吉原炎上。栄華をほこる街が火の海に消えるという衝撃のシーンで幕を開けた今年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
第2回 吉原細見『嗚呼(ああ)お江戸』
2025年の大河ドラマ『べらぼう』のワールドモデルは、江戸中期という「抑圧と挑戦がせめぎ合う時代」を背景としています。平和が長く続くと、社会は安定と同時に硬直化し、抑圧や停滞感が生まれることは歴史が繰り返し示してきた宿痾のようなものです。戦乱の終結により武士の軍事的役割は薄れ、その存在意義が揺らぐ中で、多くの武士は伝統的な規範や価値観を守ることで自らの権威を維持しようとしました。一方で、圧倒的な経済力を持つ商人の台頭が社会全体のバランスを揺るがし、江戸社会に新たなヒエラルキーを生み出していました。
商人たちが豊富な経済力を背景に社会的影響力を拡大していくと、その存在は武士階級の権威を脅かすものとみなされました。この状況に対処するため、幕府は出版統制や奢侈禁止令を強化し、贅沢な消費を取り締まることで、商人の台頭を牽制しようとしました。これらの規制は文化や商業活動を抑え込むものでしたが、一方で抑圧の中で新たな創発を生むきっかけにもなりました。風刺画や浮世絵、町人文学といった新しい表現が規制の隙間を縫う形で次々と誕生し、江戸文化に独自の活力をもたらしました。
同時に、商人の力を積極的に利用する武士も現れました。その象徴的な存在が田沼意次です。田沼は商人の経済力を巧みに取り込み、経済的な手綱を握ることで、武士の権威を新たな形で再建しようとしました。商人との連携を通じて、武士階級の存在意義を再編集しようと試みた彼の姿勢は、従来の伝統的な価値観に縛られた硬直的な姿勢とは、一線を画しています。このような経済を基軸とした新たな価値観の模索と、伝統を守ろうとする動きがせめぎ合う中で、江戸中期の社会構造は表面的には安定しているようでありながら、内側では大きな変化の兆しを孕んでいました。
このような江戸中期のワールドモデルの特徴は、2025年の現代社会とも深く共鳴する部分があります。急速な技術革新や新しい価値観の登場に対し、既得権益層がその変化を抑え込もうとする構造は、江戸時代の抑圧的な状況と驚くほど似通っています。また、経済格差の拡大が新たな社会階層を生み出し、社会全体に停滞感をもたらしている点も共通しています。この「江戸中期と2025年の相似点」を浮き彫りにすることも、現代の大河ドラマとして江戸中期のワールドモデルを再現する意義の一つであると言えるでしょう。
蔦屋重三郎を駆り立てる心理的要素は、停滞した社会のヒエラルキーがもたらす悲しみ、そして、その閉塞的な構造をどうにかして変革してやろうという炎のような闘争心です。第二話では、吉原という閉ざされた空間を文化的・経済的に再編集する挑戦に踏み出す姿が描かれます。試練を乗り越え、覚醒を経て成長していく重三郎。その成長に、田沼意次、花の井、平賀源内といった個性豊かなキャラクターたちが絡み合い、ストーリーに厚みをもたらしています。抑圧の中で生まれる編集力がどのように成長し、やがて社会を動かす力へと昇華するのか――その核心を、私たちは『べらぼう』を通じて識ることができるでしょう。
<樽詰めからの覚醒(重三郎の擬死再生)>
第一話で、重三郎は吉原の衰退を食い止めるため、非公認の店を取り締まるべく、警動(町奉行による摘発)を動員するよう田沼意次に直訴します。彼の行動は吉原の復興を目指したものでしたが、「吉原だけのために警動を動かすことはできない」と一蹴され、重三郎は自身の視野の狭さや思慮の浅さを思い知らされます。
第二話では、この出過ぎた行為が吉原内部に新たな緊張をもたらします。重三郎の行為は、吉原全体に無用な疑いを向けられる可能性を作ったとして、女郎屋や引手茶屋の主人たちの反感を買い、重三郎は三日三晩、樽の中に閉じ込められるという屈辱的な仕打ちを受けることになります。しかし、この出来事は、彼にとって単なる挫折ではなく、革新者として再生するための重要な転機となるのです。
▶田沼意次の示唆
田沼の「人を呼ぶ工夫が足りないのではないか」という一言は、重三郎に対して、時代の変革には単なる行動力だけではなく、創意と視点の転換が必要であることを教えるものでした。田沼の言葉は、経済と文化を融合させ新しい価値を創発するというヒントを与え、重三郎に新たな可能性を考えさせる契機となります。
