破、ハイパー!破、ブラボー! hyo-syoちゃんねるvol.5

2022/12/04(日)06:00
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「破」はただの学校ではない。

 

「破」の方法にこそ、

編集を世界に開く力が秘められている。

 

そう信じてやまない破評匠ふたりが、

教室のウチとソトのあいだで

社会を「破」に、「破」を社会につなぐ

編集の秘蔵輯綴。


評匠Nは、眠かった。

 

12月の声を聴いても、評匠Nは原稿や資料の締め切りに追われていた。ほぼ徹宵で仕事をした流れで、眠い目をこすりながらでは翌朝4時からサッカーワールドカップの日本対スペイン戦を見てしまった。評匠Nは熱心なサッカーファンというわけではないが、スペインとドイツが世界の強豪国であることくらいはわかっている。先制されたこともあり、勝つのは難しいだろうと思っていたら、後半開始早々、メンバーをガラリと変えてたちまち2点を奪って逆転した。

 

このシーン、ファンかどうかは関係なく興奮する。日本が得点したから、ということもあるが、試合自体が興奮させるのだ。なぜこんなに興奮するのか。それを編集モデルに立ち戻って工学できるようになれば、「感動をありがとう」よりは豊穣な言葉を引き出す編集力が身につくはずだ。

 


評匠Nは、高揚していた。

 

11月26日、豪徳寺の本楼で開かれた伝習座は、いつ以来かも忘れてしまうほど久しぶりの、師範代師範全員リアル参加となった。それだけでも高揚感がある。しかも松岡校長がずっと臨座して、師範や師範代に鋭くコメントがある。これぞ、伝習座。そのさなか、松岡校長がこう言ったのだ。

 

「この間の、ドイツとの試合、日本が後半ガラリとフォーメーションとメンバーを変えた、あの後半が『破』なんだ!」

 

おぉ、来た。頭を痛快に殴られたかのごとく、予期せぬ方角から師範師範代の編集モデルに一撃が浴びせられる。伝習座ならではの一喝だ。

 

私ごときでも知っていることだが、サッカーにはフォーメーションがある。3-5-2とか4-4-2といわれているもので、ディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワードがそれぞれ何人ずつ配置されているか、ということをあらわす数字だ。

 

これは文字通りの「型」である。フォーメーションに加えて、スペインらしい、ドイツらしい、ブラジルらしいサッカーというモードもある。フォーメーションとモダリティが合わさってプランが共有され、チームが成立する。これが「型を守って型につく」という「守」である。

 

だが、「守」には「破」へ向かう種子も潜んでいなければならない。いくら精緻なフォーメーションを整え「らしさ」を仕上げても、華麗なパス回しをしているだけでは勝てないし、相手の攻撃を防いでいるだけではゲームにならない。ドイツ戦もスペイン戦も前半の日本は素人目にはそう見えた。だが本来の「守」=「型を守って型につく」とは、その先を見据えていなければならない。それが「型を破って型に出る」=「破」である。

 

「破」では相互編集が発動する。なにぶんゲームには相手がいるから、相手の「型」とこちらの「型」を勝つも負けるも相互編集しなければゲームは動かない。前半が終わって、相手の様子を見てこちらのフォーメーションを変える。守備的なものから攻撃的なものにモードも変える。そのためにはメンバーチェンジも必要だ。

 

このダンドリを踏まえて、ダントツへ向かう。縦パスがクサビに入る。投入されたメンバーが何かを感じて、ゴールに向かって走り出す。スポーツでは「流れ」とか「モメンタム」と呼ばれる状態がくる。その機を逃さない。スルーパスに走り込んできた選手がボールに追い付く。仕掛けた後のクリアを競ったこぼれ球が、ここだと信じたところに転がってくる。偶然は必然だ。そのボールを自由に動かせる焦点にコントロールして、最も得意な角度から叩き込む。相手が最高のキーパーであっても、そこまでの文脈をモメンタムに乗ってすべて引き受けたボールは、グラブを弾いてネットを揺らすのだ。

