【ISIS短編小説】一瞬の皹・日々の一旬 読み切り第二回 新宿の潮風

2020/01/23(木)11:06
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深夜の靖国通りを屈託なく飛ばすタクシーが、三丁目の闇にすべり込んだ。

人気のない通りに降りた男は猫背だった。男の視界は、アスファルトの灰色で占められていたが、10メートルほど先で、ぼんやりとした色彩がうごめいていた。男は背を伸ばし、ビルの上にある光源をたずねた。

視界の先には、人魚たちが躍る大型ビジョンがあった。画面下から泡が湧き、人魚たちが手を振って泳ぎ去ると、「3月、新宿に潮風が吹く」という金ピカのテロップが浮かんだ。新装開店するパチンコ屋を、海をモチーフにしたパチンコ台に託けて宣伝しているらしい。3月、新宿、潮風と揃ったことで、男の中の後ろめたさがフィーバーした。人魚たちに秘匿を勘づかれたようで、居た堪れなかった。男は再び背をまるめ、早足に色彩を踏み越えた。

通りのどまんなかで、盛った茶トラとキジトラがマーオマーオと威嚇しあっていたが、男の姿に驚いて二匹は散った。男はいつものように、ワインレッドの店舗用テントがアスファルトに落とす暗がりを見つけると、さらに歩速をあげた。目的のワインバーに看板はなく、テントに描かれたブドウのシルエットが目印だった。路地裏に逃げた二匹のどちらかが、男の背後から恨めしい声をあげていたが、男は無視した。

 

男が深夜のワインバーに赴くのは、キョウコという女の気配を味わうためである。

 

デザイナーのキョウコは、西新宿の広告代理店で男と同期だった。男が営業としてクライアントにデザインの提案をする際、担当デザイナーのぶっきらぼうな説明を分かるように翻訳してくれと泣きつく先は、何かと訊きやすい同期のキョウコ以外にいなかった。キョウコは酔うと、たいてい郷里の海の話をした。小さいころ、リトル・マーメイドのアリエル姫を何度も描き写しているうちに絵心がついて、デザイナーになれたんだと聞かされたが、男は半信半疑のまま、アルコールの回った頭で、人魚になったキョウコが海を泳ぐ姿を想像した。しかし、男との結婚を意識し始めたキョウコが、その報告がてら、久しぶりに郷里に帰った9年前の3月、自身が愛した郷里の海にさらわれた。

キョウコを失った日から、その日その日の寂しさが積み重なり、凝り固まって、男の背中に食い込んでいった。いつしか男は猫背になり、代理店を辞めた。深夜でもグラスでスパークリングワインが飲めるという理由でキョウコと通った三丁目のバーに、男は独りで入り浸るようになった。海とひとつになったキョウコの気配が醸し出されるまでグラスを空け、牡蠣を頬張った。磯の香りが口腔内に満ちるたび、本当の自分はとっくに海に溶けてキョウコと交じり合い、その残渣がこうして人の姿をして、新宿でワインを飲んでいるのではないかという気さえしていた。

 

闇を吸って重くなった木製の扉を開け、客のいない店内に男が入る。グラスを磨いていたソムリエは男の顔を見るや、シャンパングラスを2脚、赤いカウンターテーブルに並べる。男は左側のグラスの前に座り、ソムリエは氷の入ったクーラーからクレマン・ド・ブルゴーニュを引き出し、ミツバチのレリーフが施されたナイフでキャップシールを裂く。ナプキンでコルクを覆い、ボトルを傾けて泡たちをゆっくり解放し、栓を抜く。右側のグラスに黄色い液体が注がれ、続いて男のグラスが満たされる。暗いボトルの中で拘束されてきた泡たちは、急に明るい世界へと移され、歓喜しているのかもしれなかった。しかし、明るいとはいえ黄色い液体の檻に閉じ込められていることに変わりはなく、それは海のように堅牢なのかもしれなかった。

二杯目を飲み干した男の耳に届いたのは、三丁目の狭い路地の方々でぶつかりながらも、したたかに吹き抜けんとする風たちの唸りだった。風たちが通りに突き出たテントの裾をバタバタと叩くたび、扉もまたガタガタと音をたてた。

「春一番ですかね」とソムリエは低い声で言い、男は右側にある、飲み干されることのないグラスに視線を落とした。3月を何度経験しても、キョウコのグラスが空になることはないという思いが、男の背中で疼いた。

一瞬、扉がガタリと大きく響いて僅かに開き、風たちが隙間から一気に押し入った。重みを感じさせない速さで扉は開き、男は、扉の軋みに驚く女の姿を視界の端に認めた。風たちはキョウコのグラスを戦慄かせ、泡たちが勢を得て液面にひしめき、咄嗟に男は自身の空のグラスではなく、キョウコのグラスに両手を添えた。漸く泡立ちが鎮まったころ、黄色い液面に映りこむ、今にも溶けてしまいそうに揺蕩う女の身体を認め、なぜか男は、キョウコが来たと感じた。

