学ぶとは、歩くとは。花伝所の「伝」から辿るイシスの問感応答返。【41[花]入伝式・深谷花傳式部メッセージ】

2024/05/18(土)12:00
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編集稽古をしていると「師範代はどうしてあんなことができるんですか?」と驚く学衆がよくいる。イシス編集学校の師範代は、学衆ひとりひとりの思考を徹底的に「方法」として捉えることで、そこにどんな見方や可能性が潜んでいるのかを見抜けるからだ。松岡正剛の編集工学のエッセンスが凝縮した高度なコーチングスキル。それを集中トレーニングするのが「ISIS花伝所」である。5月11日、第41期[花]入伝式で、花伝所の講座ディレクションをつとめる花傳式部・深谷もと佳はいくつかの問いを入伝生に投げかけた。

 

 

伝の文字から浮かびあがる姿

 

ひとつ目の問いは「学ぶとはどういうことか」。基本コース[守]、応用コース[破]を了え、花伝所の門をくぐった入伝生は28名。それぞれなにかを学ぶために花伝所にやってきたはずだ。学んで知識や技能を身につけるということは、時間的・金銭的コストの節約につながるという一面もある。学びを積み重ねていけば、考えずに済むようになるのか。

 

「どんなに学びを積み重ねても、いや、積み重ねるからこそあたらしい場面や情報と出会っていくもの。学ぶものの姿は、ある漢字にあらわれています。」深谷はチョークを持って黒板に向かった。

 

 

黒板に書かれたのは「傳」の文字。花伝所の「伝」の旧字体だ。人偏の右側の「專」は袋の中にものをつめこんだ形で、人が大きな袋を背負って歩く姿を「傳」という。サンタクロースの姿を思い浮かべる人もいるかもしれないがそうではない、といって深谷は1冊の本を取り出した。

 

 

スコットランドのアバディーン大学で教鞭を執る人類学者ティム・インゴルドの『人類学とは何か』(亜紀書房)。何年か前の感門之盟で、松岡校長から第33期花伝所の指導陣に贈られた本である。フィールドワークをしていたインゴルドは、「歩く」と「運ぶ」の違いを入口に思考を重ねていった。「歩くことと運ぶことはどう違うのか」これがふたつ目の問いだ。

 

 

歩くことは生々しい

 

運ぶことの特徴のひとつは「行き先が決まっている」ことだ。予め定められた目的地に物事を移動する行為といえる。往々にして最短最速の直線的な移動であり、移動する物事の基本的な性質がなるべく変化しないことが求められる。一方、歩くとは「もっと生々しい出来事」だと深谷はいう。歩く者は身をもってあらたな空間に移動しなければならない。行く先々で視界が変わり、不意になにかと遭遇し、即興で対応しながら最終目的地を持たずに絶えず動いている状態である。

 

「つまり、歩くということは世界の問いかけに応答し続けること。生きるというプロセスそのものだとインゴルドは述べています。編集学校の言葉でいえば、問感応答返の〈問感応答〉にあたること。これからはじまる花伝所の式目演習を通じて〈問感応答〉し続けてください。そしてその先の〈返〉に向かってください。」

 

〈問感応答〉し続けるとはどういうことか。〈返〉とはなにか。最後に大きな問いを受け取った入伝生たちは、問いを携え、迷いと気づきのもつれあう花伝式目8週間の学びの道を歩きはじめた。歩きながら行き先も変われば歩く者自身も変容する、千”編”万化の編集道を。

 

松岡校長による〈問感応答返〉のハンドライティング

 

Photo:宮坂由香

 

 

 

 

  • 福井千裕

    編集的先達:石牟礼道子。遠投クラス一で女子にも告白されたボーイッシュな少女は、ハーレーに跨り野鍛冶に熱中する一途で涙もろくアツい師範代に成長した。日夜、泥にまみれながら未就学児の発達支援とオーガニックカフェ調理のダブルワークと子育てに奔走中。モットーは、仕事ではなくて志事をする。

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。