花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし

2024/07/09(火)08:02 img
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花伝式部抄_20

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 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き立たせるためにアリエナイ選択肢を隣に添えることで販促効果を狙う、いわば「当て馬」のようなもので、アリエナイと言ってもぎりぎり「ナシ寄りのアリ」を配置するところがコツです。
 こうした戦略はデザインやエンタメ業界の常套手段で、新規のデザイン提案からアイドルグループのメンバーのマッチングまで、ちょっと言えない暴露話を私も多く耳にしています。私の業界の話をするなら、流行中の彩度の高いヘアカラーリングは一見すると選択肢が豊富に見えますが、実際モンダイ、発色が良く色持ちも良い色味は限られており、けれど案外そうではない(つまり難易度もコストも高い)色味ほど人気が高く、さらにその難しいがゆえに人気のある色味の周辺に「当て馬」が増殖する傾向にあります。
 まぁ現場従事者として私の意見を申し上げれば、正直なところ「当て馬」は“無駄な工業生産物”ですから、私自身はシンプルでミニマルなスタイルを提案しようとする態度に軸足を置いているのですが、他方その無駄によって業界が活性していることにケチをつけるべきではないとも思っています。人は「当て馬」の存在によって、別様の在り方への想像力を逞しくさせもするし、翻って本来の在り方を知りもするからです。花伝式目の教える「仮説的であれ」とは、そういうことなのだろうと思います。

 

 さて私はいま、「別様」と「本来」の二極を「翻って」という副詞で逆説的に結びました。この手順はことのほか重要だと思います。自己を知るには非自己との関わり合いが不可欠であり、“セカイの多様性”が“ワタシの多様化”(あるいは別様化)のアフォーダンスを与えるのであってその逆ではない、ということです。まるでワタシはセカイと接することによって内側へ細胞分裂するかのように、自己を複雑化あるいは焦点化していくのです。

 この原理を編集稽古として仕立てたものが【010番:たくさんの「わたし」】であることは、ここで言葉を重ねるまでもないでしょう。ワタシはセカイを観察することを通して再帰的に自己の“描像”を獲得し、多様な自己像を得ることによってワタシとセカイをめぐるスコアリングの解像度を高次化させて行くのです。それゆえ、かたくなに自己像を固守しようとする者は010番で“困難”に遭遇することが多いようです。おそらくその困難は、セカイによってワタシがスコアリングされることに対する抵抗なのでしょう。スコアリングとは、ジョルジュ・アガンベンの言葉を借りれば「経験を可能なかぎり人間の外に、つまりは道具と数のなかに移し換えていく」ような営みでもあるからです。ここでいう「経験」は、“身体感覚を伴う主観的な体験”と説明できるでしょう。そうだとすれば、この命題は「主観的体験は他者と交換可能か?」と書き換えても差し支えないでしょう。他者から一方的にスコアリングされることに抵抗する態度を「かたくななわたし」と呼ぶなら、その様相は“インタースコアへの渇望”と紙一重なのです。

 

管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。分割不可能だった個人(individus)は分割によってその性質を変化させる「可分性」(dividuels)となり、群の方もサンプルデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。

ジル・ドゥルーズ(1990年5月)
記号と事件 1972-1990年の対話』河出文庫より

 

 ジル・ドゥルーズは上に引用した論考のなかで、テクノロジーの進展がもたらす資本主義社会の変質を冷静に分析しながら、分割不可能な「個人」が分節化され数字に置き換えられつつあること(つまり「定量スコア」されること)の危機を予告しています。新たな時代の支配体制にとって、“他者によって分節化されたワタシ”は新たな管理素材となり得るのです。ならば我々はこの体制に順応するか、然もなくば「マーケティングの楽しみに立ち向かう能力をそなえた、来るべき抵抗形態」を用意する必要があるだろう、とドゥルーズは問いかけています。

