一、モモと「時間どろぼう」
とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは──それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
これは、ミヒャエル・エンデが1973年に発表した『モモ』の一節である。とても有名な作品なので、お読みになられた方も多いと思うが、どういうわけか、「時間」というこの作品のテーマについては、あまり関心が向けられてきたようには思えない。「時間」とはなにか。ほんとうの時間とはどのようなものか。これは、児童文学にしてはかなり深遠なテーマのようにみえるが、なんどか読みかえすうちに、むしろ子供でなければあるいは子供の心をもった大人でなければ、この作品は読み解けないという気にさえなってくる。
物語は、どこからともなくやってきて、町にある円形劇場の廃墟に住みついたモモという少女の話から始まる。モモはなにひとつもってはいない、帰る家もなければ親もいない身ひとつの少女だが、すぐに町中の人と打ちとけ、やがて誰もがモモに話を聞いてもらいたくて、円形劇場詣でをするようになる。モモには、ただ相手の話をだまって聞いてあげるだけで、その人の悩みや苦しみを解消してしまうという不思議な力がそなわっている。だから町のだれも彼もが困っている人を見かけると、「モモのところに行ってごらん」と声をかけあうようになったのだ。
こうして、モモのおかげで町はすっかり明るくなるのだが、すると今度は、こちらも謎にみちた「灰色の男たち」が出没するようになる。彼らは自分の暮らしに不満をもつ者がいると親切そうに近づき、時間の節約と貯蓄を熱心に説いて勧める。この灰色の紳士たちは「時間貯蓄銀行」の職員を装っているが、実は、人々から<ほんとうの時間>を奪いとり、社会中に<贋(にせ)の時間>を蔓延らせようとする、「時間どろぼう」の一味にほかならないのである。
彼らの手口は一見したところ単純なように思える。すべての時間を秒に直したうえで、われわれが日々行っていること、または生涯行ってきたことが、どれだけ膨大な無駄の山を築いているかということを、相手の心に植えつけるだけでいいのだ。たとえば、一年を秒に直すと三千百五十三万六千秒、十年なら三億一千五百三十六万秒、もしわれわれが七十年生きるとすれば、二十二億七百五十二万秒となる計算である。ところで仮に私が四十二歳で、一日八時間眠ってきたとしたら、それだけでもう四億四千百五十万四千秒という時間を無駄にしてきたことになる。あるいは三度の食事に二時間ずつ使ってきたとすれば、一億一千三十七万六千秒の無駄。毎日のセキセイインコの世話、耳の聞こえない老いた母親との会話、週一回の映画に合唱団の稽古、飲み屋に行ったり友だちと話したり、そして読書をしたり・・・・・・これらを足すと、一日平均三時間、合計では、一億六千五百五十六万四千秒の無駄になる。これらをどんどん減らし、勤勉に働いていけばいくほど、私たちは豊かになり幸福になっていくだろう。
詳しいことはよく知らないのだが、「時間どろぼう」たちは、まるで『マトリックス』という映画にでてくるエージェント・スミスのようである。没個性でふだんは目立たず、平凡とさえ言えるような風采だが、並外れた信念とエネルギー、なにがあっても屈しないタフな精神をもっている。すくなくとも『モモ』を下敷きにすることで『マトリックス』の編集法が際だってくることは確かだろう。いずれにせよ、悪の組織の狙いは、数字のマジックを信じ込ませることにあるのではなく、本来、数値化できないものをすべて数字に置き換えてしまうことにある。ひとたび時間の定量的な見方を受け入れたが最後、その人の性格は根本から変わり、生き方も、街の姿も、みるみる変わっていくのである。
たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。もちろん、「モモのところに行ってごらん!」ということばを知りません。その人に話を聞いてもらえれば、それで利口になり、心がなごみ、気持ちがはればれするというような人は、彼らのところにはいませんでした。でもたとえいたとしても、その人のところに行ったかどうかはおおいに疑問です──五分でかたづくのでないかぎり、時間がもったいないと思ったことでしょう。余暇の時間でさえ、すこしのむだもなくつかわなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽を詰めこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。
(・・・)
大都会の北部には、広大な新住宅街ができあがりました。そこには、まるっきり見分けのつかんさい、おなじ形の高層住宅が、見わたすかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。そしてこのおなじ外見の道路がどこまでもまっすぐにのびて、地平線のはてまでつづいています。
エンデはこうした町を「整然と直線のつらなる砂漠」と書いている。おそらくそれは、資本主義国家であっても旧共産主義国家であっても、あるいは中国のような資本主義と共産主義を同時に装った国家であっても、容易に目にすることのできる光景だろう。資本主義は、労働力を商品化し、労働者は労働そのものから疎外されるようになったと断じたのはマルクスだが、その後の世界が被った悲劇的変化を知るエンデから見れば、労働力の商品化より以前に、時間の数値化と単一化、そして商品化という決定的な事件が起こっていたのである。そしておおよそすべての人間は、<時間>から──生きることから──疎外されることになってしまったのだ。もちろん、それを救うことができるのは、資本主義でも共産主義でもないのである。
【出典】
ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳、『モモ』、岩波書店、2005年。
【トップ画像】
ジョン・コンスターブル『フラットフォードの製粉所近くの舟造り』1815。「日常のなにげない営みのなかにこそ、至福の時間がある。」(境)
【境踏シアター バックナンバー】
■第一回(1)ほんとうの時間
田母神顯二郎
編集的先達:ヴァルター・ベンヤミン。アンリ・ミショー研究を専門とする仏文学の大学教授にして、[離]の境踏方師。ふくしまでのメディア制作やイベント、世界読書奥義伝の火元組方師として、編集的世界観の奥の道を照らし続けている。
三、『ペスト』と時間 IT革命が加速し、AI(人工知能)が人の仕事をどんどん奪うようになっている時代、金さえあれば、民間人でも宇宙飛行が経験できるようになった一方、スマホが生活の主要なアイテムとなり、心や […]
二、ベルクソンの予言 カフカやドストエフスキー、さらには荘子にまで影響をうけたというエンデの魅力は、とうてい児童文学の域に収まるものではない。すくなくとも、これだけたくさんの人に読まれてきたのに、そのほと […]
このたび「遊刊エディスト」にデビューすることになった境踏方師の田母神です。年甲斐もなく、すこし興奮ぎみです。編集の新たなサンクチュアリともいえるこの「エディスト」に来ただけで、自分のなかのピーターパンが、うずうずしてく […]