さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。
各務支考『十論為弁抄』より
現代に生きる私たちの感覚では「虚」というと、実体のないもの、事実ではないもの、仮想的なもの、といった語意に連なりがちですが、各務支考(かがみしこう:蕉門十哲の一人で芭蕉の教えに自身の解釈をインタースコアさせて『俳諧十論』を著した)は「虚・実」の対比構造が「未然・已然」の相似形であることを端的に示していて、そうか「虚に居て実を行ふべし」とはそういうことか! と得心させられます。「虚」が「天地の未開・一念の未生」の状態を指すならば、それはあらゆる別様可能性に満ちた未然の状態をいうのであり、一方で「実」は無限の可能性のうちの一形態が有限の事象として現成したさまであることが諒解できます。
すなわち、今ココにいる“已然のわたし”が未知へ向かおうとするなら、一旦「わたし」を虚に置いて__つまり「たくさんのわたし」を経由して__何者にでもなり得る“未然のわたし”に還る必要があるのでしょう。
“已然のわたし”を「たくさんのわたし」化させて“未然のわたし”に還すという自己変容のプロセスは、生命の減数分裂するしくみに原型を見出せるかも知れません。
そもそも生命がなぜ自らを分化させるシステムを構築したのかは謎すぎますが、「わたし」という存在を注意深く内省すれば、その自己編集の有り様たるや、ジーンとミームが同じ「複製→修復→組み換え」の軌跡をたどる様子を観察することができるでしょう。まるで生命がRNAを介して情報を転写、翻訳してタンパク質を再構築するように、“已然のわたし”は「わたし」の内側で複雑化、分節化し、情報の組み換えを伴いながら新たな「わたし」へと再統合されて行くのです。
いずれの場合も情報構造のアップデートはダイレクトなコピー&ペーストによって為されるのではなく、もともとの情報構造をいったん「虚」の領域へわざわざ還したうえで再構築させる、という仕組みが採用されていることに、私は畏怖をもって瞠目せざるを得ません。「わたし」という個体が、生命体としても意識体としても“分裂”や“分化”を前提として設計されているという事実は、「自己同一性」という概念が幻想であることを示唆しているようにも見えます。少なくとも私たちは自己を分化しつつ再統合する過程で、他者や環境からのアフォーダンスを借りながら、相対的に何らかの“ジェンダー”を担いつつインタースコアしあうのでしょう。
インタースコアへ向かう際の編集態度については、たとえば第14段で紹介した「共読スレッドの様子」から凸型と凹型の2つのモードを観察しました。人は相互作用のはたらく場に置かれたとき、状況や場に応じるために個性的なふるまいを見せるものです。私はそこで見出した凸型のふるまいを「自身を積極的に場へ投企させようとする態度」、凹型のふるまいを「場を設えて周囲を招き入れる態度」と分類定義しました。前者は情報経済圏のなかで“鍵性”を帯びた存在として遊弋し、後者が用意する“鍵穴性”と結びつきながら編みあわされていく、といった情報交換モデルを定型スコアとして描出したわけです。
この「鍵性/鍵穴性」は、エディティング・モデルが交換される場面における「編集的なジェンダー(性質の差異)」と見立てられるでしょう。ジェンダーといっても、その言葉の意味するところは「男性性/女性性」のように先天的な属性に紐づけられた固定的な資質や特性を指すのではなく、「要約/連想」「感/応」のように相手や状況に応じてカワルガワルする可変的な編集モードのことを想定しようとしています。そして、生命がジェンダーによって次世代へ継がれ行くように、「問・感・応・答」も編集的ジェンダーによって次の編集ステージへ展開し「返」へと導かれるのです。
◎編集的ジェンダー:
インタースコアの過程では、スコアとスコアの間、スコアとスコアラーの間、スコアラーとスコアラーの間に、必ずそれぞれの持つ“位置エネルギー”や“運動エネルギー”の差異が認められる。その差異は情報交換を促す“浸透圧”として作用し、情報編集を運ぶ動力となる。つまり、情報Aが持つ性質と情報Bが持つ“性質の差異”(ジェンダー)が相互作用を触発させるのである。編集的なジェンダーは可変的かつ相対的に発現し、プロセスのなかで生じる測度感覚に応じて自在に位相を変移させる。
例)ジェンダー性を帯びたアクシスとなり得るもの
実 / 虚
凸 / 凹
鍵 / 鍵穴
図 / 地
種 / 土
花 / 能ハコビ / カマエ
表現型(フェノタイプ) / 遺伝型(ジェノタイプ)
顕るるもの / 隠るるもの
応 / 感
要約 / 連想
問い / 受容
マネージ / イメージ
まなざし / まなざされ
ワケル / トケル
書く / 読む
話す / 聞く
呼気 / 吸気
放射 / 吸収異化 / 同化
:
情報構造を構築する過程で“ジェンダー”が発現することは、「人間 vs AI」あるいは「生命 vs 機械」を対照したときに見える最も大きな編集作法の相違だろうと思います。人や生命は情報どうしの相互作用に依拠しながら編集するのに対し、機械は情報の統計的処理に終始するということです。両者の優劣をここで論じることはしませんが、そもそもこうして“機械”を対極に置いて再帰的に“生命”の有り様を省みる認知作法こそが“人間らしさ”なのでしょう。
そうであるなら、日々刻々と移ろいゆく暮らしのなかで「わたし」が何と出会い、どのように関係し、そこでいかなる相互作用を起こしているか自覚的に気づいておくことは、編集工学を語ること以前に、生きることの質を高めることに直結する筈です。
一例としてこのテキストについて振り返りながら自己言及すると、書くことは表現行為ですから、表面上、私の記事は場に対して“凸型”のふるまいとして受容され、メッセージは筆者から読者の方向へ“鍵性”を帯びて伝播していきます。けれど筆者たる私は、テキストとして表象される前に長大な未然の段階を通過していて、むしろ私にとって書く行為とは“凹型”の助走期間を体験することに他なりません。それは“鍵穴性”の実践と言うべき地味な作業の積み重ねで、具体的には、現在進行中の41[花]の演習模様の観察や、日々の仕事や生活のなかで交わされる様々な言葉や、乱読の果てに沈殿した文脈の重畳などをコンパイル(収集、選択、分類、流派、系統)する作業です。
何であれ編集表現はこのような情報代謝のうえに成る果実ですから、それに至る“呼気”と“吸気”の振幅を深める訓練こそが編集稽古の核心なのだと思います。
花伝式部抄(スコアリング篇)
::第10段:: 師範生成物語
::第11段::「表れているもの」を記述する
::第12段:: 言語量と思考をめぐる仮説::第13段:: スコアからインタースコアへ
::第14段::「その方向」に歩いていきなさい
::第15段:: 道草を数えるなら
::第16段::[マンガのスコア]は何を超克しようとしているか
::第17段::「まなざし」と「まなざされ」
::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」
::第19段::「測度感覚」を最大化させる
::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
::第21段:: ジェンダーする編集
::第22段::「インタースコアラー」宣言
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
花伝式部抄::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」
<<花伝式部抄::第17段 イシス編集学校は「インタースコア編集力」を、「編集的な場」において、「編集的な作法」によって学ぼうとする学校です。 といっても、[守][破]で学ぶ学衆にとってはイ […]