▶樽詰めの象徴性
樽詰めという仕打ちは、秩序を守ろうとする保守的な勢力と、変革を目指す重三郎との対立を象徴しています。一方で、この試練は、重三郎が自身の限界と向き合い、革新者として新たに生まれ変わるための通過儀礼でもありました。重三郎は樽の中で深い内省を重ねる中、「吉原をどのようにすれば人々にとって魅力的な場所にできるか」について具体的なアイデアを見出します。それは、吉原細見(吉原ガイドブック)の再編集でした。それまでの吉原細見は、単なる遊郭案内帳でしたが、重三郎はこれを、吉原の魅力を発信する宣伝ツールに作り変えることを思いつきます。
この瞬間、重三郎の属性は大きく変化しました。試練を経る前の彼は、吉原の衰退に対する危機感を持ちながらも、行動は感情や衝動に基づいたものでした。しかし、樽詰めという極限状態の中で、彼は吉原という空間を「文化・流行の拠点」として再編集する視点を得ました。改革を求める直情的な理想家から、具体的なビジョンを描き、実行できる革新者へと進化したのです。
<天才を呼び覚ます花魁の機転>
樽詰めを経て、新たな視点と決意を得た重三郎は、吉原細見の序文執筆を依頼するため、「平賀源内を知る者」と名乗る人物を訪ねます。その人物に依頼を取り次いでもらおうとする重三郎でしたが、予想外の条件を提示されます。「吉原に連れて行ってもらえれば、考えてやる」というのです。さらにその人物は「瀬川」という名跡の花魁を指名しますが、その名跡はすでに存在せず、重三郎は窮地に立たされます。
このとき、重三郎を救ったのが花魁・花の井でした。彼女は咄嗟に機転を利かせ、男装して「今宵限りの瀬川」として振る舞います。その巧みな演技は「源内を知る者」の心を掴み、重三郎の目的を前進させることとなります。そして宴が進む中で、「源内を知る者」として振る舞っていたその人物こそが、実は源内本人であることが明らかになります。源内は、重三郎の熱意と花の井の対応に心を動かされ、最終的に吉原細見の序文執筆を引き受けます。このシーンは、花の井の知恵と行動力だけでなく、平賀源内という人物の複雑な内面を際立たせる場面でもあります。
▶源内と花の井が織りなす対話の深層
源内が「瀬川」という名跡に執着した背景には、彼の内面に潜む郷愁や過去への切ない想いが反映されています。「瀬川」は源内にとって、かつて心を揺さぶられた美しい記憶や芸術的な感動の象徴であり、単なる名跡を超えた存在でした。それは、彼の創作意欲を支える源泉とも言えるものだったのです。
花の井は、源内の抱える感情を敏感に察知し、その心に寄り添う形で応えました。彼女が演じた「今宵限りの瀬川」は、源内が心の中で追い求めていた記憶や理想を再現するものであり、その演技は源内の感情に深く響きました。この一夜のやり取りは、源内にとって失われた過去に触れるひとときであり、彼の中に眠る創作意欲を呼び覚ます鍵となりました。
一方で、花の井にとってこの行動は、単なる機転の利いた演技以上の意味を持ちます。彼女は吉原という世界に生きながらも、その役割を超えて人の心に寄り添うことを使命として体現していました。源内の記憶を共に辿るように振る舞う彼女の姿勢には、花魁としての誇りと知恵、そして他者の感情に共鳴する能力が強く表れています。
▶記憶と感情が生む創作の火種
花の井との一夜を通じ、源内は「失われた記憶」に触れるという貴重な体験を得ました。この体験は単なる遊興にとどまらず、源内の内に眠っていた創作意欲を再び燃え上がらせる火種となります。彼が執筆した吉原細見の序文は、「完璧な器量を持つ女などこの世には存在しない。それでも吉原ならば、誰しも“いい人”を見つけられる」とシニカルに記し、理想の代替を享受することの本質を描き出しています。この内容には、源内自身が「今宵限りの瀬川」と過ごした一夜に込められた自身の感情と記憶が反映されています。二人のやり取りは、過去と現在、記憶と感情が交差する象徴的な瞬間として描かれ、源内の創作の深層を鮮やかに浮き彫りにしています。
<革新者・田沼意次と保守派の対立>
