【ISIS短編小説】一瞬の皹・日々の一旬 読み切り第八回 長屋の黴様②

2020/08/17(月)10:05
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 江戸城本丸表向の東側にある中ノロには詰め部屋があり、諸役人は登城すると、まずこの部屋に入り、衣服を着替え、身なりを整えた。

 白石と忠左衛門を載せた権門駕籠の一行が中ノロ門に差しかかると、奥坊主たちが外で待ち構えていた。中奥で諸侯の接待にあたる奥坊主が門外に出るなど、余程差し迫った状況であることは明白であった。白石は、熱にうなされ「母さま、母さま」と呻く鍋松君の顔を想い、焦りが万力となって白石の胸を締め上げた。

 奥坊主は、小箪笥ほどの薬棚を抱えて駕籠から降りた忠左衛門の、力士のような巨躯に目を見張った。奥坊主はお供から小箪笥ほどもある薬棚を受け取ったが、あまりの重さによろめき、すぐさま忠左衛門が駆け寄って薬棚を脇に抱えた。

「一張羅の黒鴨仕立でござるが」と忠左衛門は背伸びをした。「ところどころ虫食いがあるのう。滅多に着ることがないゆえ、久しく放ったらかしでござった」

「折も折じゃ、気になされますな」と白石は努めて明朗な声で応えた。しかし、その声とは裏腹に、白石の眉間には幾筋もの亀裂が走り、瞳は鬼気を孕んでいた。忠左衛門は白石の表情に気圧され、「御手前の着物をお貸し願いたい、いや、それは無茶でござるか」などと冗談を言いかけたが、そのまま呑み込んだ。

 奥坊主は、白石の詰め部屋に二人を立ち寄らせることなく、未ノ刻だというのに薄暗い一室へと案内した。そこは、間部宮内殿の詰め部屋であった。

 冷気の立ち込める部屋に黙して座し、宮内殿の迎えを待つ白石の脳裏には、先君である家宣公の微笑が、確かな輪郭をもって蘇っていた。

(あの時、家宣公は上段ノ間の床で仰臥したまま、浅い息で何事かを仰っていた。宮内殿がおずおずと顔を寄せ、それが後嗣についてのおたずねであることを聞き取ると、平伏する拙者に伝えた。拙者は顔を上げて一呼吸おき、「謹んで奉り候。鍋松君は御幼稚といえども、秀忠公より連なる御血筋。御位を譲らせ給うことに何の憚ることやあらん。今や御三家も諸大名も悉く御公儀に心服し、幕政盤石なれば、われら近侍のともばらが身命を賭して幼君をお守りいたさば、天下安寧は確たるものと拝察し候」と捲し立てた。すると家宣公は口元を緩ませ、深く頷かれたのだ)

「勘解由殿、遅れてすまない」

 部屋の沈黙に唐突に分け入った声が、白石の夢想を破った。部屋の入口から響いたのは、親しみを込めて白石を勘解由と呼ぶ、聴き慣れた宮内殿の声であった。

「宮内殿、お待ち申しておりました」と白石は平伏し、つられて忠左衛門も額づいた。

「そちらの御方が石田忠左衛門殿か。丁重にお迎えしなければならぬところであるが、事は急を要する。すぐに中奥へ来ていただきたい」

 二人は宮内殿の招きに応じ、廊下へと歩み出た。日輪の御姿は雲に隠れて見えなかったが、その切れ間から漏れる光が廊下を照らしていた。日の光で顕となった宮内殿の顔を見ると、頬肉が削げ落ち、かつての細面の輪郭を取り戻しつつあるようにも感じられた。しかし、猿楽師であった若い時分と違うのは、凛とした生気の有無である。今の宮内殿の肌に艶はなく、日の光で飛び切らぬほどの隈が、目の下に出ていた。

「ご容態は」と白石は、胸のつかえを吐き出すように訊いた。

「御薬が効かず、いまも焼石のように熱を発しておられる。奥医師は、渋江直治」

 宮内殿の口調は淡々としていたが、渋江直治と発した声だけは低く、微かに険を帯びていた。

(老中どもの息のかかった渋江直治では不安でならぬ。毒を盛られても病死で片づけられてしまう。鍋松君がお隠れになれば、後見人の宮内殿は力を失い、吉宗公を担いだ老中どもに踏み潰されよう。無論、拙者もただでは済むまい)

 白石には、宮内殿も同じ心持ではないかと感じる瞬間が幾たびもあった。それほどに二人の立場と見方は似通っており、政治の上では双子と呼べるほどであった。そして、今ほどにそれを確信できる折はないと白石は感じていた。案の定、宮内殿は白石に近づき、「月光院様が枕元に居られぬ間は、四半時とおかず渋江と小姓の動きを具に見ておる。御薬は拙者が毒味をし、月光院様が手ずから幼君の御口に含ませておる」と耳打ちした。

