巣の入口に集結して、何やら相談中のニホンミツバチたち。言葉はなくても、ダンスや触れ合いやそれに基づく現場探索の積み重ねによって、短時間で最良の意思決定に辿り着く。人間はどこで間違ってしまったのだろう。
死を美しく語るための装置は、もう起動しない。代わりにそこに立ち現れたのは、意味を与えようとする私たち自身が、つまずき続ける風景だった。泣くべきか、笑うべきか、心を決めかねた終わりの先で、不意に始まりの音が響く。私たちは今もなお、止まらないパレードの只中に立っている。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇめぇ~!!と最終回のみどころをお届けします。
第四十八回「蔦重栄華乃夢噺」
死を「意味」にすると、何が起きるのか
歴史劇、とりわけ大河ドラマというフォーマットは、本質的に「死を意味へと回収しやすい」装置です。実在の人物であること。結末がすでに確定していること。最期の場面が、あらかじめ共有されていること。これらの条件は、物語の視線をどうしても主人公の「死」から逆算させてしまいます。
英雄は理念のために死に、敗者は時代の必然として倒れ、犠牲は未来への礎として語られる。死は説明され、位置づけられ、納得できる「意味」へと変換されることで、物語を閉じるための最終地点となります。歴史劇が長く人々を慰め、教育し、同時に統治とも親和してきたのは、この回路を人々が共通して内蔵しているからにほかなりません。
しかし、その回路が作動する瞬間、どのような編集が行われているのでしょうか。死が意味づけられるとき、そこでは必ず、生の要約が行われます。人生は物語として整理され、行為は理由を与えられ、評価は確定する。「彼はこのために死んだ」「この死は無駄ではなかった」「この犠牲があったから今がある」。こうした言葉は、しばしば慰めや理解の装いをまといますが、その内側には、”生を生たらしめたもの”を刈り取る鋭利な剃刀が潜んでいます。
なぜなら、死によって確定された意味は、生きている最中に存在していたはずの矛盾や葛藤、躊躇いや後悔の大部分を、切り捨ててしまうからです。それらは死後、「物語として整わない」という理由だけで、なかったことにされてしまう。死を意味にするという行為は、分からなかったものを「分かったこと」に変換し、生を後付けで管理する操作でもあります。
こう生きれば、こう死ねる。こう死ねば、こう評価される。この死を介した因果の回路は、国家や宗教、イデオロギーが好んで用いてきたものです。死が「意味」へと変換された瞬間、生は目的達成のプロセスへと再編され、人は「物語として正しいかどうか」で測られる存在になります。
しかし、『べらぼう』の最終回は、この回路を補強するどころか、最初から断ち切っているのです。死を「意味」に回収しない。生を一本の物語に閉じ込めない。評価を確定させない。死を説明することで世界を整えるのではなく、無数のズレを残したまま、説明しきれなさの只中に私たちを立ち会わせる。その編集判断そのものが、『べらぼう』最終回の出発点になっているのです。
一橋治済に訪れた「意味なき死」
最終回の冒頭で描かれる一橋治済の死は、あまりにも唐突で、理解不能です。政治的にはすでに決着がつき、流刑という処分によって役割を終えた人物が、護送中に「用を足す」という身体的な理由で監視の目をかいくぐり、刀を奪って逃げ、雷に打たれて死ぬ。そこには、因果としての必然も、裁きとしての納得も存在しません。
この死を「天罰」と読もうとすることはできます。しかし、その読みはすぐに破綻します。なぜなら、この出来事はあまりにも雑音に満ちているからです。政治的陰謀でもなく、倫理的判断でもなく、ましてや英雄的決着でもない。そこにあるのは、排泄という身体の都合、思いつきの逃走、場違いな滑稽さ、そして偶然としての天候です。
雷を平賀源内の特大エレキテル(恨みの雷)として読むのは、ひとつの面白い解釈ではある。ですが、その解釈だけで治済の死の唐突感を拭い去るのは難しい。意味へと整えようとすればするほど、語りは空転します。どこにも「ここだ」と指し示せる回収点が見つからないのです。
ここで描かれているのは、「正しい死」の明確な否定です。悪人は裁かれるべきだ。悪は最終的に罰せられるべきだ。物語は、そうした分かりやすい回収を求める。しかしこの死は、その期待に一切応えません。