 はじめに書いた「当て馬」の話に戻れば、私たちは経済社会のなかで選択肢の多様を享受している反面、特定の選択肢へ作為的に誘導されもしている、というわけです。そしてその状況から逃れようがないとしたら、頑なにワタシを閉ざすのではなく、さりとてワタシをセカイへ開放するのでもなく、ワタシをセカイへ閉じながら開く絶妙を身につける稽古こそが「来るべき抵抗形態」を準備させることでしょう。

 

 ドゥルーズの「可分性(dividuels)はどちらかというとセカイに対しての警戒心が滲む文脈で提示された概念ですが、平野啓一郎はこれを「分人(dividual)と読み替えて“複雑化したワタシ”を救済しようとする文脈で展開し、さらに鈴木健は『なめらかな社会とその敵』で社会モデルとしての「分人民主主義を提唱しています。(鈴木が構想する「伝播投資貨幣」は、情報経済圏において「問・感・応・答・返」の動向をスコアし得るかも知れません)

 これら「分人主義」の考え方はドゥルーズの系譜に連なりつつ、チャールズ・テイラーがミルチャ・エリアーデを援用しながら示した「多孔的な自己(porous self)にも源流を見出せるように思います。「多孔的な自己」という概念は、自己が内と外を隔てる輪郭をもちながらも、その隔膜には通気性のよい孔が無数に散在しているような自己像です。ワタシとセカイの間に穿たれた孔は“鍵穴様の受容体”と捉えることもできるでしょう。それら無数の受容体の一つ一つがナイーブでセンシティブな測度感覚を有すると考えれば、「かたくななわたし」が呼吸を覚えて“半開きのわたし”へと解放されて行くイメージが浮かびます。

 この「多孔的な自己」の概念は、分人化された「たくさんのわたし」に至る前の予備段階として置くことができるように思います。自己を覆う“膜”の開閉具合を制御する訓練ならば、自己の分化具合に注意を払うことを求めるよりも、自己編集のための初歩のプロトコルとしてはずっと難易度が低く意識づけしやすいのではないでしょうか。

 

 これまで編集学校では「たくさんのわたし」の解釈として「着替える」という言い方で説明する場面を多く目にしてきましたが、以上のような考察を踏まえると、もっと多様なメトリックを想定したアプローチが求められていることに気づかされます。
 なぜなら私たちは、「たくさんのわたし」を“器用に着替えながら生きる”には複雑で繊細すぎるからです。現代社会において“分節化されたワタシ”がセカイからハッキングされやすい状況に置かれているのは上に述べた通りであり、そこに「かたくななわたし」が表出するとしても、それは「たくさんのわたし」の一形態とみるべきなのです。
 ですから、「自己編集」について器用な着替えを求める指導はむしろ自戒する必要があるでしょう。そうではなくて、私たちが目指すべきは「たくさんのわたし」を“不器用ながらも同時に生きる”ことである筈です。もちろんそのとき求められるものが“しなやかで逞しい測度感覚”であることは言うまでもありません。

 そして、自己編集によって獲得したい自己像は、『なめ敵』に肖るなら「なめらかなわたし」と呼べるでしょう。あるいは前段に倣って「超自己」(ハイパーセルフ/hyper self)と称すも良し、はたまた「多焦点化した自己」として語るも良し、いずれにせよそれらは「虚に居て実を行ふ」に接続する編集的な自己像なのだと思います。

 

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花伝式部抄(スコアリング篇)

 ::第10段:: 師範生成物語

 ::第11段::「表れているもの」を記述する
 ::第12段:: 言語量と思考をめぐる仮説

 ::第13段:: スコアからインタースコアへ

 ::第14段::「その方向」に歩いていきなさい

 ::第15段:: 道草を数えるなら

 ::第16段::[マンガのスコア]は何を超克しようとしているか

 ::第17段::「まなざし」と「まなざされ」

 ::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」

 ::第19段::「測度感覚」を最大化させる

 ::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし

 ::第21段:: ジェンダーする編集

 ::第22段::「インタースコアラー」宣言

 

 

 

 

  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。

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