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おしゃべり病理医 編集ノート - 「何がわからないのかがわからない」に対する編集の効能
- 2020/05/14(木)10:34
「情報を見聞きしたとき、だいたい同じジャンルの話だなと、なんとなく対応させて終わらせがち。そうではなく、何かと何かを区別し、情報同士の関係性を観察していくことが大切」
[守]の師範代勉強会「伝習座」における桂大介師範の発言に、深く共感してPC越しにうんうんとうなづいた。桂師範とわたしが“いじわる師匠”と崇める蜷川明男別当師範代には「おぐらさんはなんでも似てるって連想でつなげたがるけど、もっと差異を意識した精緻な情報編集が必要です」と、事あるごとに鋭く突っ込まれてきた。たしかにグレゴリー・ベイトソンは「一個の情報とは“違いを生む違い”(a difference which makes a difference)である」といっているし、ソシュールも、言葉の意味は別の言葉との差異によって決まるという。松岡校長は、差異がはっきりしないままの無編集な状態を「情報うんこ状態」と表現する。“うんこ”というと、小学生が喜びそうだが、排泄されたままの情報がただただ堆積する様子がそのひとことに凝縮されていると思う。
情報がコロナウイルス一色になることをとても危惧している。それだけでなく、日夜流されるコロナに関するニュースの内容もかなり一様で均質化していることがさらに心配である。メディアは、「視聴者受け」というフィルターをかけて情報を配信しつづける。PCR検査の是非というのもいろいろな意見があるはずなのだが、PCR検査が少なすぎるという「数」のみが強調される。
検査というものは、どんなに精度の高い検査であっても、検査前確率(有病率)にとても大きく左右される。偽陽性や偽陰性の可能性はいつだってつきまとうし、PCR検査はもともと感度が低く、特異度が高いという精密検査に向いた検査の特徴を有している(「感度」は患者さんを陽性にする確率、「特異度」は健康なひとを陰性にする確率のことです)。本当はもっともっと感度の高い検査を用いたいのだが、いきなりのパンデミックの状況下では、最初にPCR検査を選択せざるを得ない状況なのである。検査前確率をなんとか上げて、検査の精度を高めたいからこそ、当初、発熱患者を対象に検査をしている側面もあったのに、なぜだれも説明しようとしないのだろう。政府は、最近、発熱の期間を削除するなど「目安」を変えた。「基準」ではなくて「目安」です、という部分を強調する不思議な説明をしているが、聞きたいのはそこじゃない。
医療現場で口にされている意見は、世の中ではあまり見かけない。医療関係者のインタビューでは、検査の拡充についても、検体採取方法やタイミングなど様々な意見があるし、検査精度の限界についても叫ばれているのに、「PCR検査の数を増やした方がいい」という話のみが拾い上げられている気がする。そこには5W1Hが抜けている。どんなときに、どんな理由で検査の数を増やした方がいいのかが説明されていない。感染者数の把握という観点はわかるが、今日陰性の患者は、明日陽性になるかもしれず、偽陰性で安心することもとても危険である。病院では、同僚も患者さんも全員がコロナウイルス感染者とみなして対応するしかないのが現状である。とても難しい状況だが、体調に留意して、こまめな手洗いを中心に、標準予防策を徹底する。
アビガンが効いたというニュースもよく見るが、ちょうど回復するタイミングにアビガンが投与されていた「たまたま」の可能性があるのにもかかわらず、視聴者をミスリードするキャッチコピーには腹が立つ。まだまだ検査も治療も何もかもがよくわからないのがコロナウイルス診療の実態なのだが、「わかりません」だけではニュースにならないから、インパクトがあるか、耳障りの良いニュースだけを流す。強くてわかりやすくて、だからこそ脆い言葉だけが飛び交っているのは危険である。
一方で、「わからない」ということこそがいちばんの脅威なんだということを最近、強く実感する。さらに、「何がわからないのかがわからない」ということこそが、恐怖なのだということも。そのわからなさの根源は、差異が見えないことに起因すると思うのだがみなさんはどう感じられているだろうか。
ニュースに登場するキャスターも有識者も当然使命感があるだろうし、わかる範囲でなるべく正しいと思う情報を発信しようとしているだろう。でも、視聴者が知りたい情報に寄り過ぎるあまりに、わかりやすい情報→単一な情報→アドレスが分からない無編集の情報となっていくジレンマを抱える。
意味単位のネットワークとともに、情報の「地と図」がぼんやりしていることも大きな問題である。感染対策にしても病院の外と内では異なり、外から内へ、内から外へと、「地」をまたいだ時に検査の是非は逆転することだってある。また、疫学的なことなのか、目の前のひとりの患者さんに対する対応なのか、類と個の違いも意識しなければ、適切な対応はとれない。
編集において、類似や模倣に向かうのは、情報の出自がはっきりし、その差異がわかっているからである。「知は合同に向かうな、相似に向かえ」というヘルマン・ワイルの言葉には、情報Aと情報A´は同じではないことが前提にある。この「同じではない」という差異が編集のスタートであることをわたしたちはつねに意識しないといけないように思う。
意味単位のネットワークに着目することは、ゴールとなった情報の足取りをリバースエンジニアリングしてさかのぼることにつながる。編集稽古で回答のあとに必ずその回答にいたったプロセスをふりかえるのはその練習である。ふりかえると、その情報のベースとなった「地」、5W1Hからなるアドレス情報、そして、それらのつながり具合である「分節化」が見えてくる。そのプロセスで、少なくとも「何がわからないのかがわからない」状況からは脱出できる。
ネットリテラシー教育も単に一次情報に戻ってみる、という単一で線形的な方法にとどまらず、情報を構造的に捉える方法を模索していかないといけないだろう。
今日のウェブ社会や検索社会に投げかける問題も少なくない。そもそも連想検索がどのようにあるべきなのかということは、「意味の模倣的構造性」をとりこまないかぎりは、新たな展望は生まれないはずなのである。連想検索だけでなく、連想再生も重要だ。
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド
ここでの「意味の模倣的構造性」も、情報の差異を起点にしている。いくつかの情報に類似性を見出し、連想的思考に向かっていくときには、一方で、何が異なるのか、その細部にも目を向けることが必要である。ぼんやりとした連想だけでは、プランニングとしての新たな展望は生まれないだろう。類似と差異、全体と部分、連想と要約。視点の切り替えが大事である。
桂大介師範を含め、多様な方法を操ることのできる師範陣が見守る中、45守はコロナウイルスパンデミックに負けず、密度の濃い編集稽古を繰り広げている。Stay home!で孤独になったときやニュースに気持ちが揺れ動く時ほど、編集稽古で自分の立ち位置を確認し、次の一歩を踏み出したい。
意味のネットワーク