治済は英雄としても、巨悪としても、死ぬことを許されない。死は教訓にならず、世界は整わず、カタルシスも訪れない。ただ、人はわけの分からない仕方で死ぬ。愛されていようといまいと、憎まれていようといまいと、善人であろうと悪人であろうと、ただ死ぬ。その取り返しのつかない事実だけが、ぽつりと残される。この死は単なるキャラクター処理ではありません。それは最終回で貫かれる「死を意味にしない」という編集方針の、最初の宣言です。因果を切断し、評価を拒否し、死を物語の外へと押し出す。『べらぼう』はここで、死を説明するドラマであることを、はっきりとやめているのです。
死者の突出――意味を与えに来ない平賀源内
治済の死体のそばに、ふいに顕れる平賀源内らしき後ろ姿。これは、とりわけ不穏な演出です。源内は復讐者でも死神でもなく、裁きを下す存在でもありません。番町皿屋敷のお岩さんのように恨みを語るわけでもない。ただ、そこに立っている。それだけです。
通常、死者は回想として過去に配置されます。「あのとき、あの人はこうだった」と語られ、時間の外側へと回収される。しかし、この源内は違います。彼は過去に戻らず象徴にもならず、生者の空間に、未処理のまま紛れ込んでくる。時間の編集が、意図的に失敗させられているのです。
この死者の突出は、慰霊や救済のための装置ではありません。それは死が意味づけられず、整理できない出来事であることを、視覚的に突きつけるためのものです。治済の不可解な死が因果にも教訓にもならなかったことを、言葉ではなくイメージとして反復する。源内はそのために呼び戻されているのです。
『べらぼう』を支える死生観において、死者は何かを教えに来る存在ではありません。彼らは答えを携えて現れるのではなく、分からなさをそのまま持ち込み、生者の世界に亀裂を走らせる存在です。理解や納得を与えない。慰めもしない。ただ分からなかったという事実だけを、生者に残す。この不気味さは演出上の装飾ではありません。それは、死を分かったふりで回収しない、死者を意味の代理人にしないという、きわめて強い倫理の表明なのです。
ナレーターの突出――語りの限界としての九郎助稲荷
蔦重の死に際して現れる九郎助稲荷は、物語の内容以上に、語りのあり方そのものを揺さぶります。なぜなら彼女は、このドラマを支えてきたナレーター=〈語り〉の装置であり、物語自体に介入することは本来できないからです。
ナレーターとは、本来、出来事を整理し、因果をつなぎ、観客を理解可能な位置へと導く存在です。どれほど過酷な死であっても、語りが介在するかぎり、それは物語として受け取ることができる。語りは、そのための距離と秩序を保証してきました。
しかし、そのナレーターが綾瀬はるかの身体を伴って、蔦重の前に顕現します。蔦重の死期を告げるという介入を行いながら、理由は語らない。意味も与えない。慰めもしない。ここで示されているのは、語りの失敗ではありません。語りの〈限界〉です。
死は、語りによって整えきれるものではない。だから語りは、説明や解釈を引き受けるのではなく、外側から「告げる」という最小限の行為にまで身を引く。主人公が死ぬにあたり、ナレーターが突出したのは、神の視点で主人公の運命を把握していることを誇示しているわけはありません。むしろ、これ以上踏み込めないという自制の表明です。死を意味に変換することを、語りのほうから手放している。このズレは、演出上の遊びではありません。死が物語の内部で完結しないという事実を、構造として示すための必然です。
語りが整えようとすればするほど、死はこぼれ落ちてしまう。だから語りは、理解させるのではなく、ただ立ち会わせる位置へと後退する。九郎助稲荷は、死の意味を教えに来た存在ではありません。死が意味にならないという状態そのものを、観客の前に差し出す存在です。ナレーターの突出とは、語りが自らの万能性を放棄し、沈黙にもっとも近い形で顕れた瞬間なのです。
滑稽の解剖学――骨が笑いになる瞬間
骨とは、生きている間は隠され、死後にもっとも長く残るものです。それは人格でも感情でもなく、人が「生きていた」という事実を支えていた構造そのものです。骨が恐怖になるのは、それが意味や物語を剥奪され、ただ「人が壊れた痕跡」として現れるときです。そこには理由も教訓もなく、理解可能な文脈も与えられない。ただ、壊れてしまった身体だけが、否応なく突きつけられるからです。
悲劇は、この恐怖を制御するために骨を隠します。死を理念や運命に包み込み、身体の崩れを舞台の裏へ追いやることで、世界をもう一度、理解可能なものとして整える。悲劇とは、死を意味へと変換するためのジャンルなのです。
しかし、骨が笑いへと転じる瞬間があります。それは、意味が剥がれ落ちたあとに残る構造を、あえて隠さずに晒してしまったときです。
「滑稽」という言葉に「骨」という字が含まれていることは、人間の内側を支えている〈骨組み〉が、ふいに露出してしまう感覚と強く響き合っています。滑稽さとは、人格や正しさの皮が一瞬だけめくれ、人間を支えている本質的な構造が剥き出しになってしまう状態を指します。笑いとは、その露出を前にしたときに起こる、理解不能への身体的反応なのです。
