『性別が、ない!』新井祥
LGBTQなどという言葉が世間を席巻するはるか以前、このマンガによって蒙を啓かれた人も多いのでは?第一巻が刊行されたのが2005年のことで、この種のテーマを扱った作品としてはかなり早かった。基本的に権利主張などのトーンはほぼなく、セクシャルマイノリティーの日常を面白おかしく綴っている。それでいて深く考えさせられる名著。
曽我兄弟! 四年前の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、本当は頼朝への謀反の企みだったものを、義時がうまく仇討ちの美談に仕立てあげていました。その義時を演じた小栗旬が信長として見守る能舞台で演じられたのが「曾我物」。豊臣兄弟の父への仇討ちとうまく絡めた設定でしたね。…ということは、今回の大河では「兄弟物」があちこちに散りばめられるのでしょうか。となると期待するのは、中大兄皇子と大海人皇子、おっと、あの二人は仲違いした二人でしたね。
さて歴史をふかぼれば宝の山。史実と史実の間にこぼれ落ちたものにこそ真実が宿る、かもしれない!? 歴史と遊ぶ方法を大河ドラマにならう多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」。クラブの面々を率いる筆司の二人が、今週のみどころをお届けします。
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第三回「決戦前夜」
秀吉といえば草履取り
直も一緒に清洲に来たはよいけれど、三人で暮らすには藤吉郎の家はあまりにも狭い。ならば、と寧々のもとへ直を送り込んでしまえば、自分の恋路の役に立つ。相変わらず調子の良い藤吉郎に呆れる小一郎ですが、その藤吉郎が真顔で告げたのが父の仇討ち、一緒に敵を討とう、でした。戦で父が首を取ったにもかかわらずそれを横取りした城戸を討たねば、と奮い立つ二人でしたが、槍の稽古に出てみれば、ひたすら叩きのめされる日々が続く…。
もう一つ、藤吉郎が稽古に気が乗らないのは、戦に出られないこと。戦に出られなければ仇を討つ機会がないのはもちろん、出世の手がかりを得ることもできない(そう言えば、正面から正々堂々と仇討ちをするのではなく、戦に紛れて討とう、というのも何やら姑息ですね)。戦に出たいあまりに「殿にお目通りを」と、鬼のようなな柴田勝家に嘆願して、「巫山戯るな!」と一喝されてしまいます。
さて秀吉というと、誰もが思い出す「草履取り」のエピソードがここで登場。それも信長の草履を、仇の城戸のものだという間の抜けた形で。嫌がらせのつもりで盗もうとしたところを信長に見つかり、苦しまぎれの言い訳でその場を逃れることになります。そして言い訳を考えたのも藤吉郎ではなく、小一郎でした。
もちろん、これはフィクションと言ってしまえばそれまでですが、物語が語り継がれていく過程において、小一郎のような陰にいる人物は削ぎ落とされ、出来事の中心に「いいこと」だけが残されていくのでしょう。逸話が、一人の人物─この場合には藤吉郎─に集約され、磨かれていくことで、物語の輪郭がくっきりとし、逸話が強い輝きを帯びることになるのだと感じます。
けれど、本作『豊臣兄弟!』が魅力的なのは、その完成された逸話をあえて一度解体して、小一郎という大切なピースをもう一度嵌め直してみせてくれるからです。 「あの有名な草履取りの伝説が、もしも小一郎が兄の窮地を救うためについた、必死な『言い訳』から始まっていたとしたら」――。そんな歴史の余白に、遊び心のある「IF」を忍ばせる脚本家の視点に、思わず心浮き立ちます。
一人の天才が起こした奇跡という「出来すぎた物語」を鵜呑みにせず、その裏側にあったはずの泥臭い知恵や、共に流した冷や汗を丁寧に掬い上げる。そこに現代の私たちが共感できる等身大のリアリティを宿らせるのが、脚本家の意図なのかもしれません。
瓢箪(!)から駒の出陣
小一郎が考えた苦しい言い訳とは「まもなく雨が降る」でした。「百姓だからわかるのです」と言葉を重ねてみても、「次はもう少しましな言い逃れを考えよ」と、そう、信長には見抜かれていたのですね。
その場を去る後ろ姿に、藤吉郎が出陣しないのか、と声をかけてしまいます。どう勝つのかと迫る信長に対し、藤吉郎はまたしても小一郎に発言を転嫁。和睦を、と言った小一郎に「闘志なき者は去れ」とばかりのきつい言葉を投げかけて去っていきます。
一度は中村に帰ることを考えた小一郎ですが、直の
あんたは下剋上に見せられたんじゃ。それなら、今戦わないでいつ戦うんじゃ。
という言葉を聞いて、自分の中の闘志に気づきます。
こうして雨上がりの戦支度をする藤吉郎の前に、刀を携えた小一郎が現れたのでした(瞳の中に、本当に炎が映っていた最終シーン、ご覧になりましたか?)。
『濃尾参州記』
さて、信長のことである。
名古屋については、信長から書きはじめたい。
その信長の一代のなかでも、若いころの桶狭間への急襲についてである。かれは尾張衆をひきい、いまの名古屋市域を走った。勝ちがたい敵とされた今川義元(一五一九~六〇)の軍に挑み、ひたすら主将義元の首一つをとることに目的をしぼり、みごとに達した。
司馬遼太郎『街道をゆく43 「濃尾参州記」』
司馬遼太郎『街道をゆく』の最終巻「濃尾参州記」の冒頭に置かれた一句です。次週第四回こそが「桶狭間!」ということで、もしかしたら無粋かもしれません。しかし著者の死去により未完に終わったこの巻は、前夜にご紹介するにふさわしいようにも思うのです。
取材に同行した週刊朝日編集部の村井重俊氏の取材ノートによると『国盗り物語』を書いた時には桶狭間に行くことはなく、二万五千分の一の地図を見て書いたのだと。その桶狭間は、司馬の眼にはこのように映っていました。
桶狭間という、大地につくった箱の底は、平面な水田地帯ではなく、底は底ながらも、地のこぶのような小さな隆起がいくつもあって、林が多かった。
本当は「田楽ヶ窪」という地名だったものが、当時から桶狭間と混同されていたのだとか。そして再び村井氏の取材ノートによると、この旅の中で司馬は
「信長の偉い所は、桶狭間の成功におぼれなかった所だね。人間はいちど成功すると、同じことを繰り返して失敗します。信長は二度と少人数での奇襲をしなかったからなあ」
と語っていたそうです。
次回、信長の生涯で一度しか見られない奇襲、ここにどのように兄弟が絡んでいくのでしょうか。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十九(こぼれ話)
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