【三冊筋プレス】曇る塊、透き通る青い魂(山口イズミ)

2022/05/17(火)10:11
img

<多読ジム>Season09・冬の三冊筋のテーマは「青の三冊」。今季のCASTは小倉加奈子、中原洋子、佐藤裕子、高宮光江、大沼友紀、小路千広、猪貝克浩、若林信克、米川青馬、山口イズミ、松井路代、金宗代。冊匠・大音美弥子の原稿が間に合えば、過去最高の13本のエッセイが連載される。ウクライナ、青鞜、村上春樹、ブレイディみかこ、ミッドナイト・ブルー、電波天文学、宮沢賢治、ヨットロック、ロラン・バルト、青水沫(あおみなわ)。青は物質と光の秘密、地球の運命、そして人間の心の奥底にまで沁みわたり、広がっていく。


 

青い微笑みの奥にあるもの

ピカソ「青の時代」の傑作『ラ・セレスティーナ』は、冷たくくすんだ青い背景に、深い群青色のマントを纏い、じっとこちらを見つめる。この片目の潰れた老婆は、15世紀末にフェルナンド・デ・ロハスによって書かれた戯曲風小説『ラ・セレスティーナ〜カリストとメリベアの悲喜劇』に登場するタイトルロールである。彼女は売春宿の女主人であり、人間の酸いも甘いも知り尽くし、ヘラクレイトスからペトラルカまで知を操る。中世の娼婦は彼女のように知性と美貌を兼ね備え、上流の男たちを操っていた。

彼女は金貨を積まれて若い男女の禁じられた恋の仲立ちをするが、その分け前を狙った青年の下男に殺される。その後、男女も相次いで非業の死を遂げる本作はスペイン版『ロミオとジュリエット』とも称される。

ピカソの青に佇むセレスティーナは、ただブルーなのではない。頬はほんのりピンク色に染まり、かつての美しさを匂わせながら、その右目は若いふたりの肉体的悦楽にピカレスクな視線を注ぐ。両性具有的でニヒルなセレスティーナの笑みは、人間の悲劇と喜劇を一種合成させた作者ロハスの意図を想起させる。コンベルソだった彼は、結びのことばでキリストを死に追いやったユダヤ人たちを嘲笑してみせ、それが彼にかけられていた異端の疑いを晴らした。くすんだブルーはロハスにとってのヴェールでもあった。

 

  ピカソ『ラ・セレスティーナ』はこちら

 

青い花の面影

時代は下り、ドイツ・ロマン主義の旗手ノヴァーリスが描き出す詩人ハインリヒはある夜、『青い花』の夢を見る。それは、未知のもの、無限への憧憬の象徴であった。彼は、その花の面影を求めて出遊し、途中出会う人びとの物語に耳を傾けるうちに次第に五感を展き、自己に目覚め、自然に対する感覚を取り戻していく。

ノヴァーリスは、自然との一体感や感性を重んじ神秘的な体験や無限のものへの憧れを表現したロマン派の思想家のなかでも、ひときわ繊細であった。鉱山学校に学び、自然科学に精通した。「青い花」のイメージに潜むフラジャイルな触知感覚、鉱脈のうえに滴る雫の清らかさは、彼が自然のなかにパッサージュした世界の心情でもある。ありったけの想像力をフル稼働させて、神の聖なる創造力を表現しようとしたのだ。

ロマン主義は、ナポレオン戦争を背景に19世紀半ばの民族意識の高まりのなかで呼吸を続け、後にナチスを生む背景とも結合していった。しかしノヴァーリスは世界を支配したくなる人間の衝動の起源を「詩」に見出し、戦いとは詩的な作用でもあるとした。ハインリヒの言葉に託して語る。

「人間はこの小世界を支配するようになると、大世界をも支配して、そこで自由に自己表明ができることを望みます。この世の外に存在するものを、この世に示現させようとすること、もともと人間の根源的な衝動であるものをなしうるという悦びにこそ、詩の起源があるのですね」

他者を支配するということは、人間の内なる幼な心と未知なるものへの憧憬の、ひとつの表象のかたちだった。切ない詩にならないザラザラした心は、恐ろしい虐殺にもつながってしまう。

 

やさしい空色の魂

ユダヤ人の精神科医フランクルは、第二次大戦中に3つの強制収容所で過ごした自らの体験と仲間の被収容者たちの心理を分析し、戦後『夜と霧』を著した。個人であることの一切を否定され、過酷な労働に耐え、看守に弄ばれ、感染症の熱に浮かされ、身体も心も千々に切り刻まれるかのような、凄惨な体験を重ねた。それでも人は生きる。そのことの意味を問うた。

自身を取り巻く現実から目を背けようとするとき、内面の生は、憧れにのって過去のしあわせな日常へと旅立っていく。未来に目的を見据えて生きることができないとき、精神は崩壊へ向かう。しかし、神や絶対的な力によって生かされていることに気づき、苦しむことにすら意味を見いだすことができれば、前へは進める。簡単ではないけれども。

『青い花』における主人公の祖父の友人クリングゾルは、「真の戦いは宗教戦争であり、これはひたすら破滅へむかってつきすすみ、そこでは人間の狂気がもろに露呈される」と言った。フランクルの思想は、キリスト教的な愛に満ち溢れているが、彼はそれを宗教としてではなく、人間の心がどのように受け容れていくのかという段階を冷静に論理的に指し示した。読んでいるうちに、霧の夜のチャコールグレイのとばりが少しずつ上がり、かわって魂が優しい空色に包まれてくような気持ちになった。