田沼意次は、資本経済を軸にした改革を推進する中で、保守派の老中の批判に直面していました。その対立は、幕府内の権力闘争だけでなく、時代の価値観の転換を象徴するものでした。田沼が目指したのは、商人の経済力を利用し、武士の権威を新しい形で再建することでしたが、その革新性は保守派にとって受け入れがたいものでした。
▶祝宴における対立
第二話の中で、田沼と保守派の対立を象徴する場面の一つが、一橋治済の嫡男・豊千代誕生を祝う宴席でのやり取りです。治済が「いっそ傀儡師(人形遣い)にでもなろうか」と軽口を叩いた際、田安賢丸(後の松平定信)は、「我らに流れる吉宗公の血を、武門の血を何とお考えか」と真剣に非難します。さらに、保守派の老中は田安賢丸の発言を擁護する形で「むしろ見習うべきではないか」と述べた一幕は、田安賢丸の考えに賛同しつつ、経済重視の田沼意次の改革を間接的に批判するニュアンスを含んでいます。
▶寛政の改革への伏線
田安賢丸の思想や発言は、後に彼が松平定信として行う「寛政の改革」の伏線とも言えます。定信が老中首座として行った寛政の改革は、田沼意次の改革が招いた「専横」とみなされる政策や、商人の台頭による社会の歪みを是正しようとするものでした。寛政の改革では、倹約令の発布や質素な生活の奨励などを通じて、武士階級の権威を再び確立し、幕府の威信を取り戻そうとしました。その出発点には、この祝宴での田安賢丸の発言が象徴するような、田沼政治への批判と武士道回帰の意識があったと言えるでしょう。
▶治済の微笑み
作中では、田安賢丸と一橋治済の微妙な緊張感を象徴する場面として、治済がニヤリと笑うシーンが描かれています。この笑みは、後に徳川将軍家の後継争いが激化し、治済が田安賢丸の暗殺を画策するに至る事件の伏線として解釈することができます。 一橋治済は、息子である豊千代(後の徳川家斉)を将軍に据えるため、田安賢丸という有力な後継候補を強く警戒していました。この場面では、武士道を重んじる潔癖な態度で保守派の指示を集める田安賢丸に皮肉を込めた視線を送り、ニヤリと笑うことで、自身が抱える野心と策謀をほのめかしています。この笑みは、治済の計算高さや狡猾さを際立たせるだけでなく、将軍後継争いという幕府内部の緊張を象徴するものでもあります。
<吉原に灯る絆の光>
第二話がクライマックスを迎えるのは、花の井が重三郎に「あんたはひとりじゃない」と語りかける場面です。このシーンは、孤軍奮闘してきた重三郎が抱えている孤独や葛藤を解きほぐすだけでなく、仲間と共に変革を目指すことの意義を認識させる転機となっています。
▶花の井の共感と支え
花の井の「朝顔姉さんのこと悔しいのは、あんただけじゃない」「あんたはひとりじゃない」という言葉には、吉原に生きる人々の切実な思いと共感が込められています。花の井自身も、吉原という閉ざされた空間で、自分の限界を受け入れながらも懸命に生き抜いてきた一人です。だからこそ、彼女は重三郎が吉原に希望の光をもたらそうと奮闘する姿に強く心を動かされ、その挑戦に深く共感していました。この言葉は、単なる励ましを超えたものであり、重三郎にとって転機となるものでした。彼の取り組みが、単なる個人の夢や野心ではなく、吉原に生きるすべての人々の未来を左右する挑戦であることを再認識させたのです。その一言が、重三郎の胸に深く響き、彼の孤独を癒すとともに、新たな使命感と責任感を芽生えさせました。花の井の言葉は、重三郎の決意を一層強くする原動力となったのです。
▶吉原の可能性を信じるバディ
花の井は、単なる遊郭の象徴的存在ではなく、知恵と感受性を兼ね備えた文化的媒介者として描かれています。彼女は、自分が直接的に変革を成し遂げる立場ではないことを理解しながらも、限られた状況の中で自身の果たすべき役割を全うしようとしています。「あんたはひとりじゃない」という彼女の言葉には、自分と同じく吉原の可能性を信じる重三郎への強い信頼と期待が込められています。花の井は重三郎の心強いバディとして、これからも物語の中で重要なロールを担っていくことでしょう。
大河ばっか組!
多読で楽しむ「大河ばっか!」は大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブ。物語好きな筆司たちが「組!」になって、大河ドラマの「今」を追いかけます。
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