笑いとは、理解が一瞬だけ失敗したときに、意味よりも先に身体が反応してしまう現象です。予期と現実、意味と現象、感情と身体がぴたりと重ならなかった、そのズレた瞬間に、人は意図せず笑ってしまう。
そして、このズレがもっとも鮮明に現れるのが、死を巡る場面です。
死は本来、悲しみや敬意、沈黙といった特定の感情とふるまいを強く要請します。私たちは葬儀という場に入った瞬間、自分の身体を、その意味に合わせようとします。しかし、それができなかったら、どうなるのでしょうか。
ドリフターズの葬儀コントに登場する「いびき」は、まさにその瞬間を露骨に可視化します。読経と木魚の音に交じりこむ、不意のいびき。それは死者への冒涜でも、意図的な挑発でもありません。ただ、意味を持たない純粋な身体音が漏れ出てしまっただけです。いびきが可笑しいのは、場の意味に反抗しているからではありません。厳粛であろうとする意味の要求が過剰だったために、身体が耐えきれず、音として破綻してしまった。ここにあるのは、意味の過剰と身体の不全とのズレです。
このとき、観る側は判断に失敗します。怒るべきか、咎めるべきか、無視すべきか。どの反応も完全には正しくならない。いびきには意図も悪意も帰属できず、倫理的判断そのものが宙吊りにされる。その宙吊りの空白に、反射的に入り込んでくるのが笑いです。笑いとは、意味づけに失敗した状況を、いったん〈ズレ〉として留め置くための、身体的な応答なのです。
だから、いびきは死を侮辱しません。死を茶化すのでも、軽くするのでもない。完成された意味としての死を、もう一度、現象のレベルへと引き戻す音です。『べらぼう』最終回が選んだのは、このいびきと同じ位置でした。死を教訓や物語として回収するのではなく、処理しきれないズレとして、そのまま晒す。笑っていいのかは分からない。しかし、黙って意味に回収することもしない。そこにこそ、『べらぼう』最終回が選んだ、死との距離の取り方があります。
骨を隠す悲劇、骨を出す喜劇
悲劇とは、死を意味へと変換するジャンルです。それを成立させるためには、身体は理念に従順であることが求められます。死が崇高な結論として読まれるためには、身体の偶発性や滑稽さは排除されなければならないからです。しかし、骨はそうした要請に応えません。骨は感情も意図も語らず、物語にも回収されないまま、ただ「死後に残るもの」としてそこに在り続けます。その存在は、死を教訓や結論として整えようとする語りを、物質の側から拒んでしまうのです。
骨が露出した瞬間、死は理念から滑り落ちます。それは「尊い犠牲」でも「必然の運命」でもなく、ただ人が壊れてしまったという出来事として現れてしまう。そのとき「なぜ」という問いは行き場を失い、宙に浮く。だから悲劇は、骨を覆い隠します。身体の崩れを舞台の外へ追いやることで、理念や運命だけを残し、意味を完結させるのです。
しかし喜劇は、その逆を行います。喜劇は、意味をズラして完成させないジャンルです。転倒や失敗や恥を通して、正しさを意図的に崩し、人間を支えている骨組みを、あえて露出させます。
そこでは、生も死も完成しません。成長も救済も、最終的な評価も与えられません。残るのは、理解しきれなかったという事実と、それでもなお、世界が続いてしまうという現象だけです。笑いとは、その意味不成立の状態を、個人ではなく共同で引き受けるための反応です。誰か一人が処理するのではなく、場にいる全員が「分からなかった」という宙吊りを共有する。その共有の身振りこそが、笑いです。
悲劇が成立するためには、ある条件が必要です。それは、死が「理解可能な出来事」として処理されることです。誰が、なぜ、どのような理由で死んだのか。この問いに、物語が答えを与えた瞬間、死は意味になります。そしてその瞬間、笑いは排除される。笑いは、意味を完成させないからです。
骨が隠されるのも、同じ理由です。骨とは、意味が剥がれ落ちたあとに残るものだからです。悲劇は、骨を舞台裏に追いやり、理念や正義や運命で死を包むことで、世界を再び理解可能なものとして整えます。
しかし、『べらぼう』最終回は、この処理そのものを拒否しました。死を教訓にしない。意味で包み込まない。骨を隠さず、判断不能なまま差し出す。それは、死を軽んじる態度ではありません。むしろ逆です。死を回収してしまう暴力から距離を取るための、もっとも慎重で誠実な距離の取り方だったのです。だからこそ、この最終回は、悲劇になることを拒み、喜劇の笑いを借りて死から距離を取った〈悲喜劇〉と呼ぶべきものなのかもしれません。
