毎朝、2歳児から5歳児までを詰め込んだ幼稚園バスに添乗していると、些細なトラブルの調停はめずらしくない。初めて乗った頃に驚いたのは「誰と座るか」問題で、これはほぼ女の子同士の間でしか起こらない。
この年代では、まだ固定した友人関係は確立しておらず、日々席が変わる。カーストやマウンティングの萌芽が、総当たり戦をおこしているといえよう。昭和であれば座席は固定だったり、大人が振り分けたりしたのだろうが、今はそうではない。なるべく一人ひとりの希望をかなえるため、唯一の大人であるわたしができることは少ないが、いるだけでいいということはある。
『おいしいごはんが食べられますように』には、「意識高い系」の女子がいかに社会人として生きにくさをかこつかが書かれている。押尾さんという名の彼女は入社5年目。一年先輩の芦川さんが自分のようにがんばらず、ハードな仕事や残業を回避して「腰掛け女子」としてふるまうのが気に食わず、二歳上の二谷さんという男子に「いじわるしませんか」と誘いかける。
物語は、押尾さんと二谷さんが交互に語る形式をとり、芦川さんがいかに「うざい」存在かを両性の側から検証する仕立てで進む。あらゆる場面で自分が庇護されるべき弱い存在であることをアピールする女。とっさにふさわしい表情をつくるため、一人でいるときも口角を上げて表情づくりにいそしむ女。それを平気で彼にも告げるほど羞恥心を欠いた女。
問題は、二谷さんが芦川さんのターゲットとなった点である。彼女は一人暮らしの二谷さん宅をしばしば訪れ、「おいしいごはん」をつくり、性的関係を結んでいく。押尾さんは彼のアンテナ感度を自分と同等と認め、会社内のよしなしごとを居酒屋で交わし合う。一度だけ彼の部屋を訪れたときは本のタワーに気をとられたり、性的接触を寸止めしてしまうことで、差別化をはかる。
「おいしいごはん」とお菓子は、芦川さんの「うざさ」を端的に象徴するモノとして利用される。彼女の趣味はお菓子作りで、しばしば自作のお菓子を職場へ持ち込み、みなにふるまう。その場で芦川さんが求めているのが「おいしい!」という反応であることは見え見えだ。芦川さんのお菓子ぶるまいがエスカレートするにつれ、語り手二人はどんどん「おいしいと言う」ことに背を向け、食を憎む旗印としてコンビニに、カップ麺にしがみつく。
三人のほかにも職場に人はいるが、かれらは大人としてみなあまりに無力である。とりわけ職場の中心となる中年管理職の藤さんはひどく、昭和の「腰掛け女性歓迎」モードと令和のコンプライアンス遵守がないまぜとなって、ほとんど職場の牽引役を果たせていない。それどころか、物語のクライマックスとなる「お菓子騒動」は、上司である彼の無能さゆえに起こったとしか思えない。幼稚園バスですら「おもちゃ持ち込み」はご法度になっているのに。
職場には大人の存在が必要である。ただ、それは二谷さんが言うように「尊敬がちょっとでもないと、好きで一緒にいようと決めた人たちではない職場の人間に、単純な好意を持ち続けられはしない」からではない。同僚であれ上司であれ、社員であれパートであれ、ちょっとした違和感でこちらをクスッとさせてくれる相手に、人間は弱い。競争状態に入る以前の段階で、二谷は「いたわり」を学ぶべきだった。
「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね」と押尾さんはうそぶき、昔持っていたはずのものを手放すことが「成長」だと言う。彼女の中身は体育会系で、やめずにがんばるのが「仕事」だと思っている節がある。自分の「イヤ」を押し殺していると、人は考えるよりも感じることに傾きがちだ。せっかくの意識の高さを、今後は多様性に振り向けるのがいいだろう。
大人のいない職場の葛藤は、崩壊した教室を投影したものとしか思えない。「意識高い系」と「善意押し売り系」の部族間ファイトを止めることすら、現代の職場ではコンプライアンス違反になるのだろうか。
ジュリア・クリステヴァは、『恐怖の権力』で「食物への嫌悪は、アブジェクションの形態のうちでも一番基本になる、最もアルカイックなものであろう」と指摘した。食物嫌悪という意味で、押尾さんと二谷さんは大いにテツガク性を発揮しているわけだが、一つ大いに違う点がある。
クリステヴァ説では、<私>にとって、(親から)与えられるミルクは、「両親の願望のなかでこそ存在している<私>にとって、<他者>ではありえない」という。そのミルクを拒否するとき、私は「自分を排出し、自分を吐き出し、自分をアブジェクトする」のだ、と規定される。
就職のために文学部への進学を諦めた二谷さんは、「うまくやれそうな人生をえらんだ」自分を、社会人になって何度も思い返す。
押尾さんにとってチアリーディングは「できちゃったからしてただけ」なのに、同級生の結婚式で高校時代と同等の演技ができないことを悔しがる。二人に共通しているのは、大好きな<私>を汚したくないという心情だ。
三人のなかで最も「自分をアブジェクト」するのは、実は無思慮・無反省のかたまりにみえる芦川さんだ。一人だけ自宅から通勤する彼女には、一人暮らしの二谷さん・押尾さんとちがって家族の影が濃い。会社を早退してお菓子をつくる娘、一人では犬の面倒もみられない姉に対して家族は諦めの壁を築いてはいなかったか。それゆえ彼女は甘い菓子に託した自分を世界に吐き出し続けたのではなかったか。
そうはいっても、日々バスの乗降で見る現実の園児たちは、男女を問わず一人残らず涙ぐましいぐらい母親が大好きだ。クリステヴァは、食物嫌悪を「アルカイック」なものとしたが、現実には自我やナルシスの確立する第二次性徴に伴って現れる現象なのだろう。幸い幼児たちはまだ、そこまで鏡とお友達でもなく、自己嫌悪の言葉も知らず、母親に向かって両手を広げて駆け出していく。いつか失われるからこそかけがえない後ろ姿を日々見送るわたしは、「おいしいごはん」のあったおうちを回顧してみたりする。
※読み解く際に使用した「編集の型」:編集八段錦、注意のカーソル、メタファー
「型」の特徴: 「編集八段錦」は、生物の受精卵が外部環境に独立していく様子にもどいた8段階のエディティング・プロセス。たとえば最初の「区別をする」は情報単位の発生段階として、「注意のカーソル」を用いる。これは、生物の受精卵に卵割がおこり、しだいに割れ目や陥没が生じるステージとして、トータルな原腸状態になることが必要であるのにならい、「できるだけ意図を持たないで情報単位を立ち上げる」ことが重要とされる。 「メタファー」は、とりわけ第7の「含意を導入する」段階で、対称性の動揺と新しい文脈の獲得のために欠かせない。
おいしいごはんが食べられますように
著者: 高瀬 隼子
出版社: 講談社
ISBN: 9784065274095
発売日: 2022/3/24
単行本: 162ページ
サイズ: 13.5 x 1.6 x 19.5 cm
大音美弥子
編集的先達:パティ・スミス 「千夜千冊エディション」の校正から書店での棚づくり、読書会やワークショップまで、本シリーズの川上から川下までを一挙にになう千夜千冊エディション研究家。かつては伝説の書店「松丸本舗」の名物ブックショップエディター。読書の匠として松岡正剛から「冊匠」と呼ばれ、イシス編集学校の読書講座「多読ジム」を牽引する。遊刊エディストでは、ほぼ日刊のブックガイド「読めば、MIYAKO」、お悩み事に本で答える「千悩千冊」など連載中。
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