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おしゃべり病理医 編集ノート-見えない世界を見る方法
- 2019/12/24(火)12:45
病理医として、日々の研鑽と人材育成のための内外での研修。
二児の母として、日々の生活と家事と教育と団欒の充実。
火元組として、日々の編集工学実践と研究と指導の錬磨。
それらが渾然一体となって、インタースコアする
「編集工学×医療×母」エッセイ。
たまには、アイマスクをしてみたり、顕微鏡を覗いてみたり、あるいは犬のまねをしてよつんばいで歩いてみたりする。トーンを意識的に変えて世界を眺めてみると、新しい発見があるかもしれない。
上記写真は、女性の乳腺の正常構造を対物2倍のレンズで眺めたものである。チューリップや、葉っぱが茂る木、あるいは上空から眺めた集落の分布のようにも見える(と思うのですがいかがでしょうか)。
顕微鏡世界は、鳥の目からの世界である。肉眼では「見えない」世界。病理診断は視覚にかなり依存はしているが、日常生活の「見る」と比較すると、ずっと立体的に情報を捉えているように思う。
光学顕微鏡には、接眼と対物、2種類のレンズが搭載されている。接眼レンズは10倍で固定されているが、対物レンズは2倍、4倍、10倍、20倍、40倍、100倍と6種類あり、レボルバーを左手でくるくると回すと、レンズを切り替えることができる。瞬きのたびに拡大が変わるようなイメージである。レボルバーを動かす左手で瞬き、右手でガラススライドを動かして視野を変える。毎日、顕微鏡を覗いているうちに、自分の目と顕微鏡、というか、自分自身と顕微鏡が一体となる感覚を得る。
ちなみに、ピントを調整するハンドルには微動と粗動の2種類がある。観察する際は、微動ハンドルをつねに指で小刻みに動かし、かすかにピントをずらす。人間の目は、静止しているものには注意が向かなくなるからである。実際、眼球は何かを熱心に観察している際もかすかに小刻みに揺れている。
病変の観察は、だいたい2倍の対物レンズからはじめる。病変のかなり上空を旋回している感覚である。弱拡大のレンズで眺めると、広々とした視野が確保され、遠目で病変全体の分布を確認できる。土地の起伏や目印になる建物の位置関係を見ている感じである。上空を飛びながらある程度その場所の土地勘を得たところで、気になる目印をいくつか記憶にとどめつつ、瞬きしながら徐々に下降していく。拡大を上げるたびに、目印の詳細が際立ってくる。遠目でゴツゴツしていたものや色が異なってみえていた部分の正体が判然としてくる。あぁ、ここだけ大きな細胞がやけに集まっているのか、なるほど、出血しているのか、というような具合だ。100倍の対物レンズを使うと、肉眼の1000倍の倍率で観察できるので、細胞の顔立ちまで実によくわかる。
鳥になった顕微鏡世界のわたしは、数十秒、病変の上を様々な高度で飛び回り、たくさんの情報を収穫して地上に戻ってくる。それを一日何度も繰り返す。エキサイティングである。
もしも目が見えなかったら、思考のプロセスも変わってくるのだろうか。
伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)は、ユクスキュルの「環世界」をヒントにして、視覚障害者が感じる世界をメタな視点で多面的に観察しているところが興味深い。
ネット社会において、洪水のように脳内に流れ込んだ情報は、互いに重なり合い、その間に対角線を引いていくのが難しい。特に視覚偏重の情報収集では、強烈な視覚経由のアフォーダンスによって、つねに条件反射のように何かをさせられている状況に陥りがちではないだろうか。ニコラス・カーは、『ネット・バカ/オートメーション・バカ』(1586夜)
https://1000ya.isis.ne.jp/1586.htmlにおいて、脳の神経回路は、高い可塑性によって、容易に改変されると指摘する。ネットにおける情報洪水に攫われていては、想像力はやせ細り、編集力は減退する一方だ。
視覚障害者は、脳に余裕があるのだそうだ。視覚からの情報が入って来ないから、情報量が非常に少ない。その分、類推や連想によってつなげていく余地が頭の中にたくさん残されているということらしい。少ない情報を星座のように線でつなぎあわせていく感覚なのだ。
視覚がないと死角がない。たしかに視覚に多くを頼っていると平面的に情報を捉えがちである。前方の景色やあるいはスマホ画面ばかりを眺めて、死角があることにも気づいていないかもしれない。視覚障害者は見知らぬ場所に訪れた際は、肌で風の向きを、足裏から大地の傾き加減を、というように、多様に景色を「見る」。死角がないから、表も裏もなく、上空から鳥の目で場を確認することもできるだろうし、足裏の虫の目で、大地の起伏を捉えられるだろう。場所の情報がとても立体的になる。実際、目が見えなくなってからの方が転ばなくなった、という方もいるらしい。
ユクスキュルの環世界(Umwelt)とは、すべての動物が、それぞれ異なる知覚と作用のメカニズムによって、別の自然観を具体的に携えて生きている、その動物ごとの世界のことである(735夜)。見方入りの世界ということだ。
視覚障害者と健常者の間でもおそらく環世界は全く異なるだろう。さらに同じ人間であっても顕微鏡を覗いているときと日常生活を送っているときとでは違う環世界で生きている。それはユクスキュルが指摘したトーンというものによる。何に関心を向けているのか、どんな意味を自分が今見ている世界に持ち込むのかということが、知覚に大きな影響を及ぼす。
イシス編集学校で最初に試みる[守]の編集稽古は、コップだとかわたしの部屋であるとか身近なものを観察することからはじめる。トーンを意識する稽古であり、とてもユクスキュル的であることに今さらながら気づく。
自分の「見方を見る」ことが編集の第一歩。見えない世界を見る方法である。
環世界
生物の環世界は、それぞれの持つゲノムと環境の影響を受けるエピゲノムによって形成される、独自の環世界をもつわれわれが、他の生物の環世界について理解することは想像することにほかならない。