松岡正剛 傘寿祝い「セイゴオ部品あり〼。」倶楽部撮家

2024/01/25(木)08:00
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 リカちゃん人形よりもその小さな靴に愛着を感じたり、消しゴムの削りカスをずっといじっていたり、牛乳瓶の蓋だけ集めたり、そんなことをしていた幼い記憶はないだろうか。「部分は全体を凌駕する」とは松岡正剛の言葉。少年は一本の車輪スポークで自転車の全体を知る。マレーネ・ディートリッヒの細い眉、藤田嗣治のおかっぱ頭、ジェームズ・ディーンの咥えタバコ。その人を象徴するものも、いつだって部分に集約されているのであった。

 

 2024年1月25日に傘寿80歳を迎える校長松岡正剛を祝い、倶楽部撮家で「松岡正剛を構成する部分、部品、要素を撮影せよ」というお題を掲げてカメラを抱えた。部分から校長松岡を考え、解体してみようという試みである。今秋、倶楽部撮家の新メンバーとなった小野泰秀を加えて、メンバーそれぞれ想いをこめてシャッターを切る。参考にしたのは『雑品屋セイゴオ』「千夜千冊」などなど。「セイゴオ部品あり〼。」と題して、倶楽部撮家presents傘寿祝いをお贈りする。

 

お題

「これが松岡正剛をつくってきた」と思う「もの」を選び、校長松岡を構成していると考える《部分・部品・要素》を撮影せよ。

 

 

《ハーモニカ》
それは空との呼吸を継承しているという。いつのまにか口とそれの区別がなくなって。それの金属の味を伝えてやるべきだとも。『比叡おろし』から金属的酸味まで、イヌイットも『焼跡のイエス』もポール・クローデルも響かせて。セイゴオはきいたこともない和音で万物照応へいざなう。そんなふうにきかせてくれる先生はほかにいない。一人で夕方に吹く哀愁もあるが「鉱物に舌をつけるエロティシズム」をなんて。
木藤良沢
木藤良沢

 

 

《銀紙と板チョコの同時音》
「褐色と銀紙」。2つの関係を同時に感じる様子が縁起思想の根本であり、編集稽古であり、松岡校長らしさだと思い、撮影した。繊細でフラジャイルな銀紙と、その中にある「薄板界のおつり」で、松岡校長の今と終電の待つあの頃とが同時に存在するように、準金属的な音と乾ききったポキン、の同時音と割る快感が写るよう、-4℃の駅のホームでたくさんの板チョコを割った。
宮坂由香
宮坂由香

 

 

《鉛筆》
フェチの黄色い函を開けば、そこに転がる一本の鉛筆。手削りのずんぐりした短躯形に、母の削り癖が重なる。もしくは、千夜の森から手繰り寄せれば、ちびた鉛筆で宿題をする傍らにある母の面影。手の記憶は母の存在を呼び起こす。鉛筆は六角形である。六角形は記憶の原形である。ゆえに、鉛筆は記憶の原形なのである。
西村慧
西村慧

 

 

《着物(六條ゆきやま紬)》
「ぼくの家は呉服屋だった」という言葉に出会うたび、校長の思い出の中に招き入れていただいたような気持ちになる。しんと澄んだ空気、廊下の滑らかな光、足袋の擦れる音、暖簾のゆらぎ。寒い冬の京都で小さな命をかわるがわる抱いたたくさんの着物のことを想像してみる。こんな一枚もあっただろうか。母の着物箪笥から見つけた冬の紬、赤ちゃんだった校長に捧げます。お誕生日おめでとうございます。
牛山惠子(1月25日生)
牛山惠子(1月25日生)

 

 

《本楼の床》
いつぞやの感門之盟で校長が語った「人」へのおもいがたびたび頭をよぎる―世界観も大事なんだけれどぼくは人中心。”そこ”に触れようとしている「人」を大事にしたい―本楼の床は躓いたり転んだり跳び上がったりスキップしたり、いろんな足どりを受け止めながらイシスの人たちの”そこ”への踏み出しを後押ししてきた。傷だらけの床を見るとそこにいない人が見える。物語が見える。傷を負って未生の模様をうむ床を、私はセイゴーストと呼びたいです。
福井千裕
福井千裕

 

 

《活字》
松岡正剛は言葉の人である。常に言葉が溢れている。その言葉はこれまでの本たちとの交際から生まれてくるものだと言えるだろう。「書物といえるものを読んだ記念すべき第1弾だった」本は『ノンちゃん雲に乗る』だという。セイゴオ少年の読書体験をトレースすべく『ノンちゃん』の冒頭文をトレーシングペーパーに印字して、活字をライティング(照明)し、読書時の視線を再現することに挑戦した。撮影しながら、石井桃子のですます調は交際相手の一人目としてとても上品で瑞々しかっただろうと思った。
後藤由加里
後藤由加里

 

 

《ベンチ》
かつて駅の待合室のベンチを好んだ、青年・松岡正剛が80歳になって腰かけるなら夜の日比谷公園のベンチがお似合いだ。冬の寒さと暗闇は寝床にするには心地悪いが、静寂は頭の中の筆を縦横無尽に走らせそうだ。2024年1月4日、日比谷図書文化館で開催された「現代書を語る」シンポジウム終了後、松岡の座る姿を思い浮かべながら撮影した。
林朝恵
林朝恵

 

 

《漂流物(野球ボール)》
松岡正剛と言えば月が想起されるのは玄月という俳号のせいか。それとも月にまつわる著書のせいか。イシスも月の女神だ。とはいえ、まんま月を撮るのではおもしろくない。昔、海で拾った野球ボールを店奥から引っ張り出す。長い年月を海の上で漂流し続け、乾燥してひび割れた肌理。大福餅が乾燥したような得体の知れない風情を醸している。地球から約38万km離れた月を想う。漂流物の野球ボールを月に見立てて校長の80歳の傘寿を祝う。
小野泰秀
小野泰秀


 松岡正剛といえば、煙草、Vコーン、丸眼鏡など身の回りにある「もの」も想起されるが、ここに揃ったのは意外なものも多く、並べてみると校長のいまとむかしを行き来するような景色になった。どこかノスタルジックな漂いを感じるのは『雑品屋セイゴオ』を引いたせいか。いや、そうとも限らない。松岡自身がいつもどこかに懐かしさや切なさを抱えていて、解体しようと思うとそこに触れざるを得ないからかもしれない。

 

「傘寿祝い セイゴオ部品あり〼。」はイシス編集学校インスタグラム(@isis_editschool)でも同時展開中。

 

  • 後藤由加里

    編集的先達:石内都
    NARASIA、DONDENといったプロジェクト、イシスでは師範に感門司会と多岐に渡って活躍する編集プレイヤー。フレディー・マーキュリーを愛し、編集学校のグレタ・ガルボを目指す。倶楽部撮家として、ISIS編集学校Instagram(@isis_editschool)更新中!

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。