相互編集の糸口を探る。
たいていの場合「問題」は分節することで扱いやすくなるのだが、分け方によってその質量や題意が変容することには功罪がある。世の中には「分けられないもの」もあるということだ。
何を開けて、何を伏せるか。「問」は手渡し方次第で「感」「応」を誘いもするし、怯ませもする。ゾウダンの行方も、深みも、実りも、問う者の次第こそが問われているのだろう。
■2022.5.21(土)
式目演習は始まったばかりではあるが、花伝師範美濃越香織は放伝の先をイメージメントしたメッセージをしたため始めている。「さぁ、放伝だ。いざ師範代へ」。成果(ミノリ)のためには準備(イノリ)があって、準備(イノリ)こそが成果(ミノリ)の依代となる。
イシス編集学校のユニークネスは、「教え方」と「学び方」が分断していないところにあって、そのユニークネスを師範代・師範が体現している。さらに、その風姿を花伝所の入伝生が見よう見まねで体得して行く。
指導者のイノリは学習者のミノリのなかにあり、学習者のミノリはやがて指導者のイノリとして還元され、教えと学びは主客を交代しながら往還し、連鎖して、つぎつぎにツギ(次)をツグ(継)のだ。
花目付は、さらにその先の、花伝所が仕組みごと社会に接地する姿をイメージしておきたい。
アイキャッチ:阿久津健
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
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花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
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