【ISIS短編小説】一瞬の皹・日々の一旬 読み切り第九回 験(しるし)

2021/07/22(木)09:18
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13日前

 消灯まで時間があるので、私の眼球は、病室の天井に屯するトラバーチン模様を見つめている。十秒も凝視すると、トラバーチンたちは葉に糸を張る毛虫のようにもがき始め、まもなく腰を落として構える小人の群れとなる。痛みで身体のやり場がない時は、活きのよさそうな一体めがけて突発痛をサーブパス、トラバーチンがレシーブ、また打ち返して、緩慢なバレーボールを始める。ちょっとでも痛みを体に留めておきたくない、とりあえず今打ち返せば少し休める、そう言い聞かせてラリーを続けた。そういう嘘でも立ち上げておかないと、瞬々刻々の痛みに頭のパレットが塗りつぶされてしまうからだ。

息を吐こうと大袈裟に力んでみても、歯の隙間からフシュッと漏れるだけでほとんど吐けない。気道にフォークが入っているようで煩わしいのだが、首を数センチ傾けるだけで視界に電流が走る。小刻みに震える一体がしびれをきらして、ゆるいサーブパスを放ってきた。「これを受けたら、ラリーが長くなりそうだな」と愚痴をこぼしたつもりだったが、吐息が少なすぎて、こぼれきらない愚痴が口腔内に漂っていた。

一年前に直腸にいた大親分を排斥したのだが、逃げのびた子分らが肝臓やら頸椎やらに分家をつくり、地元の細胞たちと抗争を繰り広げ、とうとう収拾がつかなくなったということで、緩和ケア病棟に移されたのだった。このドンパチ具合だと、パスにアウェイがつくのは間もなくかもしれない。だが、今日一日は痛みのいいようにされなかった。吸い飲みの傍らに、オピオイドの内用液が未開封で転がっているのを見て、今更のようにそう思った。

自動リクライニングのボタンを押し、関節が泣き叫ぶの歯を噛みしめて耐え、上体を起こす。ベッドテーブルの上では、スリープ状態のノートパソコンが電源ランプを点滅させている。マウスに添えられた指は鶏脚のように細く強ばり、クリックをしたつもりが反応しないこともあったが、今回はクリック一回でパソコンは昏睡から目覚め、ディスクがカリカリと鳴いてディスプレイを輝かせた。

この柔軟性を欠いた指では、百文字をキーボード入力するのに二時間かかる。かといってタブレット端末でも脂が抜けきった指先を認識しないことが多く、今は専ら音声入力に頼っている。しかし今以上に息が出しにくくなれば、それも危ういと感じていた。

マウスに添えられた指に体重を預け、上半身でマウスを動かし、カーソルをFacebookのアイコンに近づける。ダブルクリックを一回、二回、反応がない。三回目でしぶしぶ起動する。

左手でマイクを捉え、口のそばへ運ぶ。左手はマジックハンドのようで、指をまとめて動かすような大雑把な動きしかできない。しかしこの機械的なまどろっこしさは、むしろ化学者である私の気分をアップグレードしてくれる。今までは身体のパーツが完璧に連動していたから気付かなかっただけで、このまどろっこしさのお陰で、人間はタンパク質や脂肪でできたパーツの寄せ集めなのだと確信できる。やっぱり人間は機械なのだ。意識は頭蓋に収納された柔らかいCPUの機能にすぎない。全身の痛みもただのエラーサインで、ブルースクリーンになって毎度毎度ビープ音を鳴らしているようなものだ。故障すれば意識とともにキレイさっぱり消える。しかし、どうせなら最期に、魂は永遠などと本気で信じている奴らの目を覚ましてやれないものかと吠える自分がいるのだ。

右手に上体を押し付け、カーソルを「Facebookを検索」に運び、か細い息でニコラウとつぶやく。上から三番目にJ. C. Nicolaouという見知ったスペルが現れた瞬間は、頸の痛みもトラバーチンのことも吹き飛んだ。スペルの左側で笑うアイコンは、あのニックの顔に相違なかった。恐らくJACS(米国化学会誌)のレビューに掲載した写真を流用したのであろう。私がニックと呼んでいたポスドク時代に比べれば相当に老けており、髪も薄くなっていたが、その目力はGatz教授のもとで貝毒を追っていた頃と変わっていない。