滑稽と死の隣接――北野武という悲喜劇
『べらぼう』最終回が選んだのは、悲劇によって死に意味を付与する道でも、死を教訓として回収する道でもありませんでした。死が意味になる直前で足を止め、観る者を判断不能の位置に置く。そのとき、恐怖と笑いは、奇妙に隣接しています。この配置は、決して特殊なものではありません。日本の表現史において繰り返し試みられた位置取りです。
そして、その到達点のひとつが、北野武の映画です。それは、笑いを知らない者には、決して到達できない地点でもあります。
北野武は、コメディアンの王者として、笑いがどこで生まれ、どこで壊れ、どこを踏み越えてはならないのかを知り尽くしています。笑いが成立する条件と、成立しなくなる境界を、経験として引き受けてきた人物です。だからこそ彼は、死を笑いに変換することも、笑いで死を覆い隠すことも選びません。
北野武が選ぶのは、そのどちらでもない位置です。死が意味へと変換されてしまう、まさにその直前で、あえて立ち止まる。この選択は、偶然ではありません。笑いの構造を知らない者は、死を前にすると、どちらかに傾いてしまう。笑い飛ばすか、沈黙で包み込むか。しかし、笑いの構造を知り尽くしている者だけが、「ここから先に進めば、死に意味が生じ、同時に笑いも成立しなくなる」という臨界点を、正確に見極めることができます。北野武による死の描写が、どこか滑稽であるのは、そのためです。
北野映画において、死はほとんどの場合、唐突です。いきなり頭を銃で撃たれる。会話の途中で、不意に撃たれて絶命する。銃声は説明を伴わず、死は感情の盛り上がりを待ってくれない。悲哀を強調するような音楽も、スローモーションもない。そして死後も、カメラはすぐに感情を与えません。音楽は遅れるか、あるいは流れない。悲しむべきか、怖がるべきか、判断する時間が宙に浮く。この「判断不能の間」に、滑稽さが入り込んでくる。北野映画の死体は、しばしば姿勢が悪い。倒れ方は中途半端で、かっこよくない。血は出ているのに、演出として整えられていない。英雄的な構図にも、悲劇的な構図にもならない。
「死ぬ」のではなく「死体になって、転がる」だけなのです。
ここで観客は戸惑います。この死を、どう受け取ればいいのか。意味を与えていいのか、それとも与えてはいけないのか。滑稽さが生まれるのは、この戸惑いの瞬間です。
死が起きているのに、物語としての「正しい受け止め方」が立ち上がらない。その結果、私たちは死が描かれているにもかかわらず、笑ってしまう。それは、笑おうとして笑うのではありません。意味づけに失敗した身体が、先に反応してしまう笑いです。
重要なのは、北野武が「死と笑いを混ぜている」のではないという点です。彼は死を笑いに変換しているのではない。死が意味になる前で、あえて止めています。
悲劇とは、死を意味にする装置です。誰が悪く、何が喪われ、なぜ悲しむべきなのか。しかし北野武は、その装置を作動させません。だから死は、恐怖としても、悲劇としても完成しない。その宙吊りの状態だからこそ、バイオレンスでありながらシュールな滑稽さが生じるのです。
このときの滑稽さとは、死を侮辱するものではありません。むしろ、死を分かったことにしてしまう横暴から、距離を取るための反応です。死を意味にした瞬間、「この死はこういう価値を持つ」「この死には理由がある」という回路が立ち上がる。北野武は、それを極端に嫌う。だから彼の映画では、死体はしばしば骨に近い存在として現れます。人格でも、理念でもなく、ただ壊れてしまった身体として、糸の切れた操り人形のように、そこに放置されます。
骨を見たとき、意味が成立すれば悲劇になり、成立しなければ、滑稽さが立ち上がる。北野武は、意図的に後者を選び続けてきました。だから彼の作品では、死が意味にならなかった痕跡として、“笑わせようとしている”のではなく、“意味が立ち上がらなかった結果”として滑稽が残るのです。
『べらぼう』最終回が選んだ位置も、まさにここでした。死を説明しない。正しい受け止め方を指示しない。判断不能なまま、身体だけが反応してしまう地点に、観る者を置く。そのとき、恐怖と笑いは分岐するのではなく、隣り合う。そしてその隣接こそが、死を物語に閉じ込めないための、もっとも繊細で誠実な距離なのです。
空転する「不在」――写楽を不滅たらしめるもの
『べらぼう』における写楽は、当初、治済に対する復讐のための仕掛けとして立ち上げられた存在でした。しかし「不在」という形式に注目すると、それは同時に、蔦重にとっての”死の予行演習”であったと言い換えることができます。