男は扉のほうへ向き直った。視線は、女の腹のあたりから胸や鎖骨へと登り、顔に至った。顔色が悪く、疲れているようだ。風のせいで髪が乱れている。キョウコとは骨格は違うが、眼や唇の形は似ている。でもキョウコであるはずがない。この黄色いワインのように現実を歪め、キョウコでない女をキョウコに仕立てようとしているにすぎない。男は、ひとごとのような文句を頭の中に並べたてはしたが、反して男の口からは、「キョウコ」という言葉が二度、三度とこぼれた。

女は手櫛で髪を繕いながら、「こんな時間ですけど、どうしても泡が飲みたくて」と話した。男は、泡が飲みたいという言葉にハッとして、キョウコのグラスから両手を離した。その女も常連客であるらしく、ソムリエの接客は男に対してのものと同じようにナチュラルで、席に座れば馴染みの酒が黙って出てきそうな雰囲気があった。

女はキョウコのグラスに目を留め、「お邪魔してすみません」と小さな声を漏らし、男の隣を避けて端の席に座ろうとした。「いや、ここは」と男は言いかけ、女は中腰のまま白い顔を男に向けた。稍々あって、「ここは空いてますから、いっしょにどうですか」と男は不器用に言葉をつなぎ、キョウコのグラスをソムリエに差し戻すと、「新しいのを」と告げた。

女は、男の隣に身体を寄せ、「ありがとうございます、でも勿体ないし、せっかくだから、それをいただきます」と、グラスの華奢な脚に添えられた男の手を、自らの手で包み込んだ。

「どなたかの代わりにいただくことになるのかしら」とつぶやく女の表情はどことなく乾いており、男は、制しきれない自分に戸惑っていた。女が持ち直したグラスに、男は空になったグラスを軽く当てる。グラスたちは甲高く鳴いた。女の唇が透明な縁に触れ、グラスが傾く。黄色い液体に角度が生まれ、隠れていた泡たちがどっと湧き、唇に殺到する。グラスから離れた女の唇から、声とも息ともつかぬものがこぼれた。

男は、ようやく紅い笑みが咲き始めた女の横顔を見つめた。キョウコとよく飲んだバーで、二度と空になるはずがないと思っていたキョウコのグラスが空いていく。記憶にあるキョウコの嗜好や仕草が再現され、キョウコと女の境界が泡沫となって消えていく。この人も、キョウコと同じく、こちらではない世界に囚われているのではないか。それとも、海に囚われていたキョウコが帰ってきてくれたのだろうか。ならば完全に、こちらに留めておきたいという欲望が、男の中で止めどなく発泡しはじめた。

「この泡に合う牡蠣がいいわ」と微笑む女の言葉に、ソムリエは、大振りの牡蠣を掌にのせて差し出した。女は、殻の縁を指の腹でなぞりながら、「ぴっちり閉まって、頑なね」と嘆息した。「殻の端を割ってしまえば簡単なのですが」とソムリエは顎をしゃくり、膨らんだ殻を下にして牡蠣をタオルの上に置き、蝶番を左手で押さえ、右手に握ったナイフを縁の凹みに突き刺し、刃を上殻に当てて1回、さらに肉の下に刃を潜り込ませて1回、手前に掻いた。「もう貝柱は切れました」とソムリエが言い終わる間もなく上殻は力なく剥がれ、小刻みに震える白い肉が顕わとなった。

「あんなに頑なだったのに」と女は笑みを強め、男の耳元に唇を寄せ「次のワイン、どうします」とささやいた。「あなたの血の足しになりそうな、フルボディがいい」と男は声を上擦らせた。女の頬に灯り始めた僅かばかりの紅を、男は絶やしたくはなかった。男の中の発泡は、栓を押し上げ、今にも吹き出そうとしていた。

「赤ワインと牡蠣じゃケンカしないかしら。シャブリが無難じゃないの」と女は不安げに瞬きをした。男は女の目を見据え、「ボルドーならいけるよ」と応えた。

男の思惑通り、ソムリエは、足許の格子状のセラーからシャトーと書かれたボトルを引き抜いた。コルク栓代わりのアンチ・オックスを取り、小さいグラスに少量を移して色を確かめ、試飲をした。小さく頷くと、ボウルの丸みが少ないグラスを二人の前に並べ、淀みのない動作で注いでいく。

「シャトー・ソシアンド・マレです」と、ソムリエは男を見ながら短く言った。「いつもご愛飲いただいているボルドーは、こちらのセカンドラベルであるラ・ドモワセル・ド・ソシアンド・マレですが、今日はたまたまこちらが空いていますので」

