chapter2でロンドンのパンクロックについて少し話したので、日本のパンクについても語っておきたい。長くなるので3回に分けて、お届けしようと思う。
■パンク黎明期
日本でも、ロンドンに遅れること2年、78年ごろからパンクバンドがデビューし始める。そして日本でパンクが根付いたのは80年代になってからであり、ロンドンではパンクが形骸化し、ロックの一番反った部分はニューウエイブ、オルタナティブに、席を譲った。アメリカでは、80年代にイギリスのグラムロックの劣化した焼き直しであるヘア―メタルが廃れた後に、陰鬱なグランジが出てきて、その揺り戻しとしてのカリフォルニアパンクが生まれる。時間軸は多少前後しているかもしれないが、大筋ではそんなところで、イギリスで生まれた新しいロックのムーブメントが10年遅れて、アメリカで開花するというのが、80年代初頭までのおおよそのロック事情だった。
80年代半ばのブリットポップ以降は、イギリスのロックシーンは閉じたものとなる。アメリカでも売れたバンドはコールドプレイくらいであり、完全に独立したマーケットになってしまった。2010年代以降はまた事情は違って、完全にロックはマイナーな音楽になってしまい、チャートを賑わすのはほぼ100%、歌もののポップス。今だったらキッドルロイとか、ハリースタイルズとか。Apple Musicの都市別ベスト20のプレイリストを見れば分かるが、日本以外はどこも同じ。個々にはカッコいいバンドはあるけど残念ながらジャンルとしてのロックは、完全にオワコンと言って良いだろう。今は日本のロックが一番カッコいいかもしれない。
話を日本のパンクに戻すと、79年当時の日本にはストリートもなければパンクキッズもいなかった。あるのは書き割りのようなインチキくさい表通りか、生活感にあふれたこってこての裏通り。歩いているのは田舎臭いヤンキーか、西海岸かぶれの似非サーファーか、インチキアイビー小僧ばかり。ノーフューチャーと叫んだところで、何のリアリティもなかった。
パンクに限らず日本のロック全般に言えることだったが、歌詞にリアリティがないのが致命的だった。ロックの歌メロに日本語がうまく乗っからないこともあり、絵空事というか、どこか遠い国のできごとを歌った、出来の悪いフィクションとしか思えなかった。日本語とロックのメロディの相性の悪さを逆手に取って、ぶっ飛んだ言語感覚で独自の世界観を創り出していた村八分や、サイケデリックなノイズですべてを塗りつぶしてしまう裸のラリーズのようなバンドもいたが、極めてレアケースだった。この2つのバンドは今聞いても戦慄が走るほどカッコよくて、洋楽とか邦楽の枠で語ること自体意味がないのだが、当時、海外のロックバンドに憧れて、洋楽を再現しようとしたバンドたちは、今一つロックと言うフォーマットを消化しきれていなかった。日本のロックが独自の発展を遂げていくのは80年代に入ってからと言って良いだろう。
日本最初のパンクバンドについては諸説あるだろうが、メジャーデビューということなら国鉄職員の制服をまとって登場したアナーキーになると思う。アンダーグラウンドシーンでは京都のSSも78年には結成していたが、他の関西のバンドがメジャーデビューしていく中、インディーズから数枚レコードを出して解散している。頭脳警察やサンハウスを元祖パンクバンドと見るむきもあるし、精神性云々を言うのなら村八分なんてパンク以上にパンクだったが、ここでは狭義でのパンクロックに限定したい。
アナーキーはクラッシュやスティッフリトルフィンガーズのカヴァー曲もあり、ロンドンパンクの影響を隠せないが、たたずまい的にキャロルや横浜銀蝿と同じ匂いを放っていた。暴走族というか、今なら東京リベンジャーズ的なヤンキー色が強く、極めてdomesticなバンドだった。日本でパンクをやることのリアリティの希薄さを、不良、ヤンキー、暴走族という日本独自のアウトロー文化で乗り切ろうとしたのではないか。ロジカルに考えたわけではないだろうが、彼らの野生が本能的につかんだ戦略だったと思う。