写楽の正体を特定しようとする欲望そのものは、単なる好奇心ではありません。それは、ズレを意味へ、現象を物語へと回収しようとする、人間の本能です。そして、この本能は、死に意味を与えようとする欲望と同じ場所から立ち上がっています。
誰が描いたのか。写楽とは何者なのか。これらの問いは、一見すると理解のためのものに見えます。しかし正体が明らかになった瞬間、写楽は「説明可能な存在」になってしまう。理解された瞬間に、その表現はエネルギーを失ってしまう。だから写楽は、「誰か」になってはいけなかったのです。
『べらぼう』における写楽は、複数の人間が関与して生み出された存在です。そのため表現は過剰なほど多様で、「〇〇先生の画風」といった一貫性は成立しません。「写楽とはこういう人だ」という理解を、ことごとく裏切り続ける。写楽は、表現のレベルでも、存在のレベルでも、意味化を拒否する構造を持っています。
ここで重要なのは、この脚本が「意味を与えようとする衝動」そのものを否定していないという点です。
意味を求めてもいい。理解しようとしてもいい。正体を探してもいい。しかし、この物語では、それらの試みが「確定」に至ることはありません。どれだけ意味を与えようとしても、「これが答えだ」と言える地点が、あらかじめ用意されていないのです。
これは倫理的な判断ではありません。意味を与えることを誤りだと裁くのではなく、意味を与えようとする動きが、自然に行き止まりになる配置を、物語の内部に組み込んでいる。否定ではなく、空転。この脚本が選んだのは、その方法でした。
写楽は、語らないから不可解なのでも、何かを隠しているから理解できないのでもありません。最初から、名前や経歴や人格といった〈意味が確定する入口〉を持たない形で置かれている。だから私たちの欲望は拒絶されることなく、そのまま空回りし、確定に至らない。
この態度は、死をめぐる意味づけにもそのまま重なります。
死に意味を与えたい。無駄ではなかったと言いたい。教訓として受け取りたい。その欲望は否定されません。しかし描かれる死の周囲には、滑稽さや偶然といったズレが混じり込み、どこにも「これが意味だ」と言える回収点が与えられない。ここでも起きているのは、否定ではなく空転です。
写楽は、この構造を、生の側で先取りしている存在でした。だから写楽は、死後に意味を与えられる存在ではありません。意味を与えようとする運動そのものが成立しない形式として、世界に残されている。もしこの脚本が、「死に意味を与えるのは間違っている」と明言してしまっていたら、蔦屋重三郎の生も、行為も、編集も、すべてが否定されてしまったでしょう。語ろうとしたこと、救おうとしたこと、伝えようとしたこと――それらはすべて、「誤った意味化」として裁かれてしまう。
そこで、この脚本は、きわめて困難なバランスを選びました。
意味を与えようとすること自体は否定しない。ただし、最後には回収させない。そのために必要だったのが、否定しない写楽であり、説明されない写楽であり、意味に抗うことなく、意味を成立させない写楽だったのです。写楽とは、死後に意味を与えられる存在ではありません。
蔦重にとって写楽は、「どう死ぬか」を示す存在ではなく、「どう不在になるか」を先に示した存在でした。だからこそ写楽は、蔦重にとっての”死の予行演習”として、この物語の中核に置かれているのです。
悲喜劇の系譜――『べらぼう』と『膝栗毛』
最終回における数々の笑いは、突発的異物ではありません。それは、『べらぼう』が一貫して描いてきた逸脱(ズレ)の系譜の、必然的な延長線上にあります。その系譜を端的に示す参照点が、十返舎一九『東海道中膝栗毛』です。
弥次喜多のコント的な笑いは、成長にも教訓にも回収されません。彼らは何かを学んで変わることも、失敗を糧に成熟することもない。その代わりに、何度も転び、騙され、恥をかき、醜態を晒し続ける。
死なないかわりに、骨を見せ続ける。それが『膝栗毛』の笑いです。
ここで笑いが担っているのは、生を肯定する力ではありません。むしろ、死や破綻に直面する手前で、意味や物語が固まってしまうのを防ぐための装置です。弥次喜多は死なない。しかしそれは、世界が安全だからではなく、死に至る前の「崩れ」を、笑いとして先に引き受けてしまうからです。
『べらぼう』最終回が行ったのは、この笑いの構造を、生の場面から死の場面へと引き下ろすことでした。蔦重の死が笑いと隣り合わせに描かれたのは、不謹慎さのためではありません。『膝栗毛』的な笑いが本来引き受けてきた役割――意味が立ち上がる前で足を止め、理解不能なものに耐えるという機能を、ついに死そのものに適用した結果です。
