■「問」から「問」へ
36[花]は、去る1月22日の花伝敢談儀をもって全カリキュラムを終了し、17名が師範代認定を受け放伝、うち12名が次期49[守]での師範代登板に名乗りをあげ、5名はそれぞれのNEXTへ向けて花伝式目5Mの醸成を誓った。
花伝所は、方法としての「問・感・応・答・返」が俄然浸潤してきたように思う。錬成師範が道場付となったチーム指導態勢が一入の成果をあげている。複数のコーチングブラウザが学びの場へ分入って、「問⇔答」の間でゆらぐ「感」「応」の機微を多様なモードと多層なメトリックをもってスコアする。そのプロセスを、放伝生にはリバースエンジニアリングして継承へ向かってもらいたいし、指導陣はフィードバックして洗練を極めたい。
ただし一つ提起しておきたいのは「返」の行方についてである。「問・感・応・答」が複々と往還するのは何よりなのだが、その帰着点に「返済」が置かれるとしたら気掛かりだ。それでは編集が閉鎖系の地平から脱出できない。編集は、よくよく練られた逸脱を志すべきなのである。
もしも編集に窮屈さや不自由さを感じているとしたら、スマートな「返」ばかりを志向してはいないか点検した方が良いだろう。編集を次のステージへ押し進めるのは、返済や返礼ではなく「問」を世代交代して行く営為なのだ。「問」はその時その場で解消されなくたって構わない。「問」から「問」へ、未知を未知のまま返ずることを歓迎していきたい。
◇松岡書「敢談儀」を掲げる田中晶子所長。「談」には「火」が3つ、「儀」には「人」が2つ書かれている。花伝敢談儀は、敢然と言葉を交わし合う半開複々環状態の場だ。
■編集工学という「態度」
さて「師範代」とはいったい何者なのか。
イシス編集学校のロールではあるけれど、それはたんに肩書きや属性ではない。花伝式目5M(*)を習得した者として、編集工学を体現する機能を担っている。
「担う」という言い方が重みを負い過ぎるなら、次のように言い替えても良い。すなわち、師範代にとって編集工学は「方法」ではなく「態度」なのだ。その態度の実践を、花伝式目は教えている。イシス編集学校がかくも師範代への応援を惜しまないのは、編集工学を実践する彼/彼女の態度が尊いからなのだ。
方法は人と混ざって風姿を現す。その風姿を参照模型として、学衆は編集稽古に遊ぶ。編集術の習熟度や経験値、知識量が高いに越したことはないけれど、師範代にとってより重要なことは、編集的な態度をもって「わたし」と「せかい」とを、既知と未知とをインタースコアしようとするカマエなのである。
*5M:
花伝式目の骨法は5つの「M」によって示されている。情報編集に臨む際に承知しておくべき視座を5つの相に分節したもので、これを花伝所では編集稽古の場を借りて「指南術」として学ぶ。
ところで、5Mの本来は「指南術」に来由するのではなく、ヒト・モノ・コトあらゆる情報に対しての「インタースコア術」にある。5Mの5相に編集八段錦を借りて時間軸を重ねると、下のように説明できるだろう。5Mと編集八段錦は、「情報的自他の発生」から「編集的自己の自立」へ相互編集を運ぶ両輪である。
モデル(Model/型)‥‥現れている情報を、たんに意味内容だけでなく背景や文脈を含む構造(エディティング・モデル)ごと捉える。
モード(Mode/様)‥‥情報的自他の関わり具合に注意を向け、自覚的に構えをとる。
メトリック(Metric/程)‥‥測度感覚をもって情報を評価し、編集的対称性の発見へ向かう。
マネージメント(Management/掛)‥‥情報的自他の動向を捉え、含意を導入し、対称性の動揺を誘って新しい文脈の獲得を図る。
メイキング(Making/組)‥‥自己編集性を発動し、相互編集を次のステージへ運ぶ。
参考「編集八段錦」
1.区別をする(distinction)‥‥情報単位の発生
2.相互に指し示す(indication) ‥‥情報の比較検討
3.方向をおこす(direction)‥‥情報的自他の系列化
