おしゃべり病理医の小倉加奈子です。病理医というのは、患者さんからいただいた細胞や組織のかたちの変化を観察して「病理診断」を下す専門医、つまり病気のエキスパートです。「見立て」がとっても重要なのは、病理診断も編集も一緒。今回は、芥川賞受賞の本作を病理診断してみました。診断はいかに?
未病という概念がある。健康と病気の中間の状態をいう。中国、後漢時代の医学書『黄帝内経』には、「未病の時期に治すのが聖人(名医)」という記述がある。江戸時代の貝原益軒の『養生訓』にも、病が未だ起こらない状態で、養生が必要だが、そのまま放置しておけば大病になる、と書かれている。英語で表現するとillnessであり、diseaseではない。気分が優れなかったりちょっとした症状があるけれども病院を受診するほどでもなく、セルフメンテナンス、対症療法で済む状態が未病といえる。
未病は、西洋医学では予防医学の範疇で扱われている。バランスの取れた食生活、適度な運動、そして十分な睡眠が健康維持には不可欠と言われている。そこに加えて、今の日本においては、仕事も恋愛もそつなくこなし、他者への配慮を忘れずイイ人であるというような既成的な「正しさ」が健康のデフォルトに加わっている気がする。だから、そこからちょっと逸脱すると「病んでいる」と認定される。
この物語の舞台は、仕事の忙しさや人間関係の深さもいたって平均的に見える職場で、登場人物たちも一見どこにでもいるような会社員に見える。職場でそこそこうまくやっている(たぶんそこそこイケメンの)二谷と、はかない女の子キャラの芦川、仕事ができて頑張り屋、少しだけ二谷を異性として気にしている押尾という同世代の3名に加え、正義感に満ち溢れるパート職員の原田さんとマイホームパパの価値観と生活にどっぷりの先輩、藤さん。
実際に、物語はあまり大きな事件も勃発せず淡々と進行していくのだが、読み進むにしたがってそれぞれの未病状態が薄皮を剥くように少しずつ現れてきて、なんとなく読む方ももやもやとした落ち着かなさや苛立ちが募っていく。
これはどうやら二人の登場人物の”症状”によるところが大きいようだ。二谷の“おいしいごはん恐怖症”とでもいうべき、食にこだわることへの嫌悪感、そして芦川の“正しい健康”を体現しようとしているような穢れのないイイ人ぶり。酒の席で、「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と思わずつぶやく押尾はむしろ普通で健全に見える。まわりにいる原田さんや藤さんの行動も至極全うな感じなだけあって、二谷と芦川がより異様に見えてくる。
芦川は、周りから無理をさせられない守るべき存在として配慮されている。芦川は日ごろの感謝を込めて忙しい同僚たちに、手作りお菓子をふるまい続ける。健気でかわいい。生々しくネガティブな感情は一切漏らさない。微笑みを常に絶やさないイイ子。負荷のかかる仕事を与えられるときまって体調不良を訴えるが、実は、芦川だけは病気と無縁のようだ。むしろ芦川こそが、この職場の病気の根源なのではないか。
弱さという存在が強い。鈍感力の極みともいうべき絶えない微笑みは凄みさえ感じる。芦川は正義と庇護の対象であり、他者の優しさをいくらでも吸収する貪欲な存在であり、まるで満腹になることのない巨大な胃袋のようだ。芦川はいつまでも弱さという毒を放ち続けて、職場の全員を病ませる。対症療法が効かなくなって発症し、職場を自ら離れる押尾はまだしも、芦川の毒を煽り続けそうな二谷の行く末が気になる。
二谷が、芦川の毒を、おいしい料理とともに消化するには、芦川の家庭料理を無理して食べているだけではだめだ。好きな本を食べた方がいいだろう、貪るように。二谷はもともと本好きで文学部に行こうと思っていたくらいだし、自分の欲望に忠実に好みの本を徹底的に喰らうことで、芦川の弱さを解毒して、おいしくごはんも食べられるのではないか。二谷にはそんな助言をしたくなる。
この物語は、今の日本社会の縮図である。みんな性格も価値観も全然違うはずなのに、“正しい健康状態“に向かって努力することが義務づけられていて、多かれ少なかれ病んでいる。未病状態になんとか踏みとどまるよう頑張っている。私のまわりには、芦川や二谷や押尾のような人物はいないだろうか。そして、自分はどの登場人物に近いのだろうか。色々気になってくる。
たぶん私は、「押尾+原田さん÷2」みたいな感じではないかと分析してみる。様々なキャラクターで構成される病理検査室を運営するにあたっては、やっぱりみんなが健康でいてほしいから、押尾のように仕事をしっかりこなして自分の意見をはっきり伝えるだけではままならない。原田さんみたいに正義っぽいことをふりかざさないといけないこともある。芦川的なメンバーを抱えたら、芦川をある程度中心に据えて組織を運営しなければいけないだろう。自分自身も芦川の毒を浴びながらなんとか心身を整えて、同調圧力をかけたりかけられたりする微妙な舵取りが必要になってくるだろう。発症しないように、私にも解毒作用と滋養強壮に効果のある読書が欠かせないと思う。
未病は、放置しておけば手遅れになる。おいしいごはんを食べられるように、それぞれの処方箋を自ら手にしていかなければならないだろう。この本は、とんでもなく不穏な物語だから、未病対策になるかどうかはあなた次第だ。
読み解く際に使用した「編集の型」:
見立て[守]
「型」の特徴:
「見立て」は、メタファー、つまり比喩の一種と考えられています。メタファーの基本は、対象と関係のないものを利用して対象の特徴を際立たせる編集にあります。「見立て」は、日常生活に深く根づいています。例えば、ごっこ遊び。お砂場遊びでは、泥をこねたものと大きめの葉っぱをそれぞれお団子とお皿に見立てて遊んだりします。「雪見だいふく」「月見うどん」「メロンパン」など、商品やその名前にも見立てという編集は存分に、そして無意識に使われていたりします。
医者の診断も見立てです。見立ての英訳はdiagnosis。見立ての良い医者とは、メタファー上手、特徴の検出が上手で患者の症状からある病気を導くのが巧みである、と言えるわけです。今回は、『おいしいごはんが食べられますように』に登場するキャラクターを診察する、という見立てで講評を組み立てました。未病を患う患者である彼らにどんな処方箋を渡すことが治療になるか。医者の診療の流れを本の読み解きに重ねました。
おいしいごはんが食べられますように
著者: 高瀬 隼子
出版社: 講談社
ISBN: 9784065274095
発売日: 2022/3/24
単行本: 162ページ
サイズ: 13.5 x 1.6 x 19.5 cm
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小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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