【追悼・松岡正剛】暗喩と暗示とシンボルと解釈余地で

2024/09/19(木)19:00 img
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オーウェルじゃ足りない。スフィフトまでやんなさい。

松岡さんに、いっちばん強烈に叱られたときに、言われたことです。

2023年の、編集工学研究所・松岡正剛事務所・百間の合同新年会でのこと。新年には毎年スタッフたちが「今年肖りたい一冊」を選んで、その本に寄せて新年の抱負を発表する「肖冊会(しょうさつえ)」が開催されます。

 

その「肖冊会」にジョージ・オーウェルの『動物農場』をもちこんだ私に、松岡さんは「全然足りない」と言い放ったのでした。「辛抱たまらん、出直してこい」というくらいに怒らせてしまったのでした。

 

『動物農場』じゃなくて『ガリバー旅行記』

2023年は『動物農場』のディストピア寓意力に肖りたいのですと大見得を切ったつもりの私に、松岡さんはこう言ったのだと思います。

 

アレゴリーを舐めるんじゃない。」

 

念のために添えておくと、オーウェルに罪がないことは明らかです。私の、「なんとなく物語に向かいたいような気がしてるんだけど」という宣言にすらなっていない宣言が、いかに生ぬるいかを松岡さんが瞬時に見てとったのでした。

 

そして即座に示されたのが、「ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』と、もっと言えば、ジョナサン・スフィフトの『ガリバー旅行記』くらいやんなさい」でした。うーーーん、この指南の深さたるや……。

 

言われたときには何がなんだか分からないままにとにかくこの2冊を読み耽ったものですが、いま振り返ってみると、「『動物農場』じゃなくて『ガリバー旅行記』」のスゴみが沁みます。

 

「分かりやすさ」の罠

『動物農場』はご存知のとおり、農場に暮らすブタやロバやめんどりなど動物たちのおとぎ話に託して、独裁化し恐怖政治に陥ったソ連のスターリン体制を暴こうとしたもの。オーウェル自身がスペイン内戦に参加した経験から書かれたと言われています。1945年の出版。

 

『ガリバー旅行記』は、17世紀から18世紀にかけて生きたアイルランド生まれのジョナサン・スフィフトが、国家と人間への失望を詰め込んだ作品。いまや世界中の子どもたちに大人気の「ガリバー船長」が、小人の国や巨人の国や、空に浮かぶ島「ラピュタ」や荒れた大陸「バルニバービ」をめぐる旅行記です。長旅の最後に、ガリバーは地上でもっとも不愉快な生き物「ヤフー」が生息するフウイヌム国へ辿り着きます。このヤフーが、なんとも気持ち悪いのだけれど、知れば知るほど人間そっくり……という按配です。

 

正直、オーウェルの方がよっぽど「分かりやすい」し、なんというか、颯爽としている。対してスフィフトは、まだるっこしいのに生々しくて、雑多なのに生真面目だし、上品なようでいて下品だから、ところどころで圧倒的に居心地が悪い。要するにちょっと、とっつきにくい。

 

でも、オーウェルの『動物農場』はその分かりやすさとアイコン性の高さゆえに、冷戦下のアメリカで政治利用されてしまいます。オーウェル自身は社会主義者だったのですが、その事実は隠されたまま。

 

分かりやすさには、速効性があります。そのスピード感こそ、オーウェルが『動物農場』に求めたことだったでしょうから、その意味では狙い通りだったろうと思います。けれど、分かりやすさは命取りになることもある。単純すぎる暗号はあっというまに解けてしまうから、なかに隠しておいた「とっておき」が招かれざる者の手に渡ってしまうことだってあるからです。

 

だからこそ、物語は暗喩と暗示とシンボルと解釈余地をこそ抱え込めるだけ抱えこむべきである。謎だけを手渡すべきである。それが、あのとき松岡さんから教わったことだと思っています。

 

月の裏側

思い返せば、松岡さんこそが暗喩と暗示とシンボルと解釈余地でできていました。もうちょっと言えば、松岡正剛とは暗喩と暗示とシンボルと解釈余地で書かれたテキストだったような。

 

だから、松岡さんが肉体を離れたということはあっても、別にそれでいなくなったわけじゃなくない?と、ずっと駄々をこねる子どものように思ってしまって、そこからいまだにぬけ出せません。ぬけ出すつもりも、いまのところはありません。

 

いま、これまでで一番、松岡さんの存在をすぐそこに感じます。怖いぐらい近く。

松岡さんと出会ってから、まだ日が浅かったからかもしれません。もともとずっと雲の上の存在だったからかもしれません。でも、このあいだ夢の中で出会った、イメージとして生き返ってきた松岡さんの声はめちゃくちゃ近くで聞こえました。「え、いるよね、見えるよね、声聞こえるよね」と周りにいた人と確かめ合っていたら、「声が聞こえるなら、なにしてるんだ」と松岡さんが言って、そこでパッと目が覚めました。目覚めたとき、アタマの右側がジンジンしびれたような感じがしていたのは、きっとジュリアン・ジェインズの読みすぎなのでしょう。

 

いま松岡さんが月を本拠地にしているのだとしたら、ぜったいに月の裏側にいるんだろうと思います。それで、月夜に空を見上げる私たちの熱視線を背中に感じながら、「見えないだろ〜気になるだろ〜」と嬉しそうにタバコをふかすんだろうと思います。そして新月の夜にだけ、思い立ったように「いないいないばあ」をするんでしょう。太陽の光に邪魔されないときにだけ、闇にまぎれて。ほんとうはいつも、そこにいるのに。

 

だから私たちは、これからも性懲りもなく想像力のエンジンで月の裏側をめざします。宇宙科学だけじゃ辿りつけない場所に、宇宙科学の力も借りながら。なしとげたときには、ちゃんとハグしにきてください。物理的にじゃなくていいです、素粒子的にでも、量子もつれ的にでも、ジュリアン・ジェインズ的にでも。それまでしばらくお待たせしますが、もうちょっとだけ、見守っていてください。


(アイキャッチ画像は2023年「肖冊会」にて。撮影:後藤由加里)

  • 山本春奈

    編集的先達:レオ・レオーニ。舌足らずな清潔派にして、万能の編集ガール。定評ある卓抜な要約力と観察力、語学力だけではなく、好奇心溢れる眼で小動物のごとくフロアで機敏な動きも見せる。趣味は温泉採掘とパクチーベランダ菜園。愛称は「はるにゃん」。

コメント

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川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。