このレベルまで突き詰められた笑いは、もはや生の延長線上にあるものではありません。ましてや、死を軽くするためのものでも、悲しみを打ち消すためのものでもない。死の不可解さ、理不尽さに、そのまま立ち会うための形式として機能しています。
歴史上の蔦屋重三郎が関わった江戸の出版文化から、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』へ。そして、その蔦重を描いた、二千二十五年の『べらぼう』最終回へ。回収されないための笑いは、形を変えながら、時代を越えて手渡されてきました。それは、死を遠ざけるための軽さではありません。死に触れてなお、意味に回収されないための、強靭な耐久性としての泣き笑い(悲喜劇)の到達点です。
「もののあわれ」という巨大な器
本居宣長との対話は、『べらぼう』が描いてきた死生観に、はじめて思想としての言葉を与えます。しかし蔦重は、和学を理論として説明しようとはしません。神様はすけべで、おっちょこちょいで、祭りが好き――その語りは、学説というよりも、身体感覚に近いものです。
ここで示されているのは、善悪や正しさによって世界を裁こうとしない態度そのものです。崇高な理念を掲げるのではなく、みっともなさや可笑しさを含んだまま、起きてしまった世界を引き受けること。蔦重の語りは、「理解する」よりも先に「受け止める」という選択をします。
本居宣長が語った「もののあわれ」は、しばしば感傷として誤解されてきました。しかしそれは、情に浸ることではありません。起きてしまった出来事を、良い/悪い、正しい/間違っている、と仕分ける前に、そのまま抱え込むための巨大な器です。
生も死も、善も悪も、成功も失敗も、いずれかに回収することなく、同時にそこに在らせておく。感傷ではなく、評価を保留したまま出来事を抱えておく。
「もののあわれ」とは、世界を説明するための思想ではありません。あまりにも不条理な生死、説明しきれない世界に耐え続けるための形式なのです。この器の感覚は、最終回の死の描写にまで、一貫して流れています。死は裁かれず、教訓に変換されず、意味づけられることもなく、ただ起きてしまった出来事として置かれる。それでも世界は続いてしまう。その事実を、否定も正当化もせず、引き受ける。
『べらぼう』が最終回で選んだのは、まさにこの宣長的態度でした。
死に意味を与えることで世界を整えるのではなく、意味に回収しきれないものを含んだまま、生と死を抱え続ける。そのための器として、「もののあわれ」は、この物語の最後まで確かに開かれていたのです。
臨終のメタ・パレード――段取りを破る「ズレ」の連鎖反応
蔦重の最期は、「死の意味づけ」に対する単発の逸脱としては描かれません。それは、複数のズレが意図的に重ねられることで、臨終という形式そのものが内部から解体されていく過程――いわば〈臨終のメタ・パレード〉として構成されています。
第一のズレは、ナレーターである九郎助稲荷の突出です。本来は物語の外側にいるはずの語り手が、臨終の場に身体を持って現れ、死の宣告を行う。この瞬間、語りと出来事の境界が侵犯され、死は「起きてしまう現象」ではなく、「この時間に起きるもの」として設定されます。
死は偶発ではなく、突発でもなく、管理可能なプロセスとして、語りの側から設定されてしまうの。これは医療が発達した現代においても、なお不可能な操作です。人は死を予測することはできても、死そのものを確定させることはできない。だからこそ死は不条理なのですが、この場面では、突出したナレーターがそれを実現してしまう。「死から不条理性が撤廃され、もはや死が死でなくなる」という、途轍もないズレが描かれています。
第二のズレは、「屁踊り」です。厳粛であるべき臨終の場に、魂呼びとして「屁」が持ち出される。ここで起きているのは、単なる下品な笑いではありません。制度化された臨終の内部に、身体の制御不能な音と動きが侵入し、死の儀式が内側から崩されていく。重要なのは、この逸脱が外部からの破壊ではなく、儀式の名のもとに正当化されている点です。魂呼びという名目によって、ズレは一度、正しさを与えられ、その正しさごと臨終の秩序を裏切る。この二重性が、死の管理を決定的に不安定化させます。
第三のズレは、最大の裏切りとしてのオチです。「(うるさくて)拍子木が聞こえねぇんだけど」という蔦重自身の一言によって、死を締めくくるはずだった合図が拒否される。ここで拒まれているのは、死そのものではありません。拒否されているのは”死を終わらせるための形式”です。拍子木が鳴らないことで、臨終の“終わり方”は宙に浮かされる。誰が、いつ、どのようにして死を完結させるのか。その決定権は、最後の瞬間に至って失効します。
この三重のズレによって、死は完全に段取りを失います。
