[週刊花目付#007] 走れ!3A!!

2020/12/08(火)10:00
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週刊花目付

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2020.12.01(火)

 

 指南錬成は3ステージの演習プログラムが用意されている。
 入伝生は先ず 1)複数の錬成師範の目を借りて指南の型を足固めし、今週は 2)学衆の多様なエディティング・モデルや 3)状況に応じた指南編集を構想し、実践する。

 

 とかく入伝生はステージ1で滞留しがちだ。何事も先ずは自分の始末をつけてから、という思いが先行するのだろうか。
 自立しようとする姿勢は貴いし、一般に「教育」は自立を促すことを指向する。では、自立とはどういうことなのか? 何から何が自立するのか? 情報は一人でいられない、というのに。

 

 イシスが志向する自立は「編集的自己(エディティング・セルフ)の自立」だ。このタームの含意は「自立」より「自律」に近い。「完全なる自己」をターゲットに置くのではなく、「編集する/される自己」のプロフィールに着眼している。
 世阿弥に肖るなら「離見の見」とも言い替えられるだろう。離見とはオーディエンスからの視線のことだ。自他のパースペクティブを同時に体験するカマエを世阿弥は説いた。自分だけでは離にならない。「離見の見」は場とともにある

 


2020.12.03(木)

 

 錬成演習の進捗は、概ね期待通りの速度で進捗している。ほんの5週間で、指南を書くまでに至った入伝生たちを称えたい。ここからの習熟と飛躍に期待がかかる。

 

 さて、「書く」は「読む」に裏打ちされている。読み手の存在が書き手の営為を成就させるのだし、そもそも書き手自身が最初の読み手なのだ。読めるから書けるのであって、書けているからといって読めているとは限らない。
 学衆から師範代へ成る相転移ポイントはここにある。書くスキルがままならなければ指南を構成できないが、それに前駆して、読むスキルが覚束なくては指南の方向が定まらない。

 

 とはいえ「読む」の指導は難しい。「書く」は顕現された表象だからアレやコレやと矯めつ眇めつ論評できるが、「読む」は潜在する感応体験だからその全容過程は推して知るしか術がない。
 恋や痛みの深さを当事者しか知らないように、「読む」をスコアする者だけが書き手へと転生するのだろう。

 


2020.12.05(土)

 

 「笑い」にも型があって、[守]では「パロディア」(諧謔)に遊ぶ編集稽古がある。
 前提として何らかの参照モデルがその場に共有されていて、それがズレてハズレてヌケてアフレることで可笑しみが生じる。その逸脱を稽古し、指南する。

 

 とまぁ理屈はそうなのだが、笑いの指南はプロだって難しい。そこでは型との照合、イメージの連想、解釈の冒険が、直感的に高速で動いている。笑いはナマモノだから、流れや勢いを止めてしまっては野暮なのだ。さりとて踏み込みが浅くては指南にならない。
 師範代は、その「間」を読むための測度感覚が求められる。
 

 

2020.12.06(日)

 

 髪を切りながら(私は美容師なので)、お客様と「ソウゾウリョク」について談義する。

 

 「ソウゾウリョクのある人には憧れるなぁ」
 「どっちのソウゾウです?」
 「創造力よ。想像力より値が高いと思わない?」
 「あぁ、たしかに創造力はオカネの匂いがします」

 

 ふむ。これもまた「書く/読むモンダイ」なのかも知れない。
 クリエイティビティは客観的なアウトプットを伴うから、記述され、評価を呼ぶ。けれど世にはイマジネーションを欠いたクリエイティビティが散見される。件のお客様も、上司のイマジネーションの貧困を嘆いていた。

 

 なぜ「想像力」は安く値踏みされるのか? 想像力は地球最後の資源だというのに。

 

 編集稽古の現場でも、ノビノビと想像力を羽ばたかせて回答を寄せる学衆が漸減傾向にあるようにも感じる。正解や成果を求める風潮に呪縛されているのかも知れない。
 まるでこの社会は、暴君ディオニスに怯えるシラクサのようだ。せめて師範代はメロスの如く3A(*)を走らせて、想像力の解発に挑みたい。

 

3A
編集工学的方法論のトリアーデをなす3つの「A」のこと。アナロジー(Analogy)/アブダクション(Abduction)/アフォーダンス(Affordance)の頭文字を取っている。

[アナロジー] 未知をわかろうとするために既知を使って想像すること。類推。
[アブダクション] まだ見ぬものを発見的に想定する創造的想像の飛躍。仮説的推論。
[アフォーダンス] 環境の側にあって、行為を通して発見される意味や関係。

 

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  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。

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コメント

1~3件/3件

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025

大沼友紀

2025-06-17

●記事の最後にコメントをすることは、尾学かもしれない。
●尻尾を持ったボードゲームコンポーネント(用具)といえば「表か裏か(ヘッズ・アンド・テイルズ:Heads And Tails)」を賭けるコイン投げ。
●自然に落ちている木の葉や実など放って、表裏2面の出方を決める。コイン投げのルーツてあり、サイコロのルーツでもある。
●古代ローマ時代、表がポンペイウス大王の横顔、裏が船のコインを用いていたことから「船か頭か(navia aut caput)」と呼ばれていた。……これ、Heads And Sailsでもいい?
●サイコロと船の関係は日本にもある。江戸時代に海運のお守りとして、造成した船の帆柱の下に船玉――サイコロを納めていた。
●すこしでも顕冥になるよう、尾学まがいのコメント初公開(航海)とまいります。お見知りおきを。
写真引用:
https://en.wikipedia.org/wiki/Coin_flipping#/media/File:Pompey_by_Nasidius.jpg