 

「破」とは、確かにそんなことなのである。「破」の編集は、ファンであろうがなかろうが、味方であろうが敵であろうが、そのプレーが人々を高揚させる(あるいは逆説的に打ちのめすほど落胆させる)ハイパーな編集力があるのだ。

 

 

評匠Nも、戦っている。

 

「破」の稽古は相互編集であり、だからこそゲーム性が高い。校長がそもそも、「編集はゲームである」と語っている。そして編集稽古はサッカーなどの「ゲーム」よりももっと複雑で柔軟だ。学衆と師範代は対戦相手とは限らない。同じチームのプレーヤーになることもある。実際、師範代のキラーパスに学衆が追いついてゴールを決めてくれたときほど師範代冥利に尽きるものはない。逆に教室の学衆全員がチームとなって対戦相手になり師範代ひとりで戦うことだってある。もちろん学衆と師範代がチームになって師範を対戦相手に、評匠を敵に戦うこともある。

 

一昨日(12月2日)、セイゴオ知文術「アリスとテレス賞」の発表があり、エントリーされたすべての作品に師範と評匠の講評が付されたが、この講評もゲームであり、戦いなのだ。味方気分でスルーパスを出して学衆に追いついてほしいという気分で書かれたもあれば、ここは清々しく落胆してもらい次につなげさせたいと学衆からゴールを奪っている講評もある(どれがどれかは学衆諸賢が十分吟味してほしい)。

 

もちろん、ほんとうのゲームと同じで、回答も勝ったり負けたりする。パスにわずかにとどかずチャンスを作れなかった、ほとんど手にしかけていた決定機を逃した、ということもあるが、ゴールへ向かうそのリスクの取り方、チャレンジの姿を見る目くらいは講評陣は持っている。ロールとルールが入れ替わりながら、モメンタムに乗ったアウトプットへ、向かって行けるか。そこが、人を高揚させるハイパーさが出せるかどうかの、「破」の試金石になる。

 


評匠Nも、用意する。

 

いま流行の、コンプラやポリコレでロールを固定したゲームはどうしてもサッカー同様勝ち負けになる。勝者は勝者、敗者は敗者。人生には高揚も落胆もあるのに、芳しい敗北を再編集なんて夢のまた夢という時代。そんな世の中で、勝ち負けが目的ではなく、ロールを動かしながらハイパーに向かって相互編集をかけていくというこのモデルはそうそう見当たらないように思われる。

 

これをさらに面白がるためには、用意が必要だ。「型」を学と同時に、それを突出させるための準備だ。そろそろ49破学衆諸賢も「自分の得意な編集」を見出して必殺技にしてもいいかもしれない。幸いみなさんの手元にはクロニクル編集術の「自分史」があるので、それを振り返って自分の「型」を見出し、「型を破っていく」準備としての再編集をかけられる。

 

何より、日々、世の中のことを編集的に、そして「破」的に眺める癖を身につけるようお勧めする。世の中には小さなことであっても、「破」的でハイパーな、未知へ向かうものやことがあるのだ。そこに感度を高めておくのがおそらく、編集学校全体のモードである。日常からその感度を訓練しておけば、稽古にもすっと入れるし密度も上がる。

 

ワールドカップ次の日本戦は12月5日とのこと。高揚と落胆のいずれが待っているかはわからないが、感動や失望を消費するのはつまらないことだ。年々の編集の痕跡としてみずからに刻み込んでこそ深夜の中継を見る価値がある。用意おさおさ怠りなく。

 

アイキャッチデザイン:穂積晴明


  • 中村羯磨

    編集的先達:司馬遼太郎。破師範、評匠として、ハイパープランニングのお題改編に尽力。その博学と編集知、現場と組織双方のマネジメント経験を活かし、講
    座のディレクションも手がける。学生時代は芝居に熱中、50代は手習のピアノに夢中。

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