自らの体内から這い出したコマユバチの幼虫たちが作った繭の塊を抱きしめるシャクトリムシ。科学者は「ゾンビ化されて繭を守るよう操作されている」と解釈するけれど、これこそ「稜威」の極北の姿ではないだろうか。
それは、かつての安寧が無情に解体していく風景だった。逃げるべきか、抗うべきか。幻想が零れ落ちた断絶の先で、生き残るための冷徹な理(ことわり)の音が響く。彼は今、光さす表層を去り、世界の裏側で血を流す闘いへと踏み出した。
さて歴史をふかぼれば宝の山。史実と史実の間にこぼれ落ちたものにこそ真実が宿る、かもしれない!? 歴史と遊ぶ方法を大河ドラマにならう多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」。クラブの面々を率いる筆司の二人が、今週のみどころをお届けします。
第二回「願いの鐘」
第二回のラストシーンで響いた「願いの鐘」の音は、祈りの響きではなく、OSが不具合を検知したときに鳴らすシステムエラー音のように聞こえました。それは希望の起動音ではなく、「このままでは世界は正常に動作しない」と告げる警告音のようでした。
物語の普遍的な構造を読み解く型である「物語マザー」において、主人公が安定した場所を離れる段階を「原郷からの旅立ち」と呼びます。通常、その旅立ちは志や憧れ、あるいは使命により主人公が能動的に選ぶプロセスとして表現されます。
しかし、『豊臣兄弟!』第二話における小一郎(秀長)の旅立ちは、そのどれにも当てはまりません。彼は理想に導かれて原郷を離れたのではなく、原郷というシステムそのものが、もはや正常に機能しなくなったために、”誠実に生きてさえいれば願いが叶う”という幻想を信じられなくなったために、そこに留まれなくなったのです。
第二話で描かれたのは、織田信長による「新OS」の尾張への強制インストールでした(尾張一統)。これは、やがて日本に「天下布武」という統一OSをインストールする壮大なプロセスへと発展していきますが、現段階ではそのプロトタイプが稼働し始めたに過ぎません。
その機能の本質は、これまでの「地縁・血縁」という属性データや、「誠実さ」という情緒的キャッシュに基づく「中世のプロトコル」をすべてデリートし、合理性と武力による一元管理を要求するものです。
しかし、この強引なシステム移行は、直接的な破壊だけでなく、社会全体に甚大な「間接的エラー」を波及させます。信長が軍勢を特定の戦域へ集中投下し、リソースの最適化を図ることで、村々の治安維持というバックグラウンド・プロセスは停止してしまいました。そのセキュリティの空白を突いて発生したのが、あの野盗の襲撃という名のランタイムエラーだったのです。
小一郎の恋人・直(なお)の縁談が壊れたプロセスも、このシステム論的な因果関係で説明がつきます。
新OSの副作用である野盗の襲撃に際し、婚約者が直を見捨てて逃げ出したのは、彼が「平和な村の論理」という旧OS環境下でしか動けない、脆弱なプログラムだったからです。
野盗の襲撃がもたらした「死の予感」という高負荷に対し、婚約者の人間性は耐えきれずにクラッシュし、守るべき相手を放棄するというエラーを起こしました。信長が直接命じたわけではなくとも、彼が動くたびに社会全体の計算リソースが奪われ、そのしわ寄せが村の惨劇というバグとなって各所で噴出しているのが、この時代の構造でした。
この混沌としたシステムエラーの真っただ中で、藤吉郎(秀吉)は清須城において極めて高度なフロントエンドのハックを仕掛けました。信長が新OSを安定させるために強引なパッチ(残酷な処置)を当て続けることで、システム内部には深刻な「熱」が溜まっていました。管理者の一人であるお市は、兄が人間性を削りながら孤独なデバッグを繰り返す限界を、兄妹という秘匿プロトコルを通じて察知し、深く苦悩していました。
藤吉郎は、この「お市の心の揺らぎ」という精神的な脆弱性を見逃しません。信長の合理性に疲れ切り、システムの終わりを予感して怯える彼女に対し、あえて非合理で甘美な「願いの鐘」という物語を提示する。論理では突破できない権力者の懐に、感情というポートを経由して潜り込むこのソーシャル・エンジニアリングにより、藤吉郎は信長OSの内部に、特権アカウントを作成することに成功していたのです。
兄・藤吉郎がフロントエンドにおいて「価値」をハックし、権力構造の隙間に軽やかに滑り込んでいる一方で、弟・小一郎は物理的なバグである野盗を直接処理するという、血生臭く過酷なバックエンド業務を担っていました。
彼は野盗に対し、「財物のありかを教える」という偽の情報を入力します。それは略奪者たちが最も信じたい「願い」という名の甘いインターフェースであり、小一郎はそれを利用して敵を自分たちが制御する「罠」という関数へと誘導し、殲滅しました。これは敵のロジックを逆手に取った「欺瞞によるデバッグ」であり、旧来の「誠実さ」というコードを生存に最適化された新しいロジックへと書き換えることで、破綻しかけた生存環境を維持しようとする必死の試みでした。