「東京リベンジャーズ」や「クローズ」、古いところでは、「湘南爆走族」や「特攻の拓」などヤンキーものが何故流行るのかについては、いつか語ってみたい。昭和、平成の不良漫画・ヤンキー漫画は、東映のやくざ映画と同じ構造だったと思うが、「東京リベンジャーズ」に関しては、少し様子が違うように感じる。そこで展開されるのは、非日常的な出来事であり、ヤンキーたちは生身の人間ではなくて、進撃の巨人や呪術廻戦に出てくるキャラクターと同じように、異世界の住人として捉えられているのではないか。同じようなファッションに身を包み、同じように喧嘩にあけくれる描写があっても汗臭さを感じない。どこか清潔さすら感じる。
脱線してしまったが、話を元に戻す。
79年には「東京ロッカーズ」というオムニバスアルバムが発売された。音楽性は雑多で、統一性はなかったが、ニューヨークパンクからの影響が強いバンドが多かった。東京ロッカーズという言葉を聞いて、一瞬だったが、新しいムーブメントが日本にも起こりそうな気配がしたのだが、レコードを聴いた瞬間、自然発生的なムーブメントではなく、レコード会社のプロモーション戦略の一環に過ぎないことが分かった。フリクションが世に出るきっかけをつくったという意味では、エポックメイキングな事件だったと言えるだろうが、それ以外に特に語るべきことはない。
同じころ、関西では町田町蔵率いるINUやロックマガジン界隈から出てきたアーントサリー、それに関西パンクシーンの重鎮、変身キリンなど、いまや伝説となったバンドが次々に現れた。79年には東京ロッカーズを意識して、INU、アーントサリー、ULTRA BIDE、SS、連続射殺魔の5バンドが関西NO WAVEを名乗って東京進出も果たし、ライブを行っている。INUとULTRA BIDEは高槻の小さなライブハウスで行われたライブを見ているが、ULTRA BIDE はロックマガジンの阿木譲氏が主催したイベントでも目撃している。そのイベントで松岡校長と初めて出会った。それはボクにとって正に事件だった。その話は、またいつか別の機会に譲るとして、その日がボクのジンセーにとって、大きなターニングポイントだったことは間違いない。
■西部講堂は燃えていた
70年代の最後を飾る出来事として、1979年12月31日の17時30分から1980年1月1日の午前5時にかけて、日本のパンクバンドによるオールナイトコンサートREVO80が行われた。その日、数々の伝説を生んだ京大西部講堂が日本のパンクの聖地となった。ブッキングされたバンドは、グンジョーガクレヨン、突然段ボール、ダテテンリュー、X、super milk、不正療法、NO COMENTS、Club Chinese、CARAVAN、そしてFriction。
CARAVANはレゲエとフリージャズ、サンタナっぽいラテンロックのミクスチャーのようなバンドで、このメンツの中では、異彩を放っていた。他のバンドはすべてパンクバンドで、超アウエーな環境だったはずだが、この日のオーディエンスは、問題なく受け入れていた。少しグレイトフルデッドを思わせる瞬間があって、あのままジャムバンドとして続いていたら面白かっただろうなと思うが、このバンドが、その後、どうなったかは不明だ。ちなみにイギリスには同名のプログレッシブロックを演るバンドがいた。日本にも同名のシンガーソングライターがいるが、ああいうチル系の音楽ではなかったことを記しておく。オーガニックではあったが、どこか不穏な空気もまとっていた。
突然段ボールは、まだコンサート経験が浅かったのか緊張の色を隠せなかったが、面白いバンドに化けそうだった。パンクと言うよりポストパンクバンドを意識していたと思う。蔦木栄一と俊二の兄弟を中心に組まれたバンドで、ボーカルの栄一はパンクバンドには珍しく、ドラムをたたきながら歌うというスタイルだった。その後、イカ天に出演したりもしたが、2003年にボーカルの蔦木栄一が肝硬変で死去、現在は弟の俊二を中心に活動を続けている。