4.構えをとる(posture)‥‥解釈過程の呼び出し
5.見当をつける(conjecture) ‥‥意味単位のネットワーク化
6.適応させる(relevance)‥‥編集的対称性の発見
7.含意を導入する(metaphor) ‥‥対称性の動揺と新しい文脈の獲得
8.語り手を突出させる(evocate)‥‥自己編集性の発動へ
編集学校は「型」によって「型」を学ぶ。このとき「型」とは、学ぶコンテンツとしての編集術であり編集工学なのだが、それは同時に「学ぶメソッド」であり「学ぶメディア」のことでもある。[守][破]の学衆は編集稽古の場で「編集を学ぶ」ことを体験するが、[花]では「学びを編集する」へ転換することを強調しておきたい。
新任師範代はとかく編集術の不足を不安として吐露するが、師範代ロールは必ずしも編集術の熟練を求めない。学びの「内容」より「方法」にこそ着眼すべきなのだ。たとえば、自身の〈学ぶモデル〉を学衆にとって転用可能な型として案内する指南も有効だろう。自身の方法をモデル化する作法が花伝式目の眼目であることを心に留めたい。
■半開・半解・半会
情報の扱い方や、情報との関わり方を学ぶということは、とりもなおさず「学び方を学ぶ」ということに他ならない。花伝式目では学衆の学び方を〈学ぶモデル〉と捉え、そこへ指南をつける師範代の〈教えるモデル〉が差し掛かり、互いのモデルを交換し合う場として編集稽古を位置づけている。イシスの学びは相互学習として設営されているのだ。
とはいえ、「学び」が自己目的化する事態は戒めておかなくてはならない。編集も編集術も編集工学も、hereとthereとを橋渡す「道」なのである。道とは、それ自体、一見空虚な器のようなもので、そこに何を入れても満ちることはない。編集学校での「学び」は、そこへ何物をも代入可能な「型」である点で、イシスならではの知財としてユニークネスとクオリティを担保している。
もし編集術や編集工学をたんにアプリケーションとしてインストールする作業を学習と呼ぶのなら、教材やカリキュラムのみを準備すれば事足りるだろう。学習者が独学で「問・感・応・答」して投資を回収すれば、それはそれで閉鎖系の情報経済圏が成立する。だが、学びの本質は複数の交わらない情報圏を大量に生み出すところには無い筈だ。昨日まで学衆だった者が師範代として立ち、学びの場を設える。この仕組みが学習者個々の学習体験を半開かつ複々状の学習サイクルへと拡張し、時を越え場を跨いで「返」を及ぼし合う原動力となっている。
◇36[花]の花伝師範4人衆。敢談儀では「リアル週刊花目付」と銘打って、式目演習を振り返りながら各々の編集道を語り交わした。
○岩野範昭師範(くれない36道場)左上
編集学校は「知」を財として共有するコモンズだ。その財を師範代が担っている。
○吉井優子師範(やまぶき36道場)右上入伝生の自律・自立・自発を促すために「問い」で応じて考えさせた。
○岡本悟師範(むらさき36道場)右下師範代は、一座建立へ向かう場に身を浸す「お漬物」である。
○中村麻人師範(わかくさ36道場)左下道場で交わしたものを、この先もずっとグルとなって稽古し続けていきたい。
「わたし」は学習によって自己を知りもするし、世界に開かれもする。その過程で無知は既知となり、既知のムコウで未知に遭遇する。その体験は「わたし」のものだが、個体としての体験はふるまいを通して世界へ開かれている。こうした営みの一部始終を、いずれ「わたし」は自覚的に引き受けるだろう。そのとき「わたし」が、「わたし」と世界との間合いを保ちながら覚醒するさまを、花伝所は「編集的自己の自立」として歓迎し、提供すべきイシスクオリティと考えている。
撮影:後藤由加里
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
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