明け方に目が覚めて、ふと思いついた言葉をノートに書きつける。あの一節には、この単語しかないと思えた。
進まなかった原稿に光がさした気がして、隣で寝息をたてている夫を眺める。鋼のようだった躰に歳月と心労がほどこした仕上げ、うっすらと浮き出た肋に目をやる。
この男とライターという職業を選んだとき、いくつかの荷物を捨てた。
■選べない、日常
人は一日に最大35、000回の選択をしていると云う*。右足から靴下を履いたり、朝食にパンではなくバナナを食べようと決めたり、ささいな取捨選択の積み重ねがいまの自分をつくっている。
ときには選んだとすら思わなかったことが人生を劇的に変えたり、選ばなかったことこそがじわじわと自分を袋小路へと追い詰めていたりする。
選択。の物語だ、本書は。
小さな瀬戸内の島で噂の的にされる家庭生活を、主人公のアキミは暮らしている。恋人のもとを月に一度訪れる夫、妻が浮気を公認している家庭を異常だと友達に咎められる娘。
噂の網にからめとられないよう、アキミは浜辺に出てカイと出会った高校時代を思い出す。
カイは母とともに京都からやってきた転校生で、男を追いかけ島に渡った母に人生の手綱を明け渡してしまっていた。一時たりとも男なしでは生きられないカイの母と、愛人に夫を奪われ心を壊していくアキミの母は、ともに我が子を食らうサトゥルヌスになっていることに気づけない。
アキミもカイも、半透明の卵の薄膜のようなもので世界と隔てられてしまった狭い島から、母という荷物ゆえに飛び立つ自由を奪われ、サトゥルヌスに喰いちぎられた肉体を補うかのように求め合う。
出会って離れてまた出会う、17歳から32歳までの二人が何を選んで何を選ばなかったのか、その取捨が残酷なまでに丁寧に描かれる。
呪いたいような現在は、母という荷物のせいの筈だった、あの道を選ぶしか選択肢はなかった筈だった。でも長い時と深い痛みを経て、選んでいたのはすべて自分だったと気づいたとき、選択は覚悟に代わった。
覚悟をともなった選択は、それがどんなに痛みをともなうものであろうとも、自分が選び取った自由だ。アキミとカイの覚悟が二人に何を選ばせたのか、著者・凪良ゆう氏は初の恋愛長編で344ページに綴り切った。
■選ばなかった、物語
二人の恋愛は、世界を救わないし変えもしない。時代を行き来したり、男女が入れ替わったりもしない。その分、どんな言葉を選んで捨てたのか、著者自身が「匍匐前進のようだった」と振り返る執筆作業自体が、じりじりと自分たちを追い詰めていく二人の選択に重なる。
そして、悲劇のようで悲劇でない令和の恋愛小説は、ヒースクリフとキャサリンが選ばなかった、もうひとつの物語だったのだと思い至る。
著者の意識下に世紀の愛憎劇があったかどうかは知らない。しかし二人が離れてからの時間のほうにこそ圧倒的な芳醇と腐臭を放ち、荒野と凪海の対比、語り手が男女で入れ替わる手法などに(語り手も語りかける相手もはだいぶ違うのだが)、勝手に類似を発見してはうれしくなった。
エミリ・ブロンテは〝I am Heathcliff!〟とキャサリンに叫ばせたけれど、凪良氏はカイに「俺には暁海(アキミ)だったし、暁海には俺だった」と言わせた。この一体感の差が時代を映していると思えば面白く、一体なのに通じ合えない悲痛をキャサリンが叫んだと同じく、これは根本的に分かり合えないことを背負った覚悟の言葉だ。
瀬戸内の凪いだ海は、その下にとんでもない深さを湛えていることがある。海とつながって生きている島の人間でも、海はわからない。
アキミのモノローグで始まる小説のプロローグは、ほぼ同じ言葉が並ぶエピローグで終わる。二人の選択をともに体験してきた読者は、言葉が与える印象の差に驚きながら、カイの最後の覚悟に立ち会う。
人と人は分かり合えない、分かり合えないからこそ覚悟をもって言葉を紡ぐ。
私も選ぶ。下手なりに精一杯、夜空の星から言葉を探す。せめて捨てた分の覚悟は背負って、分かり合えないと知っているからこそ憧れをもって。
*:矢萩邦彦氏著『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』より。こちらも図らずも「自由への選択」の物語だった。
羽根田月香
編集的先達:水村美苗。花伝所を放伝後、師範代ではなくエディストライターを目指し、企画を持ちこんだ生粋のプロライター。野宿と麻雀を愛する無頼派でもある一方、人への好奇心が止まらない根掘りストでもある。愛称は「お月さん」。
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