なぜ私はJ. C. Nicolaouを検索したのだろうか。機械同士の接続願望を愛と言い換える連中を冷笑し、意識は不滅と噓をつく宗教に唾を吐きかけ、妻子を持たず、友人とのつながりを断ってきた私が、なぜ今更になって臨終を見届けて欲しい相手を探しているのか、自分でもよく分からなかった。しかしそれは、孤独に耐えられなくなったからではない。無に帰する恐怖に音を上げたからでもない。それだけは確かなことだった。

  1. C. Nicolaouのページを開き、カーソルをサイドバーに合わせてクリックしたまま、上体を引くのに合わせてマウスを押し下げると、天使のイラストに囲まれた写真が、気怠そうにせりあがってきた。老いたレイコとニックだった。アイコンの写真よりもさらに皺の多いニックが、レイコに頬を寄せていた。

 

レイコ、君から与えられる悦びなしに、どうやって生きていけばいいのだろう。君に置いていかれて、救いのない底なし沼にはまる僕の耳には、もう讃美歌は届かない。僕が君のものであるように、いつまでも、天国でもぼくのものであり続けておくれ。

きみのニック

                        

 

添えられたコメントに舌打ちすると、鎖骨から尾骶骨にかけて電流が走った。私に舌打ちさせたこの感情は、化学者ならば真っ向から否定すべき虚構から電源を取っているニックへの怒りだと自分では理解していた。しかし、痛みを忘れてマイクに叩きつけた私の言葉には、それだけではないニュアンスがあった。明朝フォントに変換された私の言葉には、性懲りもなくレイコが登場している。この期に及んで、レイコに拘る機能がアンインストールされていない自分に驚きもしたが、どこかで分かっていたような気もしていた。

 

先立たれた妻に未練たらたらのニック、久しぶりだな。残念ながら今の私は、君の知っている私とは大きく変わってしまった。もうポンコツだ。でもそれは君も同じことだろう。私の知っている君は、<人間は炭素製の機械だ>と言って憚らない生粋の唯物論者だった。墓なんぞ無意味だ。霊魂なんぞ存在しない。霊魂なんてものは脳神経の電位差がもたらす連続的認知機能に過ぎないと、リヴァー・サイド・パークのグラント将軍マニアたちに食ってかかってたじゃないか?英雄の魂は永遠などと嘯く奴らに騙されるなってね。私からレイコを奪ったお前は、私以上の唯物論者でなければいけない。そんな君が、妻恋しさに神様に縋りつくなんて!モーゼが海を割って以来の珍事だよ。

本題に戻そう。私という機械は直に起動しなくなる。でも、だからこそできる実験がある。そう、ラヴォアジエだよ。これだけ言えば、君にはわかるはずだ。もし君が、未だに私と同じ化学者、いや唯物論者であるというのなら、私の最後の実験を手伝ってほしい。もう時間がないんだ。場所は、日本の埼玉だ。病院のリンクを貼っておく。何もエルサレムまで一緒に巡礼しようと言ってるんじゃない。勿論、ちゃんと埋め合わせはする。金なんて、もうどうでもいいからね。いや、何より、レイコの魂とやらが存在する可能性を探る機会になるんじゃないのか。それとも、君を慰める神話を私に破壊されるのが怖いのかい?