「蜜柑は」と小声で問うと、宮内殿は「すでに西の畑で実っておる」と短く応えた。蜜柑とは吉宗公、西の畑で実るとは、西の丸に入ったという意である。焦りの万力は一段と胸を締め上げ、白石は顔を顰めた。

 宮内殿に導かれ、二人は下段ノ間に進んだ。襖際の陰に坐ると、かつて家宣公がお隠れになった上段ノ間に屏風が見え、その向こうから、女の悲鳴が聞こえた。

「上様、上様、しっかりなさりませ。母はこうしてお守り申しております。ああ、なんとしたこと。昨日よりもどんどん熱くなって、頬が灼けた鉄のよう。ああ権現様、どうか、わたくしの命と引き換えに上様をお救いくだされ。わたくしの命を鍋松に」

上様という尊称も忘れ、鍋松という幼子の母として、だれ憚ることなく咽ぶ月光院の肩を、宮内殿が抱きかかえた。

「月光院様、お気を確かに。新井殿が例のお医者をお連れしましたぞ」

 月光院の顔から、狂乱の気が僅かにひいた。宮内殿を押しのけると下段ノ間に駆け下り、白石の眼前にへたり込んだ。白石は恐懼して畳に額を擦り付けたが、忠左衛門は頭を上げたままであった。

「白石、この御方が特効薬をお持ちなのか」と月光院は尋ねた。

「左様にございます。い、石田殿、上様の御母君の御前なるぞ。お控えなされ」

白石に促され「ご尊顔を拝し恐悦至極」と言いかけた忠左衛門であったが、その武骨な手の甲を月光院は白く柔らかい掌で包み、どうかどうかと擦れ声で縋った。

 忠左衛門は月光院の掌をそっと外すと、腰を引いて平伏し、「お袋様の思いに報いとうござる。全力を尽くし申そう」と語気に力を込めた。「熱は如何ほどでござるか、何日にわたって出ておられる」

「触るのも憚られるほどのお熱が、もう五日は続いていましょうか。ささ、ご遠慮なされますな。どうぞこちらへ」

 何の計略もなく、瞬く間に月光院の信頼を勝ち取った忠左衛門の手腕に畏れ入り、いや、それは二心の無さがそうさせるのかと思いを巡らし、白石はしばし唖然としたが、今は逡巡する段ではない、兎にも角にも鍋松君のご快復が全てと思いなおし、薬棚を脇に抱えた忠左衛門の広く張った背中を見送った。

 月光院に導かれ、忠左衛門は絹布団のなかで呻く幼子の脇に坐った。真珠のような汗を額にため、うわ言に母を呼ぶ姿を見るにつけ、これが公方様だとは信じようにも信じられず、忠左衛門にとっては病に苦しむ只の幼子に相違なかった。

「お袋様、御子の体を拝見してもよろしいか」

 その言葉に、枕元で控えていた渋江直治が激昂した。

「欺かれてはなりませぬ、月光院様。こやつは医者の真似事をして、たまたま長屋の住民が助かったのを自らの手柄と吹聴する不埒者でございますぞ。そんな輩が上様の御体を触るなどと」

「だまらっしゃい」とすかさず宮内殿が扇子を叩いた。「人を偽医者と呼び捨てるそなたこそどうじゃ。まったくもって藪医者でないか。手に負えぬことを棚に上げ、月光院様のご意向に口を挟むとは。恥を知れ」

渋江直治は打ち震えつつも忠左衛門を睨みつけていたが、細い眼をした月光院が立ちふさがったため、やむなく俯き様に枕元から身を引いた。

 忠左衛門は、まず手の甲を鍋松君の頬と額に当て、分厚い指の腹で耳の下を触り、さらに脇へ指を差し込んだ。月光院が忠左衛門の顔を覗き込むと、忠左衛門は一つ、息を吐いた。

「酷い熱があり、耳の周りも脇の下も随分と腫れておりますな。このような熱病には、効く場合と効かぬ場合がござる」

 月光院は、涙を湛えた目で宮内殿を見遣った。

「しかし、効く場合もござるのだな。打つ手がない以上、任せるより他ない」と、宮内殿は重い空気を払うように声を振り絞った。

 忠左衛門は一礼すると、薬棚の左下の列から、桐油紙に包まれた淡緑色の塊を取り出した。

「これは、蜜柑に生えた黴から抽出した汁を固めたものでござる。これを水に溶かし、その上澄を五日の間、朝昼夕とお与えなされ」

「黴の汁を、上様に、鍋松に飲ませよというのですか」

 月光院は頬を引き攣らせたが、すかさず白石は、下段ノ間から声を張り上げた。

「恐れながら申し上げ候。調べましたる所、三年前の大瀉においても、深川長屋は死者を一人も出しておらず、それは黴汁のお陰との証言を得ておりまする。また、遊び女の瘡毒にも効くとの報せも此れあり」

