発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

♪♪♪今日の舞台♪♪♪
田中泯さんの踊りには、「いまここの生」を感じました。松岡正剛さんの『外は、良寛。』(講談社文芸文庫)のフラジリティには撃たれ、杉本博司さんの設えには魅せられ、本條秀太郎さんの三味線と歌声にはうっとりしました。石原淋さんや三人の若い踊り手たちも輝いていました。それにもかかわらず、僕は、踊り部田中泯「外は、良寛。」には、なぜか大満足とはなりませんでした。
2022年12月の僕はそこから年末までビッチリ忙しく、「外は、良寛。」のことを考える余裕はありませんでした。年が明けて元旦、ようやく一日ゴロゴロとして仕事をしない日を迎え、夜に2023年の初風呂に入りながら、ふと愕然としたのです。「ああ、僕の見方が間違っていた」という気づきが、突然僕の心をよぎりました。
ものすごくおおざっぱにいえば、世の中の表現には、完成度の次元で測れるものと、測れないものがあります。前者に対しては、「あのお芝居は、あのダンスは、あの絵は、あの映画は、ここが良い/悪い」などと語ることができます。多くの表現はこちらに属します。ところが、ときどき後者の表現があります。最もわかりやすい例を挙げれば、マルセル・デュシャンの「泉」とか、ジョン・ケージの「4分33秒」です。こういうものを完成度うんぬんで語ることにほとんど意味はありません。これらの表現をはじめて前にしたとき、僕らはただ戸惑い、自分の見方を大きく変えない限りは理解できないことを悟るのです。
元旦のお風呂に入りながら、「外は、良寛。」は前者ではなく、後者なのだ、と僕は見方を改めました。
僕はこれまで、「外は、良寛。」のように<物語ではない著作を舞台上に立ち上げた表現>をほぼ見たことがありません。僕は別にすべてのダンスを網羅しているわけでは全然ありませんから、きっと僕の知らないところに何か前例はあったでしょう。でも、めったにないことは確かです。僕が知る限りでは、数年前に、土方巽『病める舞姫』を上演するという企画がありました。僕は2022年に黒田育世さんのバージョンを楽しみました。ただ、土方さんは舞踏家で、『病める舞姫』はそれ自体が「言葉の舞踏」と言われるような著作です。もともと踊ることを求めているような例外的な文章なんですね。『外は、良寛。』とはずいぶん質が違います。
当然ですが、『外は、良寛。』は、踊りのために書かれたものではありません。物語でもありません。はっきりいえば、そういう本を踊るなんて、傍目から見て無茶なのです。見る側はそんなものを見たことがないのですから、誰もがある種のとまどいを覚えたはずです。無論、僕は『外は、良寛。』を事前に読んでいましたが、それでも、この舞台の楽しみ方が即座にはわかりませんでした。とまどいがあったからこそ、その場では十全に満足できなかったわけです。正直なところ、いまもこの舞台をどう語っていいのか、よくわかっていません。
ものすごいのは、田中泯さん(77歳)、松岡正剛さん(78歳)、杉本博司さん(74歳)が、完成度の次元で測れないようなものをつくり上げた、ということです。前例がほぼないわけで、最初から最後まで手探りのクリエーションだったはずです。でも皆さん、その無茶を自由に楽しんでいるように見えました。踊り部田中泯「外は、良寛。」は、先達たちの創造の宴だったわけですね。僕らが一番に受け取るべきは、その事実そのもののような気がします。
この舞台から最も刺激を受けたのは、きっとつくり手の皆さんではないでしょうか。自分も負けていられない、と思ったつくり手が多いのではないでしょうか。そして、この舞台から刺激を受けた誰かが、別の何かをつくったとき、「外は、良寛。」を語る言葉が少しずつ固まってくるのではないか、という気がしています。
★
さて、擬メタレプシス論はこれで終わります。「外は、良寛。」の最後は、田中泯さんの「気がつけば、外は良寛ーー、良寛だらけです」という言葉で終わりましたが、同様に「気がつけば、外は擬ーー、擬だらけ」でもあります。物語のなかに擬を見出す作業は、あとはぜひ皆さんに取り組んでいただけたらと思います。お付き合い、どうもありがとうございました。
米川青馬
編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。