この冷徹なデバッグ作業を経て、物語は一つの結末へと向かいます。野党による騒乱が収まったあとに小一郎が直に対し、「一緒に行こう」と本心を告げたシーンに、視聴者の多くが胸を熱くしたことでしょう。それは、バグだらけの世界で翻弄されてきた彼が、ようやく自らの内なる「願い」を言葉にした瞬間であり、物語としては最大のカタルシスを迎える場面でした。
しかし、この美しくも切実なシーンにこそ、後の豊臣秀長につながる恐るべき実務家の萌芽が潜んでいます。小一郎は本心からの「願い」すらも、生存戦略を支える強力なパーツとして機能させたのです。
なぜ彼は、自身の最も純粋な感情までも、冷徹な戦略へとシフトさせなければならなかったのでしょうか。その答えは、彼がその直前に目撃した凄惨な光景にあります。焼かれた村の跡に転がる死体と、誠実さの象徴であった信吉の無残な生首。それは「願えば叶う」という物語が完全にクラッシュし、中世的な「善意」というプロトコルが物理的に破壊された現場でした。
ここで重要なのは、小一郎が「復讐」に走らなかったことです。肉親や仲間を殺された怒りに任せて加害者を討つのではなく、彼は「なぜこの悲劇が起きたのか」という構造的な欠陥を見つめました。怒りや悲しみという感情のリソースを、相手を呪うためではなく、二度とこのようなエラー(死)を発生させないための「システムの構築」へと全振りしたのです。
縁談が壊れ、村という旧OSの中での居場所を完全に失った直に対し、自らの想いを唯一の「救済(アップデート・パス)」として差し出す。それは直というかけがえのない存在を、自分たちの不安定な旅路へと接続し、最も信頼できるリソースとして確保する「リソース管理(バックエンド業務)」の始まりでもありました。
「願い」や「夢」という甘美な言葉を使いながら、実際には相手を生存戦略のパーツとして組み込んでいく。復讐という後ろ向きの感情を、生存という前向きな設計思想へと置換する。この「優しさの形をしたハッキング」こそが、実務家・小一郎の真の誕生を告げるものでした。
私たちが目撃したあの凄惨な惨殺シーンと、信吉の生首は、単なる歴史的悲劇の描写ではありません。それは、「願い」という言葉の甘美さに逃げ込みがちな視聴者に対する、脚本家からの峻烈な勧告です。
近年の大河ドラマでは避けられる傾向にあった、あの手加減のない描写は、決して扇情的な演出などではありませんでした。それは、「綺麗事では死を止められない」という抗いようのない絶望を、単なる悲劇として消費させるのではなく、生き延びるための冷徹な「条件」へと置換させるための、避けては通れない通過儀礼だったのです。
現代を生きる私たちは、幸いにも「生首」を直視するような事態は免れています。しかし、巨大なシステムのハッキングに伴うエラーが、見えない場所で未処理のまま蓄積され続けている構造は、戦国時代と何ら変わりません。格差、疎外、精神の摩耗といったバグが臨界点に達したとき、現代社会であっても再び「死」を介在した巨大なエラーが発生しうる――。信吉の首は、システム管理を放棄し、甘美な虚構に耽溺する社会がいずれ辿り着く「仕様(デフォルト・エンド)」としての警告なのです。
現代において「願いの象徴」が華々しく活躍する表舞台の裏側には、必ず小一郎のようなバックヤードの守護者が存在しています。信長のような先駆者が強引に社会のOSを書き換え、藤吉郎が華やかなフロントエンドとして大衆の「願い」を捏造していく。しかし、その巨大なシステムの歪みからは、常に予測不能なバグや摩擦が噴出し続けます。それらを一つずつ泥にまみれて手作業で修正し、システムが熱暴走して致命的なクラッシュに至るのを防ぎ続ける実務家の存在こそが、あらゆる時代の奇跡的な成功を支えているのです。
「願い」という名のハックを実行し、それを維持するには、想像を絶する分量のデバッグを伴います。小一郎は、信吉の首という救いのない現実を見た瞬間に、復讐という私的な情念に走るのではなく、その過酷なデバッグ(実務)を一生かけて引き受ける管理者としての、孤独な旅立ちを決意しました。
「原郷からの旅立ち」とは、単に故郷を離れることではありません。それは「願い」という言葉の甘美さを捨て、大切な人の人生や自らの本心さえも生存のためのリソースとして客観視し、構造の裏側でシステムを支え続けるという「覚悟」への移行です。第二回は、感情の揺らぎを戦略の論理へと置換し、過酷なリアリティを自ら引き受ける。そんな現代的で切実な通過儀礼を、決定的に描き切ったのです。
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