 宮内殿が白石に体を向き直した。

「新井殿、上様の御前である。遊女の話などするではない。まずは拙者が毒味仕ろう」

 間髪を入れず、月光院が口を開いた。

「石田殿の薬は、私がここで直に上澄を取り、毒見をし、上様にお含み申し上げましょう。事あらば、私も上様と黄泉に参り、家宣公にお詫び申し上げます。たれか、銚子をもて」

「げっ、月光院様」上擦った声で宮内殿が呼び止めたが、月光院は、その声に応ずることなくひざまずくと、再び忠左衛門の手を握った。

「石田殿の瞳は一片の陰りもなく、まるで柴犬のようじゃ。五日の間は、毎日参上あれかし。石田殿の御指図通りに致しましょうぞ」

 その言葉に石田殿は顔を歪め、巨躯を折りたたみ、月光院を拝むように頭を下げていた。

偏屈の石田殿をここまで心酔させるほどの月光院であるが、その陰で、「征夷大将軍に相応しい逞しき御方」と吉宗公に近づく素振りをみせたことを、白石は思い直していた。

(あの母としての涙は本物であろうが、さてもさても分からぬ御仁よ)

 しかし、そうした思いを燻らす余裕を奪う憤怒の気が、渋江直治から沸々と立ち昇るのを、白石は確かに感じ取っていた。

                           (つづく)

 

~型に拠れば~

 

新井白石と抗生物質を組み合わせるという一種合成は、江戸時代というには存在しない(と一般的に考えられている)先進医学をとして配することでもあり、これは地と図のねじれを生じさせ、物語の魅力を高める機能を果たす。この一種合成のために、足立休哲という実在の人物を用意した。設定上の矛盾を解消するため、足立休哲を石田忠左衛門というキャラクターに替え、物語の骨子を「①忠左衛門がペニシリンで鍋松の流行り病を治す、②武断派の陰謀により鍋松は毒殺される、③忠左衛門が毒殺の罪で捉えられ、文知派は失墜」という三間連結としたのは、第一回で示した通りである。

仮に①をそのまま描いた場合、その理由付けが十分に成されないままスタートすることとなり、唐突感が強まる。そのため、①の理由付け伏線となるシーンとして、白石が忠右衛門を訪ねるシーンを第一回とした。第二回も同様に、②の理由付け伏線となるシーンを描くこととした。ここで注意のカーソルは、鍋松の毒殺者に向けられた。その属性は、鍋松の毒殺という機能を可能にする身分=奥医師が考えられた。武断・文知の一対で考えるならば武断派であり、毒殺の直截的な理由付けは「忠左衛門を支持する文知派に辱めをうけたため」とした。奥医師による鍋松の毒殺は、換言すれば「忠左衛門の薬により将軍が死んだとして、その信頼を失墜させ、藪医者の汚名を着せること」であり、それは武断派である老中や紀州吉宗公の利するところとなる。奥医師による毒殺は、「沸々と立ち昇る憤怒の気」という要素伏線を張るかたちで強調した。

文知派(=白石の仲間)というフィルターで他のキャラクターを探索すると、属性が文知派のリーダーである間部詮房、鍋松の母である月光院が考えられた。本物語における間部詮房の主たる機能は、鍋松を忠左衛門のペニシリンで救い文知派を維持することであり、白石は忠左衛門を文知派に引き入れるための呼び水(白石の主たる属性)として使わされたに過ぎない。また、月光院は将軍の生母という属性を利用して絶大な権力をふるっていたが(位置づけ)、生島事件というスキャンダルにより勢いを失いつつあり(状況付け)、鍋松の薨去により自らの政治生命も断たれるため(理由付け)、鍋松を救おうとする(予測付け)。これを忠左衛門は母の愛と解釈したが、そもそも月光院には清・濁の対立型二点分岐(一対)要素として存在し(位置づけ)、忠左衛門の清らかな要素=弱者救済の志が、月光院の清らかな要素=母性と投合したとする一方(状況付け)、月光院の濁った要素=自己愛が、将軍生母という地位を守るため(理由付け・見方付け)、異端の医療を使ってまで鍋松延命をはかり、さらには保険として紀州吉宗公にまで陰で媚びを売っていることを白石は看破している(予測付け)。このことを「さてもさても分からぬ御仁よ」という台詞で強調した。

 


  • 宮前鉄也

    編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。