時間も、語りも、儀式も、最後まで噛み合わない。死は誰のものにもならず、誰にも管理されないまま、笑いと混乱だけを残して、場を通過していく。臨終がパレードになるとき、死はもはや意味へと回収される対象ではありません。それは、理解も正当化もできないまま、ただ立ち会われ続ける不条理として、場に残される。
『べらぼう』最終回が行ったのは、死を美しく描くことでも、軽やかに笑い飛ばすことでもありません。
死という、人間の理解も制度も物語も破綻する出来事に対し、なお編集を試みること――しかも、意味づけではなく、ズレを組み込み、段取りを崩し、回収不能なかたちで差し出すという編集です。
死を説明しないまま、説明しようとする衝動そのものを露呈させる。死を整えないまま、それでも私たちが立ち会う状況を成立させる。これは、死という不条理に対して、物語が到達し得るほとんど限界点に近い操作でしょう。臨終を壊すことで、死を冒涜したのではない。臨終という形式を壊すことで、死を誰のものにもさせなかった。その編集判断の過激さこそが、『べらぼう』最終回を、感動譚でも、思想劇でもない、きわめて稀な地点へと押し上げているのです。
死後のオープニング――終わらせない構造
蔦重の生涯が拍子木の音とともに幕を下ろした、その直後。物語が完全に終わったはずのその瞬間、画面に流れ始めたのは――オープニング映像でした。これは予想外というより、理解が一瞬、追いつかない種類の出来事です。『べらぼう』らしさを体現する最後の仕掛け、すなわち第四のズレが、決定的強度をもって顕れた瞬間でした。
この演出は、余韻でも、遊び心でもありません。物語を終わらせないための、明確な編集判断です。
通常、物語は「終わり」によって総括されます。主人公の人生は意味づけられ、評価され、位置づけられる。死は完成であり、結論であり、そこから振り返ることで、生は一つの物語として固定される。しかし『べらぼう』は、その回路を最後の最後で拒否します。
終わった直後に、始まりが流れる。この反転によって、蔦重の人生は総括されません。「どういう人物だったのか」「何を成し遂げたのか」という問いは、答えを与えられないまま、宙に放り出される。まさに、歴史劇が、死を結論として英雄の人生を意味づけ、評価し、位置づける装置であるという前提をひっくり返したのです。
重要なのは、生を死後に固定しないという、はっきりとした倫理的選択に基づく演出であるということです。物語を閉じないことで、死を完成にしない。意味に回収しない。ズレたまま、説明不能なまま、それでも立ち会い続ける。死のあとにオープニングが流れる――この第四のズレそのものが、『べらぼう』という物語の姿勢が、言葉ではなく映像として、最後にもう一度、はっきりと視聴者に提示されました。終わったはずなのに、始まってしまう。その違和感を残したまま、この『べらぼう』という物語は、意味づけられた死を堂々と拒んでみせ、とうとう、『べらぼう』という物語自体を、意味づけられない、語り切れない領域へと押し上げたのです。
『べらぼう』に生きる――”意味探し”に埋没しないために
最終回を観た視聴者のなかには、「よく分からなかった」「もっと泣かせてほしかった」「感動していいのか、笑っていいのか、判断できなかった」という戸惑いを抱いた人も少なくなかったはずです。
しかし、この戸惑いこそが、最終回が失敗ではなかったという証拠なのです。むしろそれは『べらぼう』が最後に到達した地点に、視聴者が正しく巻き込まれた証だと言えるでしょう。
これまで用いてきた言葉を使うならば、それは「勝手に意味を探してしまう脳」が、めでたく意味探しに失敗した瞬間なのです。
人は、死に直面したとき、必ず意味を探してしまう。理由を求めて、評価を与え、感情の置きどころを確定させ、自らを納得させる。それは弱さではなく、生きている脳の自然な反応です。しかし『べらぼう』の最終回は、その回路を否定はしないまでも、意図的に成立させませんでした。
泣いていい、とも言わない。笑っていい、とも言わない。感動せよ、という合図も与えない。その結果、感情は立ち上がりかけては崩れる。意味は掴めそうで掴めず、「分からなかった」という感覚だけが残る。
ここで重要なのは、この「分からなかった」が、理解力の不足でも、感受性の欠乏でもないということです。それは『べらぼう』が仕掛けた「意味にならないズレのパレード」に、視聴者自身が当事者として参加した結果なのです。
蔦重の死は、誰でも容易く受け止められる”整えられた死”として描かれていません。物語が総括してくれる死でもなければ、ナレーターが意味を与えてくれる死でもない。だからこそ、視聴者一人ひとりが、その場に立ち会わされることになる。泣ききれなかった脳。笑ってしまっていいのか迷った脳。感動の方法を失ったまま呆然とした脳。その脳こそが、蔦重の編集の、最後の受け皿でした。