グンジョーガクレヨンは、その尋常ではないネーミングセンスからも伺えるように、すべてにおいて規格外のバンドだった。ボーカルの園田遊は前衛舞踏出身ということもあり、一目見たら忘れられない強烈な個性を放っていて、ステージでは見る者を強引に異空間に連れて行く。幼い頃に縁日の見世物小屋で見た蛇女のような、原初的恐怖を抱かせるバンドだった。最近、サブスクも解禁し、簡単に聞けるようになったので、一度は聞いてみて欲しいが、残念ながら録音された音源からはライブの魅力の10分の1も伝わってこない。公式ホームページは、まだ生きているので奇跡的にライブが実施されたら参加したいと思っている。ちなみに現在のグンジョーガクレヨンは、完全に即興演奏による音楽ユニットになっており、よりフリージャズ色を強めている。voの園田とキーボードの大森が抜け、新たにホーンセクションの中尾が入り、4人組となっている。
不正療法の演奏が終わり、70年代が終わりを告げた。西部講堂は、何か新しいことが始まるんだという空気が充満し、オーディエンスの期待感はこれ以上膨らませると爆発するくらいに高まっていた。
FRIION ファーストアルバム「軋轢」のジャケ写
出番が終わったバンドマンたちも含め、その場に集った全員がFrictionの登場を固唾をのんで待つ中、レックのベースが、会場の空気を切り裂くように鳴り響いた。その刹那、西部講堂を流れる時間の質量と空気の密度が変わった。過去と未来につながる扉が強引にこじ開けられ、時空がねじ曲がった。
チコヒゲのドラムは原始の記憶を呼び起こす呪術的なグルーブを生み出していた。恒松正敏のギターは、空気中に電流を放出するかのようなメタリックな音触で、発明としかいいようがないものだった。
でも、ボクにとってのFrictionはレックのベースだ。
火傷しそうに熱いけれど、まったく汗を感じさせない、聴く者の体温を奪っていくビート。絶対零度の音塊が耳を突きぬけ、脳髄に直接作用する純度100%のドラッグ。
真冬の西部講堂は、超満員のパンクスたちの熱気で噎せ返るようだったが、フリクションの演奏が始まると、全身の毛穴が開いて、身体の中にレックのベースから放たれた音の粒が浸透してくる。星一つ無い漆黒の宇宙空間に放り出されたような孤独感に襲われたかと思うと、その直後眩いばかりの光に包まれ、歓喜の波が押し寄せてくる。ブラックホールから力づくで太陽のもとに引っ張ってこられたような、そんな強烈な体験だった。
時間にすれば40分ほどの短いギグだったが、その時に感じた全能感と恐ろしいほどの孤独の炎は今でも消えていない。
それから6年後、博多の中州にあるストリップ劇場をそのまま使ったライブハウスで、Frictionのライブを体験したが、そこには恒松正敏も、チコヒゲもいなかった。そしてレックのベースも魔法の力を失っていた。演奏は上手くなっていたし、曲としての完成度も高くなってはいたが、奇跡のような瞬間は二度と訪れはしなかった。
今日を生きのびるための10曲(4)
1.INU / メシ食うな
2.Friction / Crazy Dream
3.アーントサリー / Sameta Kajiba De
4.グンジョーガクレヨン/Waltz
5.突然段ボール/カラーアクティビティ
6.Anarchy / Not Satisfied
7リザード / ロボットラブ
8.EP-4 /Coco
9.SS /Mr.Twist
10連続射殺魔/朝焼けにシビレテ眠れ
今回のプレイリストに取り上げたアーティストたちは、You Tubeに公式チャンネルをもたないためリンクを張っていない。サブスクで聴くか、You Tubeで検索して観てほしい。