「ああ、あのエチケットにトンボが飛んでいるやつね。あれ、セカンドラベルだったの。

今日はラッキーだね」と男は初めて笑った。

女はグラスを手に取ると、鼻先をボウルの中に入れた。「キイチゴと土の香り、そしてカシスと樽の香り」という女の声は、ボルドー産の血液のゆりかごとなったボウルによって奇妙に反響し、まるで二人の女が同じことを喋っているかのように聞こえた。

「そのまま飲んでごらん」と、男は静かな口調で促した。

鼻先がボウルの空間から離れ、そのままグラスの下の縁が唇に密着する。角度をもったボルドー産の血液がゆっくりと吸い取られ、「ああ」と眼前で呼吸をする女の口端から、一条の紅が滴るのを、男は見逃さなかった。男はフォークを手に取り、殻を奪われた無垢な牡蠣の肉に刃を突き立て、口に運んだ。白い肉の薄膜は、男の不遜な咀嚼により破け、散り散りとなった。

その刹那、容赦のない力で扉が限界まで開け放たれた。壁に叩きつけられた扉はうめき、風たちは男の鼻腔と口腔に闖入し、磯の残香を激しく攪拌した。男は新宿にいることを忘却し、今まさに潮風に吹かれていると感じていた。

 

~型に拠れば~

 

注意のカーソルが、本楼にある格子状のセラーを捉えた。要素は、赤いカウンターテーブル、白ワイン、赤ワイン、さらに日本酒。大量の本というにワインという図。このような地と図のねじれは、物語の良質なトリガーとしての機能を果たすことがある。例えば、寒村というに黒人兵というであれば、大江健三郎の『飼育』といった具合だ。また、このねじれは、ワインバーで生牡蠣を食した帰り、息をすると潮風のように感じた記憶を思い出させるという機能を果たした。注意のカーソルを、過去の記憶に向ける。たしか場所は新宿三丁目、要素として突風があった。ここで、「新宿というに潮風という」といった新しいねじれが立ち上がり、これをトリガーとした。

主人公の機能は、新宿のワインバーに通うこととした。その理由づけは、不足する重要な要素を補うためとしよう。主人公は、フィアンセとの生活という原郷に在ったが、何らかの事態によりフィアンセを喪失し、原郷からの旅立ちを余儀なくされる。すなわち、重要な不足要素とはフィアンセである。孤独という困難と遭遇した主人公は、フィアンセとの記憶を再認するという仮の目的を立て、新宿のワインバーで葛藤(自己のなかでの闘争)を繰り返している。しかし、ここにフィアンセと似た人間Aが登場し、主人公は「Aをフィアンセの代替とする」という新しい目的を察知し、ワインバーでAを獲得するための闘争を展開する。最終的に、主人公は何らかの形でフィアンセへの帰還を果たすことになるが、それをAの獲得で代替するかどうかについては、いったん保留した。

フィアンセには、主人公と同じ会社の社員という属性、郷里の海への愛情といった要素を与えた。この属性は、主人公との共通認識を育み、婚約に至るという機能と連動する。また、郷里の海への愛情は「潮風」に関連する。これにより、フィアンセを喪失する何らかの事態は、海の災害となった。主人公は、フィアンセが海に囚われているという観念を要素として有し、これはフィアンセの消滅を信じないという機能と連動している。このことから、主人公の帰還は、フィアンセの代替であるAの獲得ではなく、新宿で潮風に吹かれ海(フィアンセ)を感じることとした。

さらに、主人公の感情の要素として孤独感、未練、感情の高まりなどを抽出し、孤独感を「寂しさが背中に食い込む」という比喩で強調し、これを状況と見た場合の予測付けとして、「猫背」という新しい要素を主人公に与えた。未練は発情したネコの恨めしい鳴き声で、感情の高まりはスパークリングワインの要素である泡で喩えることにした。また、この泡に仮託して、海に囚われたフィアンセを想う機能(泡をフィアンセに喩える)を主人公に付与し、その未練をさらに強調した。

フィアンセの代替となるAには、必然的にフィアンセと共通する容姿を要素として与えなければならない。また、Aにも主人公にも特定の名前を与えず、フィアンセにのみ「キョウコ(境子)」という名を与えることで、死せる生者・生きる死者という対立型の分岐を設置した。これにより、死せる生者たちをとして、死せるキョウコの生がとして立ち上がるという好ましいねじれが生じた。Aには、死せる生者としての要素として青白き顔を与え、その血色の悪さを改善する機能を、血液の比喩となる赤ワインに付与した。

新宿に潮風が吹くことの伏線を張るため、新宿にある海というフィルターで、海をモチーフにしたパチンコ台や海鮮居酒屋を抽出。“新宿に潮風が吹く”というパチンコ屋のコピーを伏線として冒頭に登場させることとした。また、主人公に潮風を感じさせる重要なツールとして、過去の記憶から生牡蠣を抽出し、物語全体の “らしさ”としての艶やかさを強調するために、生牡蠣の殻を剥くシーンを追記した。

 


  • 宮前鉄也

    編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。