雨が降りしきるなか、京都の伝統行事、五山送り火のライブで松岡正剛校長と共演したのが、樹木希林だった。彼女の遺作となった『日日是好日』では、黒木華の演じる女子学生が、お茶の先生役の樹木希林のもとに通う。「音をたてて飲むのって、ヘン」だと感じていた主人公は、やがてお稽古を通してかけがえのない大切なことに気づいていく。
日本の芸事や武芸で培われた古き良き知恵は、「稽古」に集約されている。「古(いにしえ)を稽(かんが)える」。稽古とは「古」に学び、今なすべきことを知ること。稽古にはことごとく型がついてまわる。歴史の波に洗われ、なおここに息づく先達の志や思いが凝縮された「方法」を身体に通すために、型がある。型でまねて、うつして、わたす。世阿弥が「稽古」をもって芸能を学ばせたやり方だ。型は、受け継がれた記憶のエッセンスであり、先達のメッセージの扉を開く鍵、先達の形見である。
イシス編集学校では、編集術の型を身体に通すためのお題が、インターネットで配信される。これに学衆が答えると、師範代から指南が返る。このやりとりをネット上の教室の全員が共有する。
いにしえからの情報を、あるいは身の周りの情報をどのように理解し、記憶し、そこからどのように発想し、表現するのか。編集の型は、唯一の正解の周りに豊かに広がっていた可能性の海原へと誘い、私たちのアナロジーの力を蘇らせる。視点がずれ、情報の見方が変わると、新しい意味や価値の発見があり、自分が変わる。方法が分かる。「かわるとわかる」「わかるとかわる」体験を幾度も味わう稽古を通して、情報編集の奥が徐々に開けられていく。
学衆が編集の型を学ぶいっぽうで、師範代は、花伝所で鍛錬した「却来」――どんな回答も受容するプロフィールを辿る。学衆の関心や興味を掘り起こし、それに合わせて編集の型を照合させたり、言い換えたりして、題意と関係づけていくのである。相手やその場に応じてどのようにも舞を変える「問・感・応・答・返」で行き来しながら、真似び、学び合う。師範代は最初から正解をもってはいない。学衆とのコミュニケーションで発見していくのだ。お互いの息遣いを感じ取り、面影を辿る。師範代も学衆も揺らぎを起こし、共振し、それまでの自分を手放す。偶然さしかかる知をチャンスにして生かしていくうちに、教室では、稀有な相互作用、鏡像作用、相補作用が起こり、一座建立となる。
丸洋子
編集的先達:ゲオルク・ジンメル。鳥たちの水浴びの音で目覚める。午後にはお庭で英国紅茶と手焼きのクッキー。その品の良さから、誰もが丸さんの子どもになりたいという憧れの存在。主婦のかたわら、翻訳も手がける。
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