■「あなた」の視界
──あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。
本書は、あなたではじまり、あなたで終わる。あなたという二人称で綴られる小説は珍しい。本来、二人称は、「あなた」と呼ぶことのできる相手がいる日常生活の中で登場することが多いし、書き言葉だとしても、「あなた」と呼びかけられる近しい誰かを思い出しながら書く場合、例えば手紙であるとか、に限られるように思う。
あなたと呼ばれているのが主人公であるのは自明であるが、誰があなたと呼んでいるのか、この本ではそれが最後まではっきりしない。
私と同じくらいか、少し年上の中年女性の主人公は、ショッピングセンターの喪服売り場で働いている。視点の先にはゲームセンターがある。少し歩けばフードコートもある。そこには家にまっすぐ帰りたくない女子中学生やバイトの青年や暇をつぶしているおじいさんがいる。
物語はとてもささやか、かつシンプルで、特段、大きな事件も起こらないのだが、唯一、あなたと語りかけているのが誰なのかわからないまま進む物語。だんだんと主人公に呼び掛けているのが読者の私ではないか、という気もしてくる。至近距離で登場人物を眺めているような不思議な読中感覚。気がついたら物語の中に読者も含まれている。一人称や三人称で語られる物語とは、距離感がぜんぜん違う。二人称の文章は、読者を拒絶せず、優しく主人公の近くへと招き入れてくれるのだ。あぁ、読書の喜びよ。
■「あなた」の視点
私の日常の中で、「あなた」と語りかける時を思い起こしてみた。
子ども達がまだ幼かった頃の動画をたまに再生してみる。そこに映し出される息子と娘は、胸が苦しくなるほどに愛らしい。その一方で、レンズを向ける「あなた」は、子ども達のかわいらしさにあまりにも無自覚だ。過去の若かりし私である「あなた」の背中越しにみる信じられないほどに幸福な光景は、まさに「この世の喜びよ」と呟くほどに尊い。
私は顕微鏡越しに「あなた」と呼びかけながら病変を観察する。「あなたはいったいどこから来たのか」「あなたはなぜ、こんな形になってしまったのか」。がん細胞はとても凛としてそこにあって、自身の生を全うしようとしている。無秩序だけれど、迸るような熱量を持って必死に生きている。細胞ひとつひとつの生き様の一瞬が切り取られたかのような、ガラススライドに固定された組織世界は、誤解を恐れずいうなら「この世の喜び」であるともいえるほど神々しく、美しい。
私はどうやら「あなた」という視点を、世界との距離感をチューニングするために、無意識に生活の中に取り込んでいるようである。
■「あなた」という地、「わたし」という図
自分自身のことは、なかなか観察しづらい。「たくさんの私」で構成されているのは確かだけれど、それらはあまりにも近すぎるし、いつもと同じ視点、同じフィルターで観察していると、奥まっている部分の私はいつも見えないままだったりするのだ。外見だって、鏡越しの私をいつもの私と思い込んでいるけれど、娘と並んで鏡に映ってみると、お互いの表情に違和感を持つ。自分の顔は自分がいちばん知らないのに、そんなことも私という一人称は忘れてしまうほど、私自身にどっぷりなのである。
私の意識が、ぴったりと現在の私に重なっているときは、あまりに今を生きることに集中するあまり、この世に生きていることそれ自体を喜んだり悲しんだりすることはできないのかもしれない。私という一人称は、あまりにもまっすぐすぎる。逃げ道がない。たまには、「あなた」と私のことを呼んでみるのが良い。
自分自身を「あなた」と呼びかけると、二人称よりももう少し私に近そうな1.5人称という新たな視点がもたらされる。私との間にちょっとしたズレや隙間ができるから、たくさんの私のグラデーションもきっと見やすくなる。
「この世の喜びよ」と脇目やよそ目ができれば、もっと生きやすくなるかもしない。「あなた」は生きているだけで尊いのだから。
■読み解く際に使用した編集の「型」■
◎ 地と図
◎「型」の特徴
情報の「地と図」は、『知の編集術』の中に編集の基本的な技法とうたわれています。「地」(ground)は情報の地模様のことで、「図」(figure)は情報の図柄のことをいいます。地模様と図柄が組み合わさることで、ひとつの意味やイメージをつくっています。情報は、つねに地と図がセットになって私たちのもとに届きます。同じ図(分子)でもその乗り物である地(分母)が異なるだけで、意味やイメージはその都度、異なっていきます。本書の書評を書くにあたって、なんといっても「あなた」という二人称を選択した著者の語り方が印象的でした。それは、読者と主人公と著者をやわらかくつなぐ「地」にもなりうると気づいた時に、書評のひとつの軸がある程度定まったように思います。私という「図」がやわらかく動く心地良さを感じさせてくれる作品でした。
この世の喜びよ
著者: 井戸川 射子
出版社: 講談社
ISBN: 978-4-06-529683-7
発売日: 2022/11/10
単行本: 144ページ
サイズ: 13.7 x 1.5 x 19.5 cm
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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