青は魂の色だ。人の心はどんな青にもなれる。数限りない青の多様性を知れば、自らの魂がいかようにも旅することができると気づく。戦禍で奪われるいのちは無数の石塊ではない。生々しくも瑞々しい一人ひとりの魂だ。

 

 

Info

⊕アイキャッチ画像⊕

『ラ・セレスティーナ』フェルナンド・デ・ロハス/アルファベータブックス
『青い花』ノヴァーリス/岩波文庫
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル/みすず書房

 

⊕多読ジム Season09・冬⊕

  • ∈選本テーマ:青の三冊
  • ∈スタジオゆむかちゅん(渡會眞澄冊師)
  • ∈3冊の関係性(編集思考素):三間連結

 

⊕参考千夜千冊⊕

  • 0132夜 『青い花』 ノヴァーリス
  • 1650夜 『ピカソ』 マリ=ロール・ベルナダック&ポール・デュ・ブーシェ

 

⊕著者プロフィール⊕

∈フェルナンド・デ・ロハス

1473年ごろにトレド州のモンタルバン村のユダヤ人家庭に生まれたコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ人)であり、イダルゴ(騎士階級)でもあった。多くのコンベルソはキリスト教徒と結婚し、ユダヤから離れていくが、彼はサラマンカ大学を卒業後にコンベルソの女性と結婚し、異端審問の監視下におかれていた。4男3女をもうけた。

1507年以降、同じトレドのタラヴェラ・デ・ラ・レイナに住み、弁護士として活動、その後、1530年代には同市の市長となる。

『ラ・セレスティーナ』は彼が学生時代だった1499年に初版が出版された。全21幕のうち第1幕は別人によって書かれ、第2〜16章がロハスの手による。その後16世紀になって5幕が追加された。戯曲形式で書かれているが、レーゼドラマ(Lesedrama:上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた)とされる。そんな長い芝居を上演できるわけがないからだ。

コンベルソであった著者の厭世観と冷徹なリアリズムによって、多くの卑劣で誇張された表現が用いられ、恋愛が描かれている。下層階級の人々の性格を活写する、近代的写実主義の先駆的な作品として、後世に大きな影響を与えた。スペイン文学において、中世の最後あるいはルネサンスの最初の作品と位置付けられる。

悪漢小説、ピカレスク小説というジャンルに分類される。ピカレスクとは、下層階級出身の悪漢的冒険者(picaro)が、各地を放浪してさまざまな社会階級の主人に仕えながらたくましく生きる物語で、社会を風刺的に描いたものである。

その性的な露骨さと邪悪な悲観主義は、かえってスペイン異端審問から逃れるのに役立ち、彼が成功を収めるのを助けたと考えられている。ロハスは、非の打ちどころのない立派なカトリックとしてその生涯を閉じた。

 

∈ノヴァーリス

ドイツ・ロマン主義の詩人・小説家・思想家・鉱山技師。1772年〜1801年。ノヴァーリスは筆名であり、ラテン語で「新しい耕地を拓く人」の意。

父はハルデンベルク家世襲の領地であるマンスフェルトの鉱山監督局長を長年務め、ノヴァーリスも幼い頃から鉱山に親しんでいた。製塩所の見習いとなり、製塩に必要な化学の知識習得のためフライベルクの鉱山学校に入学。自然諸科学を学び、当時の思想家のなかでは最も科学に精通していたという。

22歳のとき、13歳の少女ゾフィーと運命的な恋に落ち婚約するが、彼女は18歳にして結核で亡くなった。ゾフィーの面影が、青い花に投影されている。

彼は不幸を克服しようと学問に没頭し、見えないもの、すなわち「神」の領域に近づこうとした。彼は神秘主義的な傾向も持っていて、神の創造に対して人間は想像力によって万物を再創造できると考えていた。その表現方法が「ポエティッシュ」(ポエム+ポイエーシス)だった。

 

∈ヴィクトール・E・フランクル

1905年ウィーンのユダヤ人過程に生まれる。ウィーン大学在学中にアドラーやフロイトに師事し、精神医学を学び、「ロゴセラピー(Logotherapy)」という独自の理論を打ち出す。ロゴセラピーとは「人間の心の病気は、過去の不幸な出来事(トラウマ)により生じるのではなく、人生をどう捉えるかという精神的な生き方の姿勢によって生じる」との考え方に基づく。アドラーの〈力への意志〉、フロイトの〈快楽への意志〉に対して、〈意味への意志〉を鍵概念としており、これが満たされない場合に、実存的危機や良心との葛藤が生ずると考えた。医学生として若者の自殺防止活動に関わっていた。

第二次世界大戦中の1942年、チェコのテレージエンシュタット収容所へ送られる。その後、アウシュヴィッツを経て、ドイツ南部ダッハウ強制収容所支所のカウフェリング第3収容所へ送られ、戦闘機工場建設のための強制労働に従じる。1945年3月、テュルクハイム収容所へ移る。自らも発疹チフスにかかり高熱のなか、医師として多くの被収容者たちと向き合い、「医師による魂の癒し」を構想する。戦後、本作を『一心理学者の強制収容所体験』として出版、ついで『それでも人生にイエスという』を執筆した。

1955年よりウィーン教授。精神分析学者としては「第3ウィーン学派」に属し、独自の実存分析を主唱した。人間存在の基盤としての責任性と倫理性に着目しながら、人生の意味と価値を分析しようとするもの。

 

  • 山口イズミ

    編集的先達:イタロ・カルヴィーノ。冬のカミーノ・デ・サンティアゴ900kmを独歩した経験を持ち、「上から目線」と言われようが、feel溢れる我が道を行き、言うべきことははっきり言うのがイズミ流。14[離]でも稽古に爆進。典離を受賞。