 

ほどなくして、直下にニックからのレスが現れた。

 

お前と俺は鏡像異性体みたいなものだ。いくら強がったって、お前の性根は手に取るようにわかる。お前は結局、レイコへの未練というペインを和らげるために、唯物論というモルヒネを過剰摂取しつづけてきただけなんだ。レイコへの愛を脳のノイズだと言い聞かせることで、耐えてきた。お前は自分に執着がないから、消えることなどなんとも思っていないだろうが、レイコへの愛をごまかすことに耐えられなくなったんだろう。

もしかして、俺のコメントでレイコの死を直視して興奮しているんじゃないのか。もし意識が残るのなら、レイコも消えてはいない。だから俺より先にレイコに会えることになる。たとえ消えるとしても、お前は俺よりもレイコに近しい存在になる。どちらに転んでも負けはない。それを俺に見せつけてやろうと浮足立ってるんじゃないのか。だが、今回だけはお前の挑発にまんまと乗ってやる。仕事を片付けて一週間ほどで行ってやるから、それまで絶対にショートするんじゃないぞ、いいな!            

 

私はコメントを頭の中で、若いニックの声で読み上げた。レイコをめぐって口論になり、ニックがぶちまけた酢酸エチルが左手にかかり、ひりひりと焦げた感覚がよみがえった。甘く懐かしい痛みに笑いの芽が膨らみかけたが、現実の痛みに踏みにじられた。笑うと体の電池をごっそり消耗し、こちらに居られる時間が短くなりそうなので、これでよいと思った。とにかくニックさえ来てくれれば、ニックが来るまで私の命が持てば、これ以上ない実験ができる、さてもさても賑やかな臨終になるという予感が、既に滞り始めた血流やリンパの流れに代わって身体を駆け巡っていった。

(つづく)

 

 

~型に拠れば~

 天井のトラバーチン模様を注意のカーソルが捉えた。見立てとして、寝そべる患者のイメージが立ち上がり、そこから病室が連想されたため、天井は病室の要素と定めた。さらに、別の見立てでバレーボール選手(腰を屈めて構える人)のイメージも得られた。主人公の属性をバレーボール選手とし、トラバーチンを相手にバレーの試合をシミュレートするという機能を考えたが、要素としてのボールに注意のカーソルを合わせたとき、痛みをボールに喩える機能に考えが至り、トラバーチンに痛みを押し付けるという状況付けから、病室の属性は緩和ケア病棟、主人公の属性は末期がん患者と定まり、そのままバレーボールのイメージは苦痛を耐えるシーン喩えとして活かすことにした。

 ここで、特徴あるキャラクターと設定するため、主人公は敢えて“生に対する執着”が不足している人間と仮定してみた(IF…Then、不足の発見、ないものフィルター)。その状況付けを「自分・他人を含め人間を炭素製の機械だと認識しており、人間への執着(=愛)はノイズと割り切っている」として、その理由付けとして、「実は愛する死者がいるのだが、その死者への執着をノイズとして忘れたがっている」、さらに見方付けとして「自分の臨終を利用して、死者との再会を果たしたい(愛する死者に近しい世界に入りたい)=現世に魅力がない」という思考が働いているとした。

人間は炭素製の機械だと考える者のプロトタイプとして、唯物論者(有機化学者)を想定し、有機化学者という属性から意味単位のネットワークを拡げ、医薬品→臨床試験→生首に意識があるかを確かめたラヴォアジエに至り、「自らをラヴォアジエに見立て、死後の意識の有無を確かめる臨床試験」というワールドモデルを想定し、さらに臨床試験の「験」が仏教の「験」に通じることから(同じ漢字のフィルター)、タイトルを「験(しるし)」とした。

ここで、主人公の一対として恋敵が必要だと判断し、有機化学者から拡げた意味単位のネットワークから鏡像異性体、ステレオタイプとしてキリアコス・コスタ・ニコラウ氏をピックアップし、主人公の鏡像とも言うべきJ. C. Nicolaouを設定した。彼は主人公と同質の唯物論者であるが、主人公には不足している愛を手に入れている。「死後の意識の有無を確かめる臨床試験」を実施する真の理由付けとして、彼を観察者にすることで、最期に愛を取り戻したことを見せつけたいという主人公の欲望があると考え、J. C. Nicolaouにその本音を喝破させる機能を付与した。主人公の恋愛対象には、現世において存在がゼロ、また霊的な存在であるという言い換えから、零子・霊子→レイコという名称を与えた。


  • 宮前鉄也

    編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。