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おしゃべり病理医 編集ノート - NEST的DUST考
- 2020/06/16(火)11:07
井ノ上シーザーの
“DUSTライター募集”に思わず手を挙げそうになる。
ご存知だと思うが、遊刊エディストの記事は8つの“ST”に分類されている。JUSTやPOSTなど、イシス編集学校のイベントを取り上げたST分類が多い中、井ノ上シーザーのDUSTとわたしの所属するNESTの共通点は、ライターの自由度の高さである。好き勝手に話題を選んで書くことができるのである。
NESTはいわゆる編集的なコラムが集まっているところで、わたしのエッセイは、「おしゃべり病理医」という名前の通り、難しそうと敬遠されがちな医学ネタを無理矢理?編集とからませ、千夜千冊も交えて考察することが基本の「型」である。自然、けっこうかっこいいことを言ってしまう。たくさんのわたしの中のシニカルなおぐらは、「カッコいいこと言っちゃってるけど、実際どうなの?」みたいなツッコミを入れてくる。自分のエラそうな意見に、後ろから頭をはたかれたりするのである。
そんなときに、DUST的な要素が無性にほしくなる。そこでだいたい登場するのが我が家のオアシスかつハリケーン、じゅんちゃんである。連想偏重な母との会話は、あちこち飛びまくるので、予期せぬ発見が少なくなく、エラそうなことを論じる自分に疲れたときには格別の癒し効果がある。
井ノ上シーザーのDUST宣言によると、以下の3要素がDUSTネタには重要らしい。
※DUST記事は、本流であってはならない。量産の必要もない。
※DUST記事は、編集学校周りのどうでもよいことを、面白く書く。
※DUST記事は、人間の業の肯定に基づき、ほどよく人や対象をいじる。
この要素は、ホップ・ステップ・ジャンプの三間連結の型によって「DUST哲学」の境地に達しているように思う。
改めて考えてみると、日常生活はほぼDUSTから構成されている。靴下の色が気に入らなくて家に戻ろうか悩みながら職場に向かい、お昼に職場のコンビニで「びんちょうマグロマヨネーズ和え」のおにぎりが売り切れていることにがっかりする。帰り道、ボーっと自転車を漕いでいたら、横からいきなり飛び出してきたおばちゃんに「気をつけてよ!」と怒鳴られる。心の中で、「危ないのはそっちじゃん!」と叫び、蒸し暑い中、マスクしなくちゃいけないことに無性に腹が立ってきて、コロナ、失せろ!と呟く。人気のないところでマスクを外して、気分爽快となり、玄関を開けたらまるちゃんが、うぉ~~んと大歓迎で迎えてくれることでさらに癒される。夕食後、棒アイス「パキシェル」の一口目のパリパリとした分厚いチョコの触感にいつも通り満足する。
ざーっと、今日を振り返ってみたが、やはりどうでもいいDUSTが積もり積もって一日ができていた。主人に「シーザーのことを書いてみようと思うの」と言ったら、隣で宿題をしていた娘が「サラダの話?」と聞いてきた。これもDUST、いや、ダジャレか。
ただ、そんな日常のDUSTたちを、「編集学校まわりの誰かの」というフィルターを設定したうえで、面白く文章として仕立てるのは至難の技である。だって、DUSTなのだから、ふつうに書いてしまうとどうでもいいネタなのである。面白く書くということは、「人間の業の肯定」につながるところだと思うが、哀愁を感じつつもなんだかおかしみがあるとか、そういった俳句的だったり、ハードボイルド的だったりするモード文体編集が必須だろう。
さらにさらにこの難易度の高さは、DUSTが「内輪ネタじゃないか」という意見とも関係している。よく考えたら、私小説はほぼ内輪ネタである。国内ニュースは、外人から見れば内輪ネタともいえないか。要するに境界設定の問題である。仮に読者が、この記事って内輪ネタじゃないか、と感じたとしたら、それはおそらく疎外感から来るものだろう。自分が、その内輪の仲間ではないという淋しさがそういう感情を引き出している。もうひとつは、共感できるかどうかである。内輪ネタだと感じてもその記事に共感ができてしまえばきっと面白く読めるのだと思う。お笑いにも通じる。
この共感問題には、編集の型の一つである略図的原型が潜んでいて、それは、さきほど登場した「人間の業の肯定」とも深いところでつながっているように思う。略図的原型とは、人間の知覚が経験的に積み上げた「アタマのなかにあるモデル」であるが、プロトタイプ(類型)、ステレオタイプ(典型)、アーキタイプ(元型)がある。
DUST記事においては、「どうでもいいこと」というプロトタイプを扱うが、そこにはステレオタイプとしての登場人物が登場する。大事なのは、その奥に潜むアーキタイプで、井ノ上シーザーがいうところの「人間の業」がそれではないか。井ノ上シーザーは、DUSTライターとして、その隠されたアーキタイプを少しだけチラ見せしつつ、よしよしと愛でてあげることで肯定しているのではないか。ここまで深読みしてみると、DUST記事が世阿弥の世界に見えてくる(この後DUST記事を書くハードルが上がったとしたらすいません)。
筋書きは曲に入るための手掛かりであって(つまりはプロノームであって)、曲が進むにしたがってはどうでもよくなるし、またシテの役柄が何であるかもどうでもよくなっていく。シテの正体が芭蕉の精か式子内親王かということよりも、そこで謡われていく言葉と音と律動が呪術的とさえいえる祈りの抑揚のようなものになっていくことが眼目なのである。役柄のステレオタイプはむろん、能としてのプロトタイプさえどうでもよくなって、われわれの奥なるアーキタイプが動きだすからだ。
うーん、DUST哲学は、ここにルーツがあるんじゃないかしら?井ノ上シーザーはワキだったのか。
井ノ上シーザーはシーザーらしく凛々しい顔で今日もDUST記事を書いているのだろうか。もしも気分転換をしたくなったら対談でもして、お互いNEST的、DUST的にその様子を書いてみる、というような熱線編集企画をぶっぱなすのも面白いかもしれない。いかがでしょうか、シーザー。娘にはサラダじゃなくて、熱線シーザー教室のちょい悪っぽい師範代なんだよって説明しておきました。
【DUST的余談】
本エッセイを井ノ上シーザーに公開前に見てもらった。井ノ上シーザーが能でいうところのワキなのかもしれないというわたしの深読みにびっくりされて、若かりし頃、ツツイスト(筒井康隆ファン)だったことを明かされた。「筒井といえばスラプスティック(ドタバタ)であるが、ドタバタ精神とはドタバタな人間模様を醒めた目で眺めることなんですよね。たしかにワキっぽい」と納得されていました。良かった良かった。このやりとりが印象に残り描いたイラストが↑です。予想以上に筒井がうまく描けてしまい、井ノ上シーザーを描く際のプレッシャーが重くなり…。恋人かい!っていうくらい写真をなめるように観察して描きましたが、力みが入っていまいち。いつかリベンジします。