最終回において、「よく分からなかった」と感じた視聴者は、物語の外に置き去りにされたのではありません。
むしろ逆です。意味を与えられなかったからこそ、評価を確定されなかったからこそ、その人は、蔦重が最後まで守ろうとした場所――ズレたまま、立ち会う場所に、きちんと立っていた。『べらぼう』は、視聴者に「正しく理解すること」を求めなかった。その代わりに、「分からないまま居続けること」を引き受けさせた。
それは、突き放しではありません。ましてや、挑発でもない。
死を一人にしないために、物語が最後に選んだ、もっとも誠実な巻き込み方です。この最終回を観て戸惑った人ほど、「何かを取り逃した」のではありません。その人こそが、『べらぼう』という逸脱の物語が、最後に差し出した場に招き入れられた、正当な参画者だったのです。
『べらぼう』という物語が、最後の瞬間に私たちに手渡したもの。それは、感動的な教訓でも、歴史的な知識でもありませんでした。
それは、意味の牢獄から解き放たれた、あまりにも生々しく不格好で、しかし確かに自由な、死の風景でした。
蔦屋重三郎は、自らの最期を美しく飾ることを拒みました。人生最大の出来事である死においてさえ、主役として収まることを良しとせず、屁や間の悪さ、そして「拍子木が聞こえねぇ」というズレの中に、自らを溶け込ませてしました。
私たちは今、あらゆる出来事が即座に意味づけられ、評価され、消費されていく時代を生きています。誰かの死も、誰かの失敗も、瞬時に「安価な物語」としてパッケージされてしまう。そんな世界において、『べらぼう』が差し出した「分からないまま、ズレたまま立ち会う」という編集は、人間が人間であり続けるための、最後の砦のように思えてなりません。
拍子木は鳴りましたが、またオープニングが流れました。幕は下りたようでいて、実はまだ、開いたままです。
私たちは今も、あの騒がしい江戸の雑踏のなかに、蔦重と一緒に立っています。笑っていいのか、泣いていいのか、黙っていればいいのか、よく分からない。しかしながら、その宙吊りの感覚こそが、私たちが今、確かに生きているという、「骨」の手応えなのです。
蔦重が最後に笑ったのだとすれば、それはきっと、”意味探し”に明け暮れる私たちの滑稽さを、どこか愛おしく眺めていたからでしょう。
蔦屋重三郎が最期まで抗い、そして守り抜いた「意味づけられない、語り切れない領域」。
私たちが生きるこの世界は、あまりに速く、あらゆるものに正解やラベルを貼りたがります。けれど、歴史の隙間に、あるいは大河ドラマのワンシーンに、ふと立ち現れる説明のつかないズレこそが、私たちが血の通った人間であることを思い出させてくれるのではないでしょうか。
多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」では、大河ドラマを単なるエンターテイメントや知識として消費するのではなく、その奥底にある「骨」の手応えを、仲間と共に語り、分かち合っています。
一冊の本を、一本のドラマを、単なる「答え」として読むのではなく、そこにある「問い」や「ズレ」を面白がり、自らの生へと編集し直していく。
その贅沢な遠回りの旅に、あなたも参加してみませんか。
正解のない迷宮を、共に歩む。
その「分からなさ」を愛でる場所が、ここにあります。
多読アレゴリア 2026年冬 大河ばっか!
【開講期間】2026年1月5(月)~3月29日(日) ★12週間
【申込締切】2025年12月22日(月)
【定員】20名
【受講資格】どなたでも受講できます
【申込URL】https://shop.eel.co.jp/products/tadoku_allegoria_2026winter
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十
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大河ばっか組!
多読で楽しむ「大河ばっか!」は大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブ。物語好きな筆司たちが「組!」になって、大河ドラマの「今」を追いかけます。
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コメント
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