【三冊筋プレス】グルマンディーズからの愛と勇気(山口イズミ)

2023/04/25(火)08:00
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SUMMARY


海亀のスープと熟成した琥珀色のシェリー酒はごく自然に融けあい、わたしたちの体液にしっとりと馴染む。キラキラ光るシャンパーニュの泡とキャビアの粒々が口の中で跳ね回る。鶉のパイ詰めの旨味とブルゴーニュワインの芳香が互い引き立てあいながら胃袋に到達するころには、そこに集いグラスを傾ける人たちの笑顔は頂点に達する。

バーで出会った本たちである。だからこそ世界を旅し、人類の歴史に思いを馳せられる三冊だ。

人が二足歩行をはじめて火を起こし、石を熱したオーヴンで焼きあげたパンは、古今東西で聖から俗へ、さま ざまな物語と絡み合った。ヨーロッパはさまざまに分断されてきた。カトリックとプロテスタントの地図は、白パン・小麦・イーストと黒パン・ライ麦・サワーの文化圏とややも境界線をずらしながら、重なりを見せる。

カトリックの国フランスから、禁欲的な北欧の漁村に逃げてきたバベットは、食の芸術家としてたった一夜の晩餐のために、自らの人生と持てる財をすべて注ぎ込んだ。一瞬の情事が、ときに人生を忘れられないほど豊かにするように、そこに「幸福」というものをもたらす。

そんなバベットの料理を想像して、たっぷりと唾液を分泌させ、できれば美味しい葡萄酒を飲みながら、読むことを薦めたい。


 

料理は錬金術で物語

最高の料理は、天の恵みと化し、分断されているものを融合させる。優れた料理人は錬金術師のように、食材を選び、時間と手数をかけてかたちを変え、お酒とマリアージュさせ、物語を紡ぎ、人々の胃袋まで運ぶ。

デンマークの女流作家イサク・ディーネセンによる『バベットの晩餐会』は、19世紀後半のノルウェーの寂れた漁村を舞台に、そこに暮らすルター派宣教師の姉妹と、1871年のパリ・コミューンの動乱で全てを失って逃げてきた、元高級レストランの女性料理長バベットとの物語である。バベットは15年間、身の上を語ることもなく質素に暮らしていたが、姉妹の亡父の生誕100年を祝うにあたり、その晩餐を自らの料理でまかなうことを申し出た。見たこともない不気味な食材が次々に運び込まれ、村人たちは警戒感を募らせるが、極上のフルコースはいがみ合っていた者たちにも至福の喜びを与えた。

 

美味しいものに国境はない

フランスでは、革命によって貴族社会が崩壊したことで料理人たちが街に放たれた。美食は庶民にも手の届くものとなる。ナポレオンの大躍進を支えたのも美食であり、翻って彼の大移動がヨーロッパ中に調理法の進化をもたらした。

『バベットの晩餐会』の舞台となった19世紀後半は、それまで男性の所有物だった女性が意志をもって生き方を変え始めた時代でもある。本作で登場するヴーヴ・クリコのオーナーは女性起業家のはしりだ。男性には御し難い『カルメン』(メリメ、1845年)というキャラクターが登場し、初期のフェミニスト、ジョルジュ・サンドは約90篇の小説、戯曲、旅行記などを出版し、その印税で大勢の家族を養った。ナポレオン3世の妻ウージェニーは1870年代のファッションアイコンとして、ルイ・ヴィトンに鞄を、ゲランに香水を作らせた。1882年のマネ作『フォリー・ベルジェールのバー』には女性バーテン ダーが描かれる。

1885年生まれのディーネセンは本格的な著作活動を始める前に、単身ケニアでコーヒー農園を運営していたほど気骨のある人物であり、その時代の女性たちを讃美していると思われる。

美味しいお料理とお酒と、逞しい女性たちがどんどん社会を変えていったのだ。そういうものに「境界線」は存在しない。

 

炎の上で踊るいのち

芸術家バベットが見守り続けたオーブン(英:oven)は、「壺」を語源とする。女体のシンボルであり、豊穣と抱擁、再生するいのちの入れものを連想させる。そのオーブンの中で、食材とともに炎のうえに踊っていたのは、人類の歴史ではないだろうか。

古来、人々は熱した石の上に捏ねた粉を置いてパンを焼いた。それはキリストの身体の寓意を帯びたり、さまざまな信仰の象徴となったりした。明坂英二による『オーブンからの手紙』は、古代エジプトやメソポタミアから20世紀のヨーロッパを舞台にした、オーブンとパンにまつわる事象を集め、パンと人間の出会いの物語を綴っている。パンをめぐる共通点や対比のなかにも、分断と融合が垣間見られた。

ディーネセンがバベットに託して描いた女性像は、捏ねた粉をオーヴンの中で立ち上げる酵母のように粘りがあり、力強く何かを結びつける力がある。  

 

食の化学反応で世界に笑顔を

ブリア・サヴァランの『美味礼讃』はまたの名を『味覚の生理学』という。法学・化学・医学を学び美食家として欧米を渡り歩いた彼は、料理が人間にとっていかに重要なものかを説く。しかし生きるために食べるのではなく、食べるから、美味しさを感じることができるからこそ、わたしたちは生きられるのだ。

食の快楽は放蕩でもなんらの罪でもない。美味学は人の一生を支配する、尊き科学であり哲学だ。何を食べてきたかは、その人の人生に現れる。

食というもの、バーチャルでデジタルなものが席巻する現代においてなお、至極リアルでアナログである。サヴァランのようなグルマンディーズからの愛と、ディーネセンが描く女性たちからの勇気を受け取って、食の化学反応を起こし、世界に温かき笑顔をもたらそうではないか!

 

 

2022年12月15日、都内某所で催された「バベットの晩餐会」で供された、スッポンと仔牛のスープ(海亀スープの擬き)、キャビアのドミドフ風、鶉のパイ詰め石棺風。12月15日は物語のなかの牧師の誕生日である。

 

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン/ちくま文庫
∈『美味礼讃』ブリア=サヴァラン・玉村豊男/新潮社
∈『オーヴンからの手紙』明坂英二/青土社

 

⊕多読ジムSeason13・冬⊕

∈選本テーマ:食べる3冊
∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体
∈スタジオらん(松井路代冊師)
∈スタジオネーム:焼きたてパン


  • 山口イズミ

    編集的先達:イタロ・カルヴィーノ。冬のカミーノ・デ・サンティアゴ900kmを独歩した経験を持ち、「上から目線」と言われようが、feel溢れる我が道を行き、言うべきことははっきり言うのがイズミ流。14[離]でも稽古に爆進。典離を受賞。

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