INUの動画は、いくつか上がっていたが、特におススメしたいのは、伝説の関西学院大学中央芝生でのライブ。残念ながら音声だけであるが、とても貴重な音源なので、ぜひ聴いて欲しい。サウンドボードではなく、カセットレコーダーで録音したものだろう、音は悪いが、当時の雰囲気がそのまま真空パックされている。80年当時の町田町蔵がいかにヤバかったかが良く分かる。この音源はブートレッグで発売された。
記憶は定かではないが、多分この日は、別会場でリザードもライブを行っていたはず。町蔵とリザードのモモヨの間で何があったのかは知らないが、当時、いつもリザードのことをこけおろしていた。この日も、いつものようにリザードに悪態をついていたら、会場にいたリザードファンが野次を飛ばし、町蔵がそれにキレて喧嘩になった。ステージにあがってきた客をマイクスタンドで殴ろうとしたが、マイクが客にぶつからないようにコントロールしていたので、町蔵は以外に冷静で、パフォーマンスとして喧嘩を演出していたのだろう。後でそう思ったが、その時は警察が出動するほどの騒ぎになった。それでもステージは続行。最後まで異常な緊張感を保ったまま、30分ほどでステージは終わった。
夜風がほてった身体を冷ましてくれて気持ちよかったこと、空を見上げたらどす黒くて気味の悪い月が浮かんでいたことを、ハッキリと覚えている。
Frictionの動画はいくつもアップされているが、どれも普通のロックにしか聞こえない。記憶の中のFrictionが美化されてしまったのか、それともLECのベースは大音量で鳴らさないと生きてこないのか、家のオーディオシステムでは、あの日の音像をまったく再現できなかった。彼らの音はCDやストリーミングの枠に閉じ込めることができないのかもしれない。
EP―4は松岡校長ともなじみの深いバンドであり、実質佐藤薫のソロユニットだった。自身のレーベルや出版社であるペヨトル工房から音源を発表していた。
1983年5月21日はEP-4のレコードデビューの日だったが、EP-4 5・21とだけ書かれた6万枚のステッカーが京都中のあらゆるところに貼られた。テロ予告か政治集会かと誤解され話題を集めた。
アルバムの方は「昭和崩御」というタイトルがレコ倫に問題視され発売延期となった。その後、ジャケットが予備校生金属バット両親殺人事件が起きた家の写真に差し替えられ、タイトルも『リンガ・フランカ-1 昭和大赦』と改変されて発売された。この写真は藤原新也の写真集におさめられたものである。後に再発された時は、ジャケットはオリジナルの軍鶏の写真に戻り、タイトルも昭和崩御が使われた。
EP-4は音楽的なことより、マーケティング手法の斬新さが取りざたされることの方が多かったが、インダストリアルノイズという新しい分野を切り開いた画期的なユニットだった。ノイバウテンやミニストリーとほぼ同時期のデビューであり、インダストリアルメタルとノイズミュージックにエレクトリカルダンスミュージックの要素も備えていた。
LINGUA FRANCA-x 昭和崩御のジャケ写
2012年5月21日に再結成された時には、佐藤薫と松岡校長の対談が実現したと思う。ボクの記憶によると、2013年6月にもラジオの番組で松岡校長、佐藤薫、原田大三郎という豪華メンバーでの対談が行われた。また、2014年4月11日には新宿ロフトプラスワンで、実験的音楽集団タコのリーダーであった山崎晴美がホストになって、松岡校長、いとうせいこう、佐藤薫との対談が行われている。
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編集的先達:笠井叡。Don't stop dance! 進めなくてもその場でステップは踏める。自らの言葉通り、[離]の火元を第一季から担い続け、親指フラッシュな即応指南やZEST溢れる言霊で多くの学衆を焚き付けてきた。松岡校長から閃